2月4日『Nothingness』
時計が正午を回った辺りで妹が出社した。
俺はベッドに腰掛け、自分の足をマッサージしている。
血の巡りを良くしてやって、寝ている間、じっとしている間に流れの悪くなった血管と筋肉をほぐしてやるのだ。
本来は姿勢を変えたり足を持ち上げてやるだけで
一番多いのは寝ている時なのだが、何気なくぼーっとしているだけで、気付くと数時間が経っている、ということが今でもある。
だから定期的にマッサージをしてやって、今後の褥創予防も兼ねている訳だ。
「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ、さ、し、す、せ、そ、とぁ、ち、つ、て、と、のぁ、に、ぬ、ね、の、は、ぃ、う、へ、ほ、ま、うぃ、む、め、も、や、うぅ、よ、ろぁ、ぬぃ、ん、るぇ、ろ、わ、を、ん」
俺以外誰も居ない狭い部屋で、顔と舌の筋肉を鍛えるトレーニングをする。
もう身体が全快して長く経つのに、未だに舌は前のように動かない。
本来鍛えるのが容易ではない上に、この身体になってからは暫く口を動かすことすら出来なかった。
一度極端に筋肉が落ちると、取り戻すのには信じられないくらいの時間がかかる。
体力には自信があったが、包帯が取れ、痩せ細った自分の身体を検査室で見た時はおぞましい姿にゾッとした。
包帯が取れるまでの期間も決して短くなかったし、楽な日々ではなかった。
病院のベッドに横たわり、身体どころか頭部まで固定され、顎の周りにはよく分からない金属器具。口には呼吸器、腕には点滴の針。
意識だけはハッキリとしていたが、それは止まない痛みの鈍い所為であり、自らの意思で動くことすらできなかったし、身動き一つ取れないストレスの中で自らの不注意をただ呪うことしかできなかった。
看護士の人が褥創を防ぐために定期的に身体を動かしてくれるのだが、あまりの痛みに音に成らない悲鳴を何度もあげた。
身体の痛みが月日とともに薄れ、呼吸器や顎を固定していた器具が外された後に驚いたのは、これまで自分がどうやって喋っていたのかが思い出せなかったことだ。
口は何とか動かせる。
口から音を出すこともできる。
しかし、言葉に成らない。単語に成らない。一音に成らない。
「うぉ」
「うぁ」
「うぅ」
「おぉ」
言葉に、単語に、一音にすら成らない音が自分の口からただ漏れ出すだけだった。
何故喋ることが出来ないのかが理解できない。
いや、本当のことを言うと、医者からは前もって言われていたのだ。
『顔や下の筋肉が衰え、最初はまともに話すことすら出来ません。しかしリハビリすれば次第に回復します。だから、今は足のことは忘れそちらに注力しましょう』と。
分かっていた。
解っていたと思っていたが、現実は俺の予想の遥か遠い向こうだった。
まるで見たことのない世界に訪れたかのようだった。
どうやって話すのか、口を動かすのか、言葉を発するのか、分からなかった。
いや、ここでもう一つ正直に話すと、実はこれは正しい表現ではない。
真実は、『顔や舌の筋肉が衰えきり、動かそうとしても動かない為に『どうやって動かしていたのか分からなくなる』という錯覚に陥っていた』である。
俺はこれに気付くのに二時間以上を要した。
「うぉ」
「うぁ」
「うぅ」
「おぉ」
「うぉ」
「うぁ」
「うぅ」
「おぉ」
と、何回も何回も、気味が悪くなるくらい続けた末に、ほんの僅かに舌先が動いたような気がして、漸く『あぁ、動く。俺がオカシイんじゃない、俺の身体がオカシクなったんだ』と気付くことができたのだった。
一人で起き上がることが出来る。
一人で正しい姿勢で寝そべることが出来る。
車イスに乗ることが出来る。
車イスからベッドに移ることが出来る。
一人で排泄の仕度が出来る。
一人で排泄の処理が出来る。
一人で室内を動けるようになる。
一人で外に出掛けるようになる。
自分で他人に協力をお願いすることが出来る。
自分で出来ることと出来ないことの分別がつく。
ここまで辿り着くのに半年以上を要した。
半年を掛けて、自分という人間がいかに迷惑な存在になってしまったのかを知った。
これが、二度目に本当に死を考えた時だった。
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