初夜編 深い眠りから覚めたなら35

 森の深い場所に身を沈めても、安定した生活が確保されているわけではない。初めての一人暮らしで、彼女は痛感した。真っ先に襲ったのは食料の確保だ。森の中には木の実が自生している。闇雲に食べてしまえば、将来の食い扶持が減る。おまけに、木の実を好むのは彼女だけではない。動物達もそうである。少ない杯の中で、彼女は動物と争い、時には勝ち、大半は負けた。その為、彼女が食事にありつける日は少なくなっていく。そして、一日の大半を空腹を紛らわすように、静かに目を閉じるのである。

 

 彼女の頭上に6回目の日が上がった。木の実を口にすることは出来ず、しぶしぶコトウの広場まで足を運ぶことにした。

 四ツ足で地面を踏みしめる。めぼしいものがないか。と思っていた時のことである。

 遠くから人の声が聞こえた。

 彼女は、慌てて近くの木に登り、枝の上から人間が通り過ぎる事を待つことにした。

 木の下を通るのは若い男女である。小柄で栗毛で内巻きショートヘアーの女性は男と腕を組み、ケラケラと愛らしい笑い声を上げている。対する男は、女と同年代で色黒の大柄であった。

 彼女は木の上から男の姿をじっと見つめる。いや、睨んでいた。歯を噛み締め、彼らが歩くたび、枝を伝い追いかける。シャカシャカと枝がしなり、葉が複数枚落ちても、彼らは何も気づかない。ただ、枝がしなっている。程度であろう。


「久しぶりやねぇ。こげな風に一緒に歩くのっち」


 女は男の腕に自分の胸を押し付け、喉を鳴らすように言う。


「せやなぁ」


 腕から伝わる柔らかな感触に男はまんざらではないように朗らかに答えた。


「仕事は、今は大丈夫なん?」


 すると、男の顔は途端に強張った。


「ん……。問題ないばい。今はあの家は解体しちょるけど、ゆくゆくは御堂も……。っち言われちょる。せやけんど、コンラッド様が何か考えてちょるみたいでな。日程とかそげなとこまでは言っちょらん」

「そっかぁ」


 不機嫌な男の顔につられ、女も悲しい表情を浮かべた。チラチラと男の機嫌を伺うように、視線を動かすと、言いづらそうに口を開く。


「わ、私はね。あの御堂で結婚式上げたかったと。バァバが作ったなウェディングドレス着て。赤い絨毯ば歩いてね」


 女は、一度そこで息を止める。そして、空を見上げ、太陽に左手を翳した。掌は光を受け、甲は影を作る。光と影の淵をなぞるように、薬指がキラキラと輝く。傍らに立つ男は、目を細めて光を見つめる。


「リーゼロッテ様に祝福してもらいたかった。私達のこれからと、この子の将来を」


 そう言うと、左手は、下腹部に触れる。まだ平らではあるが、胎からの温かみを確かに感じ取っていた。


「ねぇジェフ」

「なん?」

「教えて。あなたは本当にリーゼロッテ様と何もなかったの? 村の人が言うような関係ではないよね。貴方はリーゼロッテ様の一件に関わってないよね」


 女は悲しげな表情でジェフの服を掴む。服を引きちぎらん勢いで何度も何度も激しく揺すった。


「関わっちょらん。関わっちょらんけんが、落ちつ――」

「この子に、誓っても言える?」


 女の語尾は荒い。男の手を自分の下腹部に押し付け、宣誓を強要する。汝、己の良心に従い、真実を述べよと。


「今ならまだ間に合う。この子をね、嘘と血でまみれた手抱いて欲しくない」


 ジェフはごくりと唾を飲み込む。女は厳しい顔つきで彼を見ている。木の上の緋色の目も黒い眼をした男の答えを待っている。人間とバケモノ。そして、未知なる者が一人の男に熱いまなざしを注いでいる。


「お、俺は……」


 ジェフは一度言葉を区切る。答えに間を持たせ、そのままの勢いで答えた。


「誓おう。俺は何もしていない。リーゼロッテ様にお前の結婚の事で相談はしても、村の人たちが言うような事は決して……」

「本当? 本当にしちょらんのね」

「あぁ。本当だ。信じてくれ。俺は何もしちょらん。何もだ。リーゼロッテ様の事だって迷惑しちょるぐらいばい。もしも、ばい。もしも、俺が嘘をついちょったなら、俺はどのような罰だって受ける。あぁ。受けるばい!」


 風がヒューヒューとはやし立てるように鳴いた。男の言葉を聴き、女はジェフの服から手を離す。真剣な眼差し。取り返すことは出来ない。一言を彼は言った。


「分かった。私は、貴方のお言葉を信じる。信じるから、子供だけには、迷惑をかけないで」


 納得する者がいる一方で、納得しない者もいる。木の上の緋色だ。

 なぜ。なぜ。と疑問が、ソレの頭の中を覆う砂嵐をかき消す。ソレは自分の内なる憤怒が何なのかようやく理解できた。どうしてこの二人を追いかけているのかの理由もはっきりとした。彼女は何をすべきであるのかを悟る。自分の生きる意味を知る、生への絶叫を上げた。


「AAAAAAりゃAAAAAADAAABAAAAA」


 枝の上で飛び上がると、そのまま地上に降り立つ。

 ドスンと両足で踏ん張り、腰を深く落とす。落ちた衝撃で砂や小石は一瞬、宙に浮き砂埃を上がる。

 沈むソレの顔。だが、前髪の隙間から紅蓮の炎を思わせる瞳がはっきりと二人を捉えていた。


「ヒッ」


 誰かの小さな叫びに、ソレは反応する。双眼で男の姿を確認すると、低い大勢のままジェフに向かって突進した。

 細い身体では想像がつかない。いや、先程まで空腹に喘いでいたとは思えないほど、彼女の身体には力が沸き立っていた。男の身体にタックルし、倒れることも許さず、頭を掴んでは、近くにある木の幹に顔を叩き込む。ミシッと木の軋む音に混じり、耳をふさぎたくなる音が聞こえる。

 彼女は、念押しにジェフの顔を木の幹に捻りこむ。彼は、力なく、膝を着くと、幹に赤く太い線を描き、ズルズルと倒れこんだ。


「ジェフ!」


 女は絶叫に近い声をあげ、彼に近寄る。だが、それ以上は生かせぬと、手が伸びた。


「行かせて下さい。寄らせてください。私は、この人の妻です。お願いですから!」


 女の願いを彼女はゆったりとした動きで首を横に振る。


「何故なのですか。何故なのですか! ど、どうして貴女様がこのような事を……。聖女様ぁ!」


 女の目にはソレがそう映った。

 血管まで透き通りそうな白い肌。丸みを帯びた顎。げっ歯類のようなクリクリとした目。背丈も顔つきもリーゼロッテそのものだ。ただ、以前の彼女と異なるのは、全裸で胸の谷間は黒い沁みで汚れている。そして、目が緋色に輝いている事である。


「彼は言った。嘘をついているならどんな罰を受けると」

「せ、聖女様。ま、まさか。それだけのために蘇られたのですか? ほ、本当に彼の嘘を罰するために? 戻られたのですか?


 ソレはジェフの顔を掴む。呻くような声を最後に妻へ聞かせた。


「帰れ……」

「えっ?」

「帰れと言っている。私はお前の知っている聖女リーゼロッテではない。聖女リーゼロッテは殺された。死んだ。お前達、人間の手に。無残に。追い込められて。ジワジワと死ぬように追い込まれた。だから、殺す。そうした奴らを殺す……」

「聖女様……」

「だが、お前は帰れ……。お前は、何も知らなかった。だから、お前は殺さない。だから、帰れっ!帰っても、村に帰ってしまえ!」


 バケモノは後ろを振り返らなかった。森を奥へ進むたび、女のを夫を呼ぶ声が聞こえる。「ジェフ」「ジェフ」と切ない声が響く。バケモノはその声を聞いて笑っていた。口角を上げ、赤い泡を吹く男に優しく声をかける。


「聞こえるか? 聞こえるだろう? 私は優しいからお前の妻の声を聞かせてやった」


 そう言うと、すぐに彼を耳を引きちぎるのであった。

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