声よ、もう一度 03

 アヌイは思わず息をのみ、動揺を隠すように吠えた。


「何? なんだよ、あんた。あたしのどこがロバに見えるっていうんだ」

「何、だと? お前は俺と同じでありながら俺の事を気づけぬのか?」


 次に発せられた声は男の声だった。

 見れば、変化したのは目だけではない。顔つきも表情も、幼さ特有の無邪気さはえも言えぬ不気味さに変容している。

 アヌイは思わずブラから手を話した。彼女は受け身を取ることをせず、臀部から地面に着地した。胡坐をかきながらアヌイを見上げる姿はニヤニヤと、たちの悪いイタズラをした思春期の女のようであった。


「あたしは知らない。あたしがあんたと同じなわけがない。だってアンタは人――」


 アヌイが全てを言い終わる前にブラは彼女に飛び掛かった。

 顔を殴られる。条件反射で腕で顔を守る。叩きつけられた拳は幼女とは思ないほど重い。オリヴァの身を固めた金属の手甲が鈍い音を立てて凹む。金属越しに伝わる、響きわたる痛みにアヌイは思わず目を丸くした。

 笑うブラは着地すると、注意散漫になったアヌイの足を払う。彼女は思わず後ろへのけぞる。バランスを崩したアヌイの腹部は無防備だった。ブラは鎧ごと腹部を打ちぬくつもりで一歩を踏み出す。


「調子にーーのるなああああああああ」


 アヌイは舌打ちと共にたたらを踏む。腹筋に力を込めて、上体を起こし、腹部を守るように背中を丸めると、重ね合わせた握りこぶしを、脳天に叩きこんだ。

 ブラの体が地面に沈む。彼女はそれでも腹部を打ちぬくつもりだ。

 アヌイもならばと、誘うように腹部を無防備に晒す。だが、無策ではない。ブラの手が腹部を打ちぬこうと伸びるとき、折りたたんだ膝がブラの頸椎に叩きこまれた。

 頸椎を折れば動きが止まる。膝に伝わる感触、音は確実に頸椎を折る音そのものであった。

 けれども、ブラの動きは止まらない。彼女の腕が腹部を打つと、口から透明な液体が迸った。

 肉体の苦痛がアヌイを責め立てる。彼女の策は失した。敗北、すなわちオリヴァとアヌイの死の到来。アヌイは恐怖した。死の恐怖と、目の前にいるモノの正体が知れないこと。

 弱気になる彼女は「やはり」と判断するほかない。目の前にいる存在。彼女の身に宿しているのは自分と同じ魔獣。


「なぁに? 野生の生き物に鎧兜は重いか?」

「うるさいっ!」


 ブラの声が幼女から男性へとグラデーションのように変化していく。

 ソレはアヌイを誘っていた。「早く自分の名前を呼べ」と。彼女にバラまいた多くのヒント。ロバでもわかるように。という配慮までしている。だが、彼女はソレの撒く疑似餌に食いつかない。

 小さな体が自然の中でキリキリと働きバチのように舞い、アヌイに襲い掛かる。体が触れ合うたび、「言えば楽になる」と囁く。アヌイは声を無視し、ブラの肉体を破壊せんとばかりに体を動かす。だが、どうしても彼女の予想通りに体は動かない。

 肉体の主の体の線が細すぎること。また金属の鎧兜は、自然の中で動くには重すぎた。


「お前は強情だな。いい加減に認めたらどうだ?」

「うるさい。お前が誰だろうが何だろうがあたしには関係ない。変なことばかりを囁くな。気持ち悪い」

「お前はそうかもしれないが、あえて言わせてもらいたい。。僕は再びトリトンの地に。スナイルの国に戻ってきた。僕から奪ったものを取り戻すために、ようやく。ようやく戻ってきたんだ」


 アヌイはその名前を聞き、自分の中にあった勝利が消えていくのを実感した。相手は、本物の獣の聖剣使いだった者。聖剣の力を身に宿し、呪いとして姿を魔獣に変えた聖剣使い。彼は、正当な聖剣使いにして正当な魔獣。まがい物の彼女アヌイが本物を相手にするには分が悪い。


「だから何だよ。お前がどうして本物のコトウって言えるんだよ。それに、ガキの体に入り込んで良い気になってるなんて聖剣使いといえどもたかが知れてる」

「たまたまだよ、ロバ。彼女の魂が僕を呼び寄せた。それだけだ。君が自分の存続を願い、その男の体に取りつき魂を一体化させているだろう。それを面白いと思ってね。ぼくも自分の存続のため彼女の体を借りている。奪ったものを取り戻すためにね」


 アヌイは重心を下げる。

 どのようにしてこの場面を切り抜けるかで頭が一杯である。勝機を見出すとすれば青年と幼女、この体格差だ。近接戦の場合、ブラの瞬間的爆発力でアヌイが屈する可能性がある。一方長期戦に持ち込めば話は別。体格差は体力の差になる。オリヴァのように若い男性の体は体力のピーク。一方ブラの体はこれから成長の過程に入る。瞬間的な力は発揮できてもそれを維持することは出来ない。彼女はそこに狙いを定めた。


「知らない。そんなに奪い返したいんなら取り戻しにいきなよ。取り戻せるうちに取り戻さなきゃ、取り返しがつかないことになって泣きをみるのはアンタだ」


 アヌイはそういうと手を差出し、中指だけを天に突き立てた。あて挑発することでブラの体力を消耗させる算段だ。


「私はそのガキが気に食わない。人間でも魔獣でもない中途半端やつに仕立てた奴も、利用した奴も気に食わない。だから、殺す」

「君も同じだろ? ロバ」

「あたし? あたしは違うさ。あたしは魔獣。コイツは人間。魂は交わりあっても自分の役割ってもんは混同しない。コイツはコイツなりに人間として生きている。自分の顔に魔獣の皮がへばりついていても、それまでも利用して人間として生きあがこうとしている。こいつの考え方は嫌いだが、生き方だけは見てみたい」


 アヌイもオリヴァも裡なる部分で背中を合わせている。相手に干渉しない。しかし、隙を見せたら抑え込む。そういう関係だ。そのような関わり合いの中で、わかることが多い。心臓の動き方ひとつで喜んでいる、悲しんでいる、悔しがっている。動揺しているなど、感じることが出来る。アヌイはオリヴァの裡で眠っている間でも彼に浴びせられた言葉を聞いた。人間は醜いと思う半面、自分は「人間だ」と胸を張るオリヴァを認めていた。

 人間であると高らかに叫び、人間として悩み生きる姿は、彼女の愛したリーゼロッテと似ている。リーゼロッテは道を間違え失意のうちに自殺した。

 では、彼はどうだ。彼も「人間として禁忌を侵した」と認識している。この認識で彼はどう生きるであろうか。アヌイはロバで魔獣だ。難しいことは分からない。だが、その環境下で生きる姿は人間も魔獣も一番たくましく美しいと思っている。


「あたしは決めてるの。あたしのことをロバって言う奴は容赦なくぶち殺す。私はロバのアヌイじゃない。今の私はなのさ」


 アヌイは重心を下げ、いつでも動ける体制を取る。持久力が勝負。持てよ。とオリヴァの肉体に叱咤する。

 だが、彼女の奮起にかかわらずブラはクスクスと嗤う。


「おばかさぁん。あなた、攻撃的な言葉は頻繁に使わないほうがいいゾォ。あんまりそんなことを言うと、あなた、コトウに負けちゃうかも。って気持ちを表してるようなものよ」


 もう男の声ではなかった。幼く甲高い声とぐぐもった声が入り混じっている。その言葉はコトウだけではなくブラの言葉でもあった。

 アヌイはゾクリと不穏な気配を感じる。見出した勝機を彼等はすでに見抜いているのでは。という不安だった。


「だけどね、もういいの。私のお仕事は終わった。あとはもうおねんねしなきゃ……」


 ブラはそう言いアヌイに背中を向ける。

 チャンスと思う気持ちと罠だ。という気持ちがせめぎあう。アヌイはその場にたたずみありったけの殺気を放ちブラを見つめる。


「あら、殺しに来ないの?」

「あからさまな罠にひっかかるほど馬鹿じゃないんでね」

「その肉体の持ち主、少しは賢いのね」


 殴りかかる気持ちを抑え、背中を睨む。ブラの中からコトウの気配が薄れていく。

 コトウが気配が沈む前、コトウに「何を取り戻したいのか」と聞いてやろうと思ったが、やめた。

 ブラは裸足のまま走る。薄い皮膚は擦り切れ、赤色の足跡が地面に描かれていた。痛みを感じないのだろう。ブラは笑顔のままだった。オリヴァが付けていた仮面を愛おしそうに抱きしめ、唇を落とすと、名残惜しそうにアヌイに投げつけた。


「お兄さんに返してあげて。きっと、それはお兄さんにとって大切なものだから。じゃないとお兄さんが泣いちゃう。お兄さんがかわいそう」


 ブラはそれだけを言うとどこかへ消えていった。

 アヌイは仮面の表面を撫ぜ、ブラが消えていった方角を交互に見つめる。赤く染まる目を細め、ぽつりとリーゼロッテの名前を呟く。

 彼女は世界の表舞台に現れた。彼女の意思と、世界の意思によって。使い潰されて消える末路だけが確定した中で自分はどう足掻くべきなのかを思案する。

 仮面を付ければ、意識はアヌイからオリヴァへと交代する。再び彼女が意識の表に立つシーンは不明である。オリヴァが死んでもアヌイの魂は死ぬことはない。オリヴァと混ざり合ったアヌイの魂は音の聖剣の制約により、新しい依り代の元へ飛ばされブラコトウ調律殺害の為に生かされる。


「本当に、世界って奴は身勝手だな。リーゼロッテ」


 アヌイはオリヴァの声で呟いた。アヌイは仮面を付ける。彼女の世界の輪郭が溶け始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る