賢者ポラトゥーチ博士

狛夕令

第1話

 私は止まり木に座る博士に声をかけた。

 「巣箱の中でお休みになってください」

 博士は指定席となった帽子かけの上でかわいい鼾をかいていた。うつらうつら青灰色の毛玉が揺れる様は失礼ながら愛おしくてたまらない。


 毛並みがうっとりするほど良い。

 何度か撫でさせてもらったが、如何なる獣毛にも優る触り心地で、背中に浮かぶマーブル模様は見事に尽きる。中央アジアの高山地帯に棲む雪豹みたいだ。

 親戚の女の子にでも見せてやれば、歓喜の声をあげまくるだろうが、それはしない。博士はいざとなると迅速であっても普段は動よりも静を好む方だ。

 何より飛膜鼠ポラトゥーチ博士を独占しておきたい気持ちがあった。


 もう一度声をかける。

 「博士、柔らかい藁を敷いておきましたから」

 「おおいかん。眠ってしまいましたか」

 真っ黒な目を瞬きさせてヒゲをひこひこ動かす。

 たまらず微笑が漏れた。

 「懐かしい夢を見ていたもので、つい」

 「どんな夢です?」

 「樅の木です」

 茶化し気味の質問にも気を悪くした様子もなく答えてくれた。

 「もしかして、そこでお生まれになった」

 「森でいちばん大きな樅が私の故郷でした」


 私は今でも天の救いだったのだと思う。

 片田舎の古寺に寝泊まりしていた、この恐ろしく聡明で、勇敢で、気品にあふれ、愛くるしいことこの上なく、きめ細かな毛皮に覆われた大賢者との出会いは。

 賢者は仙鼠せんそ、三百年のこうを経たモモンガであった。


 博士との出会いは去年の秋に遡る。

 長い戦争が祖国の敗北という形で終結を見たはいいものの、帰国が遅れに遅れた私が第二の人生を築き始めたばかりの頃だ。

 当時、私はまだ学生だったが、戦況の悪化にともない出征する羽目になった。

 戦場の実態について多くを語る気はない。

 味方の罵声と殴打、敵の銃弾に挟み撃ちにされた挙句、上官の捕虜拷問の罪をかぶせられ十年も抑留されたとだけ言っておく。

 どうにか生還した私を待っていたものは、焼け落ちた実家と石に名を刻んだだけの家族の墓であった。


 同情をひく言い方をすれば、私も戦争ですべてを失った男の一人だったのだ。

 だが拾う手もあり、顔に負った火傷で戦傷恩給が下りた。

 ささやかな額だったが、埋め合わせに鎮守の森の近くに小さな家を安価であてがわれた。私はそこへ瓦礫から掘り出した道具で使える物を持ち込めるだけ持ち込み、新たな生活を始めた。

 役場の手引きで、どうにか口糊をしのげる仕事にも就けた。

 植物園の温室の環境調整係である。

 小規模ながらも地域唯一の温室は、炎と煤に慣れた目には眩しかった。ガラスの宮殿と、そこに隔離された貴人のように眠る花々は大いな慰めとなった。


 枯れた心も徐々に活気を取り戻し、今までは道で私と行き合うたびに顔をひきつらせていた人々とも挨拶をかわすようになった。立ち話をするぐらいには親しい相手も何人かできて、町民の集まりなどにも誘われ始めた。

 私は戦争の痛手から確実に立ち直りつつあったといっていい。

 両親が檀家だったお寺が火事になるまでは。

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