P.S.誕生日おめでとう。

灰原標

プロローグ


 暗闇が広がる。まるで宇宙を歩くようだ。足裏が地面を踏みしめる感覚などなく、ふわふわとした綿のような空気のうえを、一本橋を渡るかのような不安定な歩き方。ときおり上半身が前のめりになったりするが、この綿空気のおかげで私はここで一度も転んだことがない。肌にまとわる温度はぬるま湯につかるような心地よさで、しかし空腹や睡魔などの人間の欲求が面白いほどなくなったここでは、とにかく快適以外のなんでもない。墨汁でなんでもかんでも真っ黒に着色した毛布の中で手足を動かしている。そんな感じ。

 実を言うと、私はどうしてここにいるのか、どこへ向かって歩を進めているのか、ひとつも理解できていない。ただただ、進まなくちゃ。思考を放棄して本能のままに歩けば、きっと答えは後からついてくるに違いない。私は私に言い聞かせて、この真っ暗闇を歩き続ける。もしかすると歩いていると思っているのは私だけで、他人から見た私はずいぶんと滑稽に踊り狂う酔っ払いかもしれない。なにしろここは前に伸ばした腕の指先も、ましてや自分の鼻先すら見えないくらいの真っ暗闇だったのだから。

 ――ここは夜の世界なのよ。

 となりから声がした。少年のように高く、そしてまっすぐな声だ。その声音だけで人物を思い描くとしたら、彼女はきっと勉強も体育も平均的だけれど、なぜだかクラスの誰からも好かれるような学級委員。しかしそれはあくまで声だけの予測で、実際の彼女の姿は背伸びをした少女だった。真っ黒な髪は肩で内側にくるんと跳ね、白いブラウスと赤いプリーツスカートはほっそりした発育途中の身体をずいぶんと大人っぽく、そしてずいぶんと子供っぽくしていた。

 彼女はゆきんこだと自ら名乗った。名乗ったというより、彼女の一人称がまず「ゆきんこ」だった。私はそんな彼女を知っていた。きっと、いや、絶対に世界で一番彼女を知っていた。だから私も彼女に名前を問うことはしなかった。彼女も私の名前を問うことはしなかった。

 私はこの暗闇で唯一目に映る彼女に向けて、言葉する。

「何言ってるの、ここはただの暗闇だよ」

「セツナには暗闇にしか見えないの?」

 ゆきんこは何も見えない暗闇の先を、まるで何かがあるようにまっすぐ見つめながら問う。私は再び言葉する。

「見えるも何も、ここはただの暗闇だよ。むしろどこに夜の要素があるの、世界の要素があるの? あるとすれば黒か、暗闇か、井戸の底程度なものだよ」

 井戸の底でも一点の光ぐらいはあるだろうけど。思いながら、あえて口に出さなかった。

 ふと、白い人差し指が前に伸びる。ゆこんこの目線の先に伸びる曲がらない人差し指。私もその先を目線で追った。

 もしかすると、ゆきんこは幽霊に類する存在なのかもしれない。だからこんな暗闇で、彼女はこんなにも明るくまぶしい。そのまぶしさが私は苦手だった。水の中に入ってさえ屈折しないような光が、私は嫌いだった。

「あそこには月がある」

 私は目を細め、眉間にしわを寄せて「どこに?」と聞く。ゆきんこは「そこだってば!」と家事のできない父親に物申す娘のように唇をとがらせた。

「なにもないけど。その月ってやつは、もしかして卵子程度の大きさなのかな」

「らんし?」

 ゆきんこが首を横にして私を見上げてきたので

「つまようじの先くらいの大きさってことだよ」

「そんなにちいさくないよ。サッカーボールくらいだよ」

「ゆきんこの目は壊れてるの?」

「そうなの?」

「たぶん……」

 曖昧に頷いた私から興味を失ったようにゆきんこは指の先へ視線を戻す。腕をおろすと今度は両手を大きく広げながらジャンプした。彼女の左の中指と薬指が私の腕をかすめ、ああ、私はここにいるんだなと他人事のように思った。

「それでね、月の周りには、こんなにたくさんの星があるの。きらきらしてて、青色に見えるよ。この世界ではアレが電気なんだよ、たぶん」

「私には見えない」

「ゆきんこには見えるよ」

「私には見えない」

 ゆきんこから目を逸らせば、彼女がさみしそうにうつむいて両腕を静かにおろすのが気配で伝わった。わかった。痛いほどにゆきんこのさみしさが。自分の世界を共有してもらえず、ただただ否定されてしまう惨めさが。胸が抉られそうになるほど理解できた。でも、それでも私はゆきんこの世界を共有しようとは思わなかった。だって私は、ゆきんこがこの世でもっとも嫌いだったのだから。

「ねぇ、セツナ」

 ゆきのこのしょんぼりした声がした。私は振り返る。足は依然として止まっていなかった。ゆきんこの足は止まっていた。うつむきがちのゆきんこは言うまでもなく、さみしそうだった。

「セツナには、見えないの?」

 私はゆきんこから目をそらした。前を向き、アテもなく足をひたすら動かした。ゆきんこはずっと私の背中にいた。着々と前に進むにつれて、だんだんとゆきんこの姿がそこから消えてなくなるように感じた。私が否定した分だけ、私がゆきんこを拒否した分だけ、ゆきんこはこの暗闇からふとした瞬間に消えてなくなる。

 最後に振り返ったとき、ゆきんこはいなくなっていた。

 それを確認して、実感して、私は心底安心する。ぬるま湯のなかで呼吸の泡をすべて掃出し、目を閉じて暗闇の底へ沈んでいく。ゆきんこがいない。あの綺麗事製造機はもういない。自己中心的な正論と綺麗事で私の心臓を握りつぶすアイツがいない。

 それがうれしくて、私は闇に溺れた。閉じたまぶたと思考が、もう二度と目覚めないことを願って――。








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