声よ、もう一度01
人の気配が感じられない村の中を歩いていた。頭の中では薄い膜が貼られている感覚があった。彼は生存者の発見ならびにその確保を旨としてこうして歩いている。しかしながら、自分の記憶―とりわけ鮮度の高い―にぽっかり穴が空いていることに強い不快感を抱いていた。
自分は誰かと会い、話し、何かを見た。そのような輪郭があるにもかかわらず、肝心要の部分は深い闇の中だ。記憶の断片を集めたい衝動にかられるも、「歩け」と聞き覚えのない声がオリヴァの背中を押す。
「生存者」
オリヴァは言葉を漏らす。彼は、村中に魔物が溢れそれらが共食いする現場を何度も見ていた。道端に残された食いかけの肉は魔獣の食べかすだ。水色の水たまりにいくつも残る手のひら大の足跡は水飲み場にたむろする野獣を想起させる。ともかく、彼が目にする
「だが、それにしても静かすぎる」
オリヴァを捨てて皆どこかへ消えてしまったかのような錯覚に陥る程の静けさである。ニクラスも自分を捨てたのか。と考えがよぎるもすぐに否定した。
彼はハシムの忠義のみに生きる男だ。オリヴァを残し兵士を連れて王都へ逃げ帰ることはしない。むしろ忠義の証として魔獣の首を土産にしたいと喚き散らすだろう。この場にニクラス達の気配を感じて良いのに、姿も気配も感じられなかった。
「まるで分断したかのような――」
オリヴァは言葉を区切った。何と何の分断であろうか。
生と死
人間と魔獣
選良と愚昧
様々な言葉がオリヴァの中で踊りだす。踊りだした言葉たちは彼を手招きする。お前はこのような存在であるべきと記憶の中に言葉をねじりこまれる。生・死・人間・魔獣・選良・愚昧。選ばれた言葉が小さな孔を押し開けるように我先にと入り込もうとする。オリヴァの意思とは関係なく。
だが、言葉は穴に埋まることはなかった。いや、埋められなかった。「歩け」と背中を押す声がねじり言葉を払い落す。その手は異様に白い手であった。
「お願い。誰か助けて」
オリヴァの意識が現実に浮上する。
「誰かぁ」
二度目の声。幻聴ではない。確かに人の声だ。彼は顔を上げ声のするほうへ走り出す。
「誰かぁ。誰かぁ」
すすり泣く声は大きくなる。声と共に彼の目に物体が見える。それは大きな人影だった。
「いた」
人物は膝立ちになり背を丸めている。
「大丈夫か?」
駆け寄り、人物の肩を引いた。だが、その体はあっけないものである。体の軽さに彼は死を理解する。体がぐらりと動くと、力の均衡は失われ後頭部から倒れていった。
倒れゆく男の顔をオリヴァは見た。とても見知った顔で、ついさっき話したばかりの人物であり、彼に村の状況を細やかに伝えてくれた人だった。
「親方」
漏らすような一言の後、彼の体は地面に伏した。触れた皮膚は一片の暖かさを残している。死して時間は経っていない。後悔より、何故、との疑念が浮かぶ。自分はこの人物の死を悼んでいるのか、と自分に問う。
彼と私的に交わした言葉はほんの僅かである。だが、その僅かな言葉でも彼の人柄を知ることが出来た。
情に深く人を思いやり続ける器の大きな存在。溢れんばかりの情は器から零れ落ち、自分の身を焦がしてしまった。贖罪の道半ばでの死。彼の無念は計り知れない。
そう考えると自分は彼の死を悔やんでいるのだ。と認識した。
彼は死者への配慮の多くを知らない。見開かれた目に手をかざし、瞼を静かに落とした。
「
オリヴァは寂しそうに口をゆがめる。あいにく火の剣は携帯していない。安らかな旅路を、と口にするも彼がイグラシドルに下へ旅立つにはまだまだ時間を要するようだ。
オリヴァは親方の手を取り、硬くなった関節を外し手を組む形を作る。胸元に手を置こうとした時、分厚い胸部に一筋の線が入っていることに気づいた。果実をえぐりだすように付けられた線。線を裂くように自分の指を突っ込むと、その部位に
「っっっ!」
オリヴァは思わず後ずさる。彼は親方の顔を見る。驚愕の色に染まっていた。
心臓の鼓動と共に、在りし日のトリトン村であった自分の不幸が蘇る。彼は、消し炭になった魔獣の肉体から取り出された心臓を食べた。煤けた体に差し込まれた白銀の刃。抜き出るのは炎のごとき強さを持った赤色の心臓。親方の胸部につけられた傷跡は、自分が犯した罪とその過程を鮮烈に思い起こさせる。
「俺じゃない」
誰からも責められているわけではないのに、彼は否認した。
「心臓を食らったのは……」
かぶりを振るオリヴァの耳元に質問が飛ぶ。では、誰が親方の心臓を奪い取ったのかと。
その問いに対して彼は沈黙した。心の中で「俺じゃない」と何度も繰り返した。
否定し続けるオリヴァを悲しむようなすすり泣く声が聞こえた。「何故泣かれるのだ」と言い返そうとした時だった。オリヴァはすすり泣く声の意味を知った。
「助けて」と呟いた生存者の声である。
オリヴァは足音で声をこらさぬよう動き出す。
親方の死体から僅かに離れた場所で、一人の少女が膝を抱えて泣いているのを見た。ポロポロと大粒の雨だれを流す少女。ようやく出会えた生存者だった。
「大丈夫かい?」
オリヴァは少女の肩を抱き、彼女と同じ目の高さまで腰を落とした。
少女は泣くのを止め、顔を上げる。こわばった表情のままオリヴァの顔をじっと見つめると顔をぐしゃぐしゃに崩し泣き出して彼に抱きついた。
胸の中でワンワンと泣き叫ぶ少女。背中に手を回し「大丈夫」だと声をかける。彼女の気持ちを落ち着かせなければ、との思いで必死だった。生存者を確保したのは良いが問題はその先だ。彼女を抱きしめたまま他の生存者を探すのは効率が悪い。かといって彼女をこの場に放り出すことは出来ない。妥協案、いや、最低条件でも彼女には自分の足で歩いてもらわなければならない。
「ねぇ、君さぁ」
オリヴァは幼女から体を離して質問した。
「お名前は?」
「ブラ」
ブラは目じりを拭い答えた。そして、まじまじとオリヴァを見るとこう言った。
「お兄さん、もしかして花嫁のお姉ちゃんのおむこさん?」
「う゛っ……」
子供の記憶力は侮れない。すぐさま呼び起される性悪女の顔。二人は仮にもこの村で結婚し夫婦となった。この事実を覆すことは出来ない。平静を保ちながら動揺するオリヴァにケケケと小憎たらしい笑い声を前妻があげていた。
「花嫁のお姉ちゃんは元気?」
「あ、と、とらんは元気……だよ?」
ブラの表情はパァァァと明るくなる。この手の表情で彼女の表情が明るくなる、ということは彼の窮地はまだまだ続くということだ。
「良かったぁ。じゃぁじゃぁもう赤ちゃんもいるん?」
「あ、赤ちゃん?」
「うん。ブラ知っちょるよ。花嫁さんは結婚したら贈り物として赤ちゃんが来るんだって」
「あ゛ーー……」
オリヴァは無邪気な榛色の瞳から逃れることができない。どっちに転んでも確実に痛手が襲い掛かる。万が一彼女がニクラス達と一緒に移動しこの手の話題を振れば、取り返しのつかない風評が王都全体に流れることとなる。花嫁のお姉ちゃんは死んだといえばよかった。果物の皮に足を取られて無様な死を迎えた。と言えば納得するはずだった。と強烈な後悔と共に反省を生かし口を開く。
「あっっ」
その時だった。彼の体にビリリと痺れる電撃が流れた。感じたことのない体内を走る痛み。一度だけではない。二度三度瞬きをするたびに心臓が血液を送り出すタイミングでしびれが走り出す。オリヴァは思わず胸を掴み背中を丸めた。
「うっ……。あぁっ……」
しびれが体全体に走り出す。指先からつま先まで体の末端は痺れで感覚を失いつつある。額に浮かび上がる汗の粒が顔の輪郭を伝うだけでビリリと強烈な痺れが走る。
「大丈夫」
ブラを安心させようと声をあげたが、舌がもつれ綺麗に言葉が出ない。
喉が乾く。強烈に体全体が乾いていく。ブラの顔を見ると彼女の中に流れる血が無性に欲しくなった。どうしてだ。と自身に疑問を投げるオリヴァの目に背後から
「すまないね。ガキの相手はあたしがしてやるよ」
女の声だった。彼女はオリヴァの意識を飛び超えて彼の前に立つ。サラサラと流れる黒髪がオリヴァの視界を奪う。彼女は顔だけを動かし肩越しにオリヴァを見た。そこに立つ女は白い闇であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます