初夜編 :深い眠りから覚めたなら29

アヌイは、不審な音を耳にし、目を覚ました。周囲まだ暗い。試しに、頭をもたげてみた。頭上ではキラキラと星が瞬いている。まだ夜だ。それなのに、ガサゴソと、心を不安にさせる音が響いていた。面倒だと思い、ロバは目を閉じる。気づかないフリをしても、アヌイの耳に、音はキチンと届く。


(あぁ。めんどうくさい。なんなのよ一体)


 アヌイは閉じていた目を開き、大きくアクビをした。

 ロバはゆっくりと立ち上がると、頭を左右に振り、主人が眠る家を見つめる。窓からは、光は溢れていない。けれども、ロバの耳には不穏な音が届いてくる。“ナニカ”の気配を確かに感じた。

アヌイは足音を殺し、裏の勝手口に回る。そこには、アヌイ専用として、主人が開けた穴がある。屋内と屋外を隔たる短い布に頭を突っ込み、ゆっくりと、室内へ一歩踏みこむ。

 室内。いや、この家はいつの頃から、異臭がするようになった。動物特有の排泄物を纏う臭いではない。この世にある生き物ナマモノが傷み、腐りゆく臭いだ。

 室内を一歩あるくだけで、腐臭は強くなる。


ガチャガチャ。ペチャペチャ


(あぁ。やっぱり音がする)


気持ち悪い音は、異臭の発生源である炊事場から聞こえてくる。

 アヌイは息を止め、耳を伏せて炊事場へ向かう。

 アヌイとて、主人が普通であれば、夜中に主人の居宅に足を踏み入れない。

 ジェフとの一件後、主人 リーゼロッテを売女とののしり、性的サービスを強要する男が後を絶えない。追い払っても、うじが湧き出るようにして男達は事欠くことなくリーゼロッテに卑猥な言葉を投げつける。だが、それは昼間で、人の目が届く範囲の出来事だ。

 今まで、リーゼロッテの家まで押しかけてきたものはいない。しかし、今夜勘違いした男が主人を襲わない。という保障はどこにもない。

 アヌイの頭に、先日、リーゼロッテに言葉をぶつけた脂肪の塊のような男を思い出す。


(リーゼロッテに何かしてみろ。私のご自慢の大きな歯でお前の息子をすりつぶしてやる)


  自分は愚鈍なロバではない。と言いたげに白い歯をむき出しにし、炊事場に入る。

  炊事場の窓から、月と星の光が幾重にも差し込んでいた。

 光は、人影を照らす。黒い影が伸びたように、黒髪が流れていた。薄い皮膚。血管が透けて見えそうなほど、白い肌。丸みを帯びた身体のライン。全裸の女性が、身体を丸めて、臀部を振りながら野菜箱に顔を突っ込んでいた。

 この部屋には男はいなかった。という安堵はアヌイにはなかった。

 腐敗が進んだ野菜は、形を崩している。ジュクジュクと柔らかい肉からは、濁った汁が滴り落ちていた。女性は、素手で野菜を掴んでは汁を啜り、肉を食み、手首に付着したカスを舌で舐め取る。テーブルマナーなど、野菜箱の奥底にでも捨てられている。下品で、まるで野獣の食事を見ているようだった。吐き気を催す臭いを気にせず、彼女は一心不乱に食事をする。その姿に、アヌイの表情は引きつっていた。


「リーゼロッテ!」


 後姿だけで、誰なのかすぐに分かった。アヌイの悲鳴に、野菜箱から、顔を覗かる。自分を見つめる主人の顔。白い肌には、赤やら黄色やら茶色やらくすんだ色を口周りにべったりと付着させている。幼女ですらこんな下品な化粧はしない。

 リーゼロッテは動揺した表情だった。目を瞬かせ、慌てて野菜箱の蓋を閉める。そして、何事も無かったかのように口元を拭った。


「あ、アヌイどうしたの?こんな時間に。しかも、叫んで。近所迷惑になるわよ」

「あんた、何しているの?」

「何しているのって。わ、私……。私は何もしていないわ」

「なっ。なんで……」


 リーゼロッテは立ち上がり、両手を広げ、何も無い。とアピールする。けれども、手は汚れている。汚色にまみれた手を彼女は凝視する。彼女の鼻腔にツンと青臭さが鼻につく。臭いは、彼女の手からも放たれているのだ。その汚れも、臭いすらも、隠すように、太ももに手をこすりつけながら、笑顔を浮かべて話を続ける。


「わ、私はね。なんでもないの。ほんとだよ」


 太ももに、べったりと汚色をつけると、綺麗になったとアピールするように手をパンパンとはたく。そして、彼女はアヌイへ一歩近づいた。アヌイもリーゼロッテに近づく。しかし、二人の間には、言いようのない溝のような隙間がある。溝に決して立ち入らぬよう、言葉を交わすのだ。


「あのねっ。私、すごくおなかが減っていたの。自分でもわからないぐらいに、ぐぅぐぅってお腹が鳴くから。そうだ。シュンケのおばあちゃんの野菜を食べようと思って食べていたの。すごくすごーく美味しくてさ――」

「だからって、なんで腐った野菜を食べるのよ。普通の野菜だってあるでしょ」

「違うよ。アヌイ。あの野菜サツマイモはダメ。食べられない。アナタも見たでしょ。お店のご主人が私をこのサツマイモで殴ってきたのを」


 リーゼロッテは机の上に置いているサツマイモを指差す。濃い紫色の皮をしているが、いくつもに割れ、黄色味かかった白い肉が見えている。

 つい先日、このサツマイモを売っていた主人は、リーゼロッテを「詐欺師」とののしり、「詐欺師に売る野菜はない。うちの野菜を穢すな」と言って、サツマイモで殴った。リーゼロッテは被りを振る主人を凝視し、慌てて頭を抱え、座り込む。しかし、主人はリーゼロッテを殴ることはなかった。その代わりに、地面にゴロンと割れたサツマイモが落とすのであった。


「ちーがうー! そうだけど、ちがーうーだろー!」


 アヌイは四肢をばたつかせ、バカラバカラと足音を立てる。腹立たし気に、首を横に振った。


「だからって、腐った野菜を食べなくても良いでしょ。あの婆さんから野菜を貰ったのってどれぐらい前の話しなのさ」

「日にちなんてどうでも良いのよ。シュンケのおばあちゃんがくれた野菜には優しさがある。例え、どんなに新鮮で良いものであったとしても、私を傷つける人の手垢がついた野菜なんて食べたくない。そんな野菜よりも、腐っていても優しく、私を思ってくれる人の野菜を食べたいわ」


 リーゼロッテはアヌイの前に行き、膝を着いてロバを抱き寄せる。ロバの顔に頬ずりをし、愛おしそうにアヌイの名前を呼ぶ。それは、ジェフに聞かせた女の声とよく似ている。


「アヌイ、今日は、6日目。大いなる意思が定めた豊食を是とする日よ。良いじゃない。少しぐらい、変わったものを食べてもさ」

「そんな話じゃない」


 ロバの緋色の目は天井を見つめる。主人はこの状況を理解していない。今の状況は、絶対にあってはならない現象なのだ。

 腐った野菜を手づかみで食べたことか。

 全裸で過ごしていることか。

 全て否である。食べること。存在する事。それらよりも、もっと重大であり、在り方の問題と言っても良い。


「リーゼロッテ。あんた、まだ気づいていないの? 本当に気づいていないの? 私が、こんなに慌てていることも。あんたを怖がっていることも」

「何の事?」

「――私は、あんたの行動が怖い。でも、本当に一番怖いのは、どうして私達、会話が成立しているの?」


 リーゼロッテは沈黙した。彼女が口を少しだけ開き、その後、食いしばるようにして息を漏らす。アヌイは耳を動かし、言葉を続けた。


「私はロバ。アナタは人間。会話なんて、そもそも成立しちゃいけないのよ」

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