第7話
次にトモはルビノワに携帯で中に連絡を取らせる事にした。彼女がコールする先の携帯の持ち主はその術者の男のはずなので、交渉で相手の隠している事を引きずり出せるかが勝負だが、そこは護衛の男達がブレインになって進めてくれるはずだ。
彼女の携帯の反対側に耳を当てようとすると、ルビノワはしゃがみ込んでくれた。それに合わせてしゃがみ込み、聞いていると幾度かのコール音の後に、年齢不詳の男の声がした。
「はい、モロキュウです」
ふざけた名前だ。トモは苛立ちを覚えた。
そういえば仕事屋の名前もまだ聞いていないが、この場での呼称に留まるだろう。無理に確認するのはやめた。
「先程連絡を取らせて頂いたルビノワです。そこにいる弦美さんのお友達とその警護の方と一緒に家の外にいます」
「なかなか早かったですね」
「ヘリまでは借りられなかったので。今の状況をこちらの面々に聞かせながら、彼女はあなたとの交渉を求めています。
そちらも仕事ですし、出来る事と出来ない事がある。お互いに何処まで譲歩し、何処まで諦めるしかないか、はっきりさせたい。
お時間は取れますか?」
「いいでしょう。こちらの方の仕事は、後はそんなに時間は取りません。
今回、モガさんが関わる事になった一件の犯人も割れましたのでね。こちらの仕事としてはほぼ完了です」
「では、オープンに切り替えます」
ボリュームを少し抑えて、場にいる全員に聞こえる様にする。助手席の男が先程の女性の部下に会話を録音させる。
ルビノワは言った。
「弦美さんのご家族の様子を教えて下さい」
「では、端的にですが説明を。
ご両親は残念ながらもうこの世の人ではありません。旦那さんは首が折れていますし、奥様も自我が崩壊している様子で、まともに話せません。
こちらのお二人についてはモガさんやそのお友達は関与していません。物理的に触れる前にお二人がそうなられてしまわれたので」
「どういう事です?」
「詳しい説明をするには、
『霊の存在を信じるか否か』
という所からの話になりますが」
状況は既にそれを信じた方が分かり易いものになっている。
家の外に張られているという結界が沙衛門とるい以外には見えない事。それだけならまだしも、沙衛門がその結界の実在を示す為に投擲した石が虚空で潰れて消えたのを自分は見たのだ。
『何か仕掛けがある』
と言われればそうかもしれない。しかし、確認するには時間がなさ過ぎる。確認した場合の被害も計り知れない。
また、ルビノワ自身は、霊の存在を信じたら正気ではいられない戦場での地獄を見て来たので、深く触れたくはない。
トモに目線で問うと、彼女も首を振った。
「結構。もう異常事態は間に合っているので。
お話を遮って失礼。続けて下さい」
「次に、ヒガという長男がいます。彼は今、モガさんのご友人らお二人と弦美さん、蘭さんによって、拷問を受けています。
状態としてはもう歩けません。膝が、いや、つま先から膝までが破壊されてます」
ルビノワにとってはただのデータだが、少女らに聞かせたくはなかった。トモ以外の二人が、夜目にも分かる程に顔色を悪くしている。
「ヒガという男の状態については分かりました。他の事を教えて下さい」
「ネットにおけるスレッドでのコメントは弟さんが何気なく漏らした一言を彼が書き込んだものでした。弟さんは反省していまして、モガさんのご友人であるお二人は彼を許しました。
ですが、弦美さんと共にここに残って死ぬ事を選択しています。弦美さんも同意の上での事です。
彼女からのコメントをそのままお伝えします。
『兄がいる限り人生が良くなる気がしないし、殺したら殺したで、どうせ世間では普通に生活出来ない。
でも、もうこいつは殺すしかない。家族の関係を滅茶苦茶にして、リンチで治せない怪我を負わされても、全く学習も反省もしていなかった。
最近は少しは家族と会話していたけれど、今日の展開になったらクズさを露呈した。
やっと分かった。あいつは筋金入りの阿呆で、クズだ。
だから奴を殺して、自分達ももう死ぬ事にする』
残念ですが、以上です」
理不尽な展開には導火線の短いミキがいきり立った。
「何それ……ヒソヤマちゃんがそう言ったっての!?
ヒソヤマちゃんを出して下さい! いるんでしょ!?」
「弦美ちゃん……」
ミナの声も心にとても痛い。ルビノワは状況を冷静に進めるべく、手をかざして彼女らを見つめる。
ミキは歯を食いしばり、ミナは明らかに怒りを覚え、しかし黙り込んだ。
平静を装って訊ねる。
「彼女や弟さんに説得はしたんですか?」
「はい、モガさんが」
「ふむ……」
ルビノワは携帯をトモに手渡し、交渉に入らせた。助手席にいた男に話しかける。
「こちらのモガの事で気になる事があります。ちょっと内々で話をしても?」
「我々の邪魔にならない事なら」
「ええ、それは誓って邪魔しません」
「いいでしょう。一応言いますが、また戻って来て下さいね」
「勿論」
彼らの輪からほんの数歩離れた所だが、ルビノワは黒衣の二人を呼び寄せる。
「沙衛門さん、るいさん、ちょっと」
ルビノワの疑問を耳にすると、彼らの瞳に反応があった。
「中身がいつもの朧殿ではない?」
モガのHNではない、彼らの通常の呼び名で挙げながら、沙衛門が言う。
「ええ、多分あの子の中のもう一人のあの子です」
「今は朧ちゃんの脳内にいて、時折交代しているという、そのもう一人の朧ちゃんが今身体を使っている、という事ですね?」
「ええ。酷い言い方ですけど、いつもの朧なら今の状況になっていないと思うんです」
彼らも頷く。
「確かに。いつもの朧殿なら当の昔に堪忍袋の緒が切れて家が中から吹き飛んでいるはずだ」
「そうですね。心配して来てみましたが、朧ちゃんなら既にアクションを起こして何人かは確実に殺してるはずですし、今回の邸内のメンツなら朧ちゃんが何らかの理由なしに現状を静止している事もありえない。
少し言い方が酷いですけれど、彼女もまた、いつもの様に誰かをかばって負傷しているはずです。
つまり、いつもの朧ちゃんがいるなら既に場も収束していると思いますし、警察か術者の男の業界の連中が来ているはずですよね。そちらと一戦交える可能性の方がずっと高かった。
ですが……」
「ですが、今の状況である、と」
ルビノワの言葉にるいは頷いた。
「そこが私の一番心配していた所ですけれど、朧ちゃんの関与する例では滅多にない状況になっているので、少し混乱してしまったかも」
「ああ。いやはや、もう一人の酷い荒事担当の朧殿だったか。同じ雰囲気で喋る所まではさすがに見透かせなんだ。
しかし、それ故に今彼女は生存している訳だな?」
「皮肉な事にね。さっきのモロキュウと一緒に出て来るでしょうけれど、ヒソヤマ家への干渉がいつもの朧にしてはドライに過ぎる気がしたんです」
「いつもの朧殿ならまあ、ヒガとやらの拷問には反対はするまいが、姉と弟は意地でも引きずり出そうとするだろうな」
彼らの知るハンドルネーム・モガは、そういう女性だった。
「今回は今の朧に賭けるしかないですけど、それだって朧の一面だけあって、そう簡単に見捨てるとは思えなかったですし」
「気持ちを汲んでやる気分にさせられるほどに、ヒガという男は最悪だった訳だ」
「みたいですね」
「状況としてはモロキュウの匙加減ひとつで彼以外は全滅する」
沙衛門はため息をついた。トモに訊ねてみる。
「トモ殿。先程の石では駄目だったが、ちと試したい事がある。電話の向こうの男に了承を得てみてもらえんか」
「何をするんです?」
「細くて見えぬと思うが、特製の紐が通るかどうか試してみたい。結界とやらをどうにか出来ぬかと思っている」
「ちょっと待ってて下さい」
短いやり取りの後、トモが再び振り返り、言った。
「OKだそうです。
『今から手を加えてももう術式として完成しているので、外にも中に異常も起こらないはずだ』
との事です」
「心得た。トモ殿、ありがとう」
「いえ」
「るい、俺達のこれで少しちょっかいを出してみよう」
「いいでしょう」
沙衛門は幽鬼の様にゆらりと立ち上がった。草鞋が地を擦る音すらしない。
るいも同じ様に足音すら立てずに後に続き、女の長い髪を特別製の獣の油でなめして細く編み上げた、鞭にも縄にもなる紐である『霧雨』をその手に何処からか絡ませた。彼らがそれを意のままに操るのをルビノワは見ている。
『映画でよくある様な特別な力とかが宿っているといいんだけど』
と、少し期待する。
家の前に二人が立つ。ルビノワが見てもいつも通りにリラックスして立っている様にしか見えないが、それが曲者なのだ。
自分にとってはノーガード戦法みたいな立ち状態から地獄の光景を展開させる二人である。
「沙衛門氏だけでなくるいさんもですが、後ろから見ても全く隙がないってのは久々に見ました。やはり何処かの武芸者でしょうか?」
運転席の男が誰ともなしに呟く。沙衛門はやはり耳に捕えていた。振り返り、告げる。
「お褒めの言葉、痛み入る。天狗にならぬ様に今後も鍛錬に励むとしよう。
熊を少しだけ刺激する。一応みんな、背を向け、耳を塞いで口を開けていてくれ。そういう効果が生じるかも知れぬ」
「スタングレネードみたいな感じですか?」
助手席の男が問う。
「うむ、近場での落雷みたいな音がするかも分からぬのでな」
「トモさん、従いましょう。危ないです。
状況はハンディカメラからノートPCで見られますし」
「そうね」
護衛の男達がトモら三人に説明する。ルビノワは黙って経験で得た方法に従う。
全員が忠告に従ったのを確認すると、沙衛門は家に向き直った。
「さて、まずつついて叩いて引っ張って、という所からかな」
「心得ました」
二人の握り拳にしていた、その人差し指と中指がほんの少しだけ揺れたかと思うと、二つの巨大な蜘蛛の巣が耳をつんざく様な破裂音と共に一瞬だけ輝いて見えなくなった。爆風ではない獣の吐息の様なものが全員を撫で、髪を揺らす。
背を向けていた運転席の男が言う。
「状況は!?」
「いや、弾かれた。そちらは具合の悪くなった者はいないかな?」
「私は大丈夫です」
「あたしも平気」
ミナとミキに続いて各自がそれぞれ無事であると返事を返す。続けて沙衛門が家を向いたまま問う。
「一旦中止する。カメラには何が?」
運転席の男がノートPCの画面をチェックする。ルビノワや仕事屋、トモ達はそちらを、他の護衛の者達は中継しているノートなどで様子を見ていた。
「閃光でノイズが走って、その後に生臭い強風が。今は家を向いているお二人が映っています。
発光する何かを使用しましたか?」
「いや、糸みたいな紐を叩き付けただけだ」
「そんなバカな……これじゃ爆発反応装甲のそれだ」
「爆発反応……? どういうものなの?」
トモが問うと、ルビノワがぼそりと告げた。
「エクスプロシブ・リアクティブ・アーマーの略でERA。戦車の補助装甲のひとつとして開発されているものなのだけれど、攻撃が当たった際に自発的に爆発して表面部分のプレートを弾き飛ばしてカウンターとして当てる事で、対象をガードしようとする装備。
『その爆発で一緒に作戦行動している歩兵に被害が出る』
って事で、近年ではあまり使われてないみたい」
ミキが訊ねた。
「家の外に地雷が張り巡らされてる様な感じですか」
「簡単に言えばそれね。予想以上に危ない場所になってる」
「なるほどな。それはよく知らんが、そこに映っている通り、家に入ろうとすると今の稲光の直撃を食らう様だ」
「……突入は無理です、トモさん。何があるのか分析してからでないと、作戦行動そのものが取れません」
沙衛門の声に運転席の男が苦々しく答え、仕事屋も告げる。
「少し挑発しただけでこれじゃあ、突入なんかしようものなら、誰一人として戻って来れなくなるかもしれません」
「……じゃあ、状況を見つつ待つしかない」
失意の雰囲気に、トモはそう呟き、うつむくしかなかった。
「出来ない事を無理にやろうとするよりマシだろう。どういうものなのかは今見せた通りであるから、これで駄目押ししようとするなら、中の保証はともかく、無駄に死人が出てしまう。
賢い選択とはとても言いかねる」
沙衛門の声に顔を上げると、家を見上げながら腕を組んでいる彼の横顔があった。
「何しろさっき仕掛けた程度でもあれだ。紐は衝撃で燃え尽きてしまった。
人が触れればどうなるか、想像に難くあるまい。
ここにいる誰のせいでもない。トモ殿が責任を全て被る理由もない。
きっかけを作った奴は今、中で責め苦を受けているのだろう? それが終わるのを待つしかない」
トモに言い聞かせる様に言ってくれた様に聞こえた。
「沙衛門氏の提案を受け入れるしかないでしょう。中の人員の安全を優先するなら」
助手席の男も告げた。それでトモが崩れた。
「……う、うぅ……」
地べたに手をついてしゃくり上げるトモの肩に、ミナとミキが歩み寄り、そっと手を置いた。
ヒソヤマ家の台所だった。
敷居とジェイク、弦美と蘭が見やるその先。膝から下を欠損して焼き潰されたヒガが、父親に抱き付かれて尻を犯され続けながら、死霊達に逆さまに抱え上げられ、ガス台の上に浮いていた。明らかにおかしい火力で頭を炙られている。
窒息しないレベルで火を叩き消され、髪は最早焼けて解け、皮膚の焼ける嫌な臭いが立ち込めている。
猿轡から血の色の泡がこぼれ、殴られて腫れ上がった唇からうめき声が漏れる。
弦美が、不意に訊ねた。
「シキイさん達は、少しは気が晴れましたか?」
それに答えようとした敷居の意識が、唐突に削ぎ落とされた。視界が暗転し、気付くとジェイクが片膝をついてうずくまっていた。姉と弟の姿はない。
台所のドアが閉められ、ドアノブの代わりに青白い顔が口からどす黒い血を吐きながら生えていた。ドアプレートからも、その周囲からも、新しい自分達の仲間になろうという物好きな二人を意地でも引きずり込もうと、頭が半分ない女が瞳を輝かせ、顎のない子供が眉間にしわを寄せて奇声を発しながら、警備員風の胸板から下までの皮膚が削ぎ落とされた男が、中に入ろうともがいて、室内に零れ落ちて来る。
「敷居……くん……」
何が起こったのか分からない。そんな表情で自分を見上げて来るジェイク。
顔の下半分が、横薙ぎにされた傷から溢れる鮮血で深紅に染まっていた。更にその下、腹の辺りも同じ様に。
自分の手に違和感。
「えっ」
手にしていた布切り鋏を持つ手が血まみれだった。
つまり……これで、ジェイクを?
「うわぁああああああああああああああああああああっ!」
怒気をはらんだジェイクのタックルを浴びてそのまま壁に背から叩き付けられる。胃液がこみ上げて来て、むせる。
息を吐くよりも先に足を脇に挟まれ、床に倒された。後頭部を打ち、視界が白くなるが、左頬に衝撃。何となく殴られた事が分かった。
思い出すのも嫌なくらいに理不尽な理由によるものだったのを、身体が覚えていたのだ。腹に重み。馬乗りになったのだと分かる。更に右目の辺りに耐え難い激痛が走る。敷居は思わずうめき声を上げた。
「何で、何で刺したぁ!? 何で今ここで刺すんだ!?
言えよてめぇ! 何でだぁ!!」
答えるより先に殴るジェイク。突然の攻撃が一番の理由だろう。
自分だって何故彼がそんな事になっていて、自分がそんなものを手にしているのかが分からない。
『変な声と匂いはするけど、それだけなんだよね。あの人、何で動けるんだろう』
自分や弦美や蘭と違い、彼には霊は見えていなかった。自分にもうっすらとしか見えていないそれは、見ようによっては詐欺ともとれるだろう。
しかし、それならヒソヤマ家の両親が今されている事は何だ? ヒソヤマは誰に身体を操られていると言うのだ。首がへし折れてしばらく経っている人間がどうして動ける?
その妻は誰に犯されていると言うのか。
『全て手品だ』
とでも言いたいのか。
「何だよ、それ……」
殴られながら、どうにかそれだけ言った事は覚えている。
顔が全体的に熱い。どれだけ殴られたのかはもう分からない。
右目から何かが溢れているのが分かるが、酷く熱くて、赤くて痛くて触れる気にもならない。そちらの耳元で音がする。すする音だ。勿論見えない。
『うみゃい』
舌で液体を叩きつつ、そう言うのが聞こえた。
『もっどぢょうらい』
途端に右耳の奥にほじくる様な激痛を感じ、敷居は絶叫した。
その布切り鋏を握った手が、苦痛のはけ口を求めてジェイクの腹に振られる。ジェイクのうめき声が断続的に響くが、負けじとばかりに敷居を殴り付ける。
無意味な意地の張り合いだった。何度も。何度も、何度も何度も。肉を叩く音が次第に液体を叩く音になる。
互いに血を吐きながら、激痛によって生きている事を確認する。
寒かった。刺された場所は熱い。
だが、そのすぐ内側から冷気が身体を侵食する様に潜り込んで来るのをジェイクは感じる。風邪をこじらせた時より酷い悪寒は久々だった。しかも重傷だ。
こんな流れにするつもりはなかったのに。
敷居の両方のまぶたが青く腫れ、鼻が折れ、そこと口からおびただしく血が流れている。
敷居は既に意識が飛んでいた。普通なら既に気を失っているはずだ。ジェイクもそう思っている。
学校生活で、職場で、プライベートで、全く望まぬ喧嘩でジェイクはそれをさせられ、経験から知っていた。
それなのにまだ刺して来る。敷居の身体を誰が操っているのか、ジェイクにはもう考える余力がなかった。
何故敷居が突然自分を刺したのか。その疑問と、裏切られたという思いが口をついて出る。
「……また……またかぁ……!
またここまで一緒にやって来た僕を刺すのかぁ……!?」
人狼煙と化したヒガら二人の横で、壁に、天井に散ったジェイクと敷居の返り血を死霊達が舐める。
誰かの絶叫が轟いた。歓喜の絶叫だ。絶望に耐えながら自分達の通り道と化した場所へ辿り着いた生贄達の血肉は、彼らにとって極上のディナーだった。
台所の照明が割れ、速度がプラスされた破片が敷居とジェイクそれぞれを突き刺し、首筋を深くかき切る。そればかりか地面に落ちた破片までが新たに飛び、食い込んで来るではないか。
訳が分からない。こんな風にされるだなんて、聞いていない。
周囲の死霊達が既に辿った理不尽さを、ジェイクは嫌と言うほど味わわされていた。
「わぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁ……!!」
まだだ。まだこれからなのに。
唐突に生が終わる事への衝撃と嗚咽が轟き、二人のそれが死霊の嘲笑に飲み込まれて行く。
敷居の痙攣する身体に倒れ込むのを拒む様にジェイクは横倒しになり、今度こそ意識が飲まれるのを感じていた。
敷居のポケットから引き出される様に携帯電話が転がり落ちる。そこには東日本大地震でどうにか生き延びた被災者の経験談のスレッドとそれに対する意見が表示されていた。
そのスレッドがひとりでにスライドされて行く。
『今からでも死ね』
敷居がヒソヤマ家を訪れ、結界を構築する作業の休み時間、たまたま最後に見たものになったのだが、そんな心無い言葉の書き込み部分で、操作は止まった。
ジェイクはぼんやりと思った。
小さい頃からの事なのだけれど、精神的にも肉体的にもとても耐え難い事があって、それは客観的に見てもする必要の全くない事で、けれど、よりにもよって自分の一番近しい人達がそれを嬉々としてやらせて来る。
それがとても恐ろしくて、何とか伝えようとするんだけれど、それは微塵も伝わらなくて、更に酷い苦痛を強いて来る。
その事が他人にもほとんど伝わらかった。身近な人では駄目だった。
ネットの向こうの誰かには足りない言葉でも容易に伝わるのに、世間が重んじているはずのオフラインでは、誰にも伝わらなかった。
だから、自分は、人付き合いというものに少しも重みを感じる事が出来なかったんだ。
社会において大切なはずのそれに打算と欲望しか見い出す事が出来なかった。
それでも一定年齢に達したら、素性もよく分からない赤の他人と腹を割って話さないといけない。
身元を誤魔化す事など屁とも思っていない誰かとだ。そんな、表面的には何処でも見かける雰囲気の、しかし、住んで来た環境の全く違う誰かと価値観を共有して、仕事を分担してこなさなければいけない。
しかもそいつらにどれほどの被害を受けようとも、先立つものがなければ全て自己責任。ゼロどころか多額の負債を背負ってのスタートを当たり前とする社会。
本当の信頼より、他人に幾ら金を支払えるかで、天井知らずのカースト制度に組み込まれる社会。
それが、死ぬまで続くと言うのなら……それは地獄でしかないじゃないか。
何も出来ぬまま撤退して来た日から数日が過ぎた。
モロキュウの言う通り、無事に今、モガは職場で職務内容のひとつであるルビノワ達の昼食を作っている。もう一人の自分との記憶共有が出来る事が入れ替わりシステムのありがたい所だったが、今回は説明だけに終始した。
何処かで飲み込んで受け流せるくらいには年を取った。ルビノワらへの説明も済んでいると、もう一人の自分から聞いた。
悪霊から自分達を守る方法なども聞いた。一番いいのは、怪しい場所やくせのある人物には関わらない事。
しかし、それは出来そうにない。接近して来る何人かは話をするのも気が進まないが、この国にい続ける上で互いに助け合う形で関わっており、その関係を切るという事は、せっかく安定しつつあるこの仕事を辞める事になるからだ。結果的にルビノワ達をも巻き込む。
モガはふと、自分達を消耗品軍団と呼んで様々な秘密作戦に飛び込んで行く傭兵達を描いた洋画の事を思い出した。
現在シリーズになりつつあるそれは、それまで様々なアクションヒーローを演じた俳優らが集う事で話題に上り、展開もなかなか面白い。が、彼らは紛れもなくその背後に暗いものを抱えている。基本的に命知らずを標榜して作戦に望む彼らだが、それ故に見えて来る、人間として大切なあれこれがあるのだ。葛藤を抱えながら仕事をしていられるのは仲間が危機を知らせ、助けてくれるから。
今の自分もばら売りの彼らみたいな立場だ。ルビノワや沙衛門、るい、自身も雇われ管理人である立場上の雇用主との関係が、自分を保ってくれている。自分もそれに報いたい。
今回ルビノワが新たにこの国の情報機関との立ち位置を確保してくれたのはありがたかったが、そちらとの関係を確立する上で、当然切らなければならない付き合いがある。それを考えるには一人ではとても無理だ。
ルビノワ達に事情の一部を打ち明け、相談に載ってもらう方が、ビジネスライクさを徹底出来る。責任やそれまでのあれこれに押し潰されそうにならなくて済む。
もう一人のモガをまた生み出してしまう様な事にならずに済むはずだ。
なので、モロキュウに聞いた事はほとんど守れそうになかった。今では詫びる事も出来ない。
昨日とある筋から彼と思われる遺体発見の情報をもらった。彼らの世界でも不審死は珍しい例ではないらしく、腹をくくっている覚悟を感じさせる、かえって明るい声が彼女の耳に入って来たのだ。
先日の複雑な術式を起動させるとあちこちから反動が来るそうで、モロキュウの肉体は修練を積んだにもかかわらず、どうもそれに耐え切れなかったらしい。知らされたのはそこまでだ。遺体の様子などは一切分からない。
「お互いに気をつけよう」
と言って、その新たに手を組んだ情報機関の男は電話を切った。
「うっかり毒を盛ったりしていない様に、要所要所でお互いに監視し合わないとね」
モガは一人、キッチンでそう呟いた。
「何だかもうヒソヤマちゃんなんていなかった様な空気なんだよね。すっきりしなくてさ」
ヒソヤマ家の外で悶々とした結果に自分達の無力さを思い知らされてから一週間ほどが過ぎた昼休み。
学校の屋上は一部解放されており、そこでトモ、ミキ、ミナの三人は昼食を摂るのだが、食べ終わるとミキがぼそりと言った。先日、空っぽの棺を用意してヒソヤマ家の葬儀が行われたのだ。トモ達三人は弦美の為に参加した。
空っぽの棺おけ。遺体はヒソヤマ家から引き出せなかったという事である。
密かに同席させておいた護衛の者達に聞くと、
『呼ばれた寺の者達や葬儀屋も関わる事すら嫌そうだった』
との事だった。モガと出て来たモロキュウに聞いた限りでは、
『確実に何かが起こる心霊ゾーンとヒソヤマ家が直結されたのだ』
と言う。
ヒソヤマ家が家族丸ごとなくなってもニュースにならないという事は、マスコミですら関わりたくない事象である事を示していた。視聴者を怒り狂わせる事にかけては右に出るものはいないゴシップ業界ですらそうなのだ。何処かのネタに行き詰まった映像作品会社がいずれ目を付けるだろうが、罪のない下請け会社が何も知らされずに、もしくは知った上で現地に乗り込み、真っ先に餌食になるのだろうと考えると、トモは気が滅入った。
「私達だけでもヒソヤマさんとその弟さんの事は覚えておきましょう。何だかホイホイ友達を作れなくなった気がするけれど、ヒソヤマさんの事は教訓というか……」
「うん、ニュアンスは分かる。そうしよ」
ミナが言葉に詰まったトモに告げる。
「じゃあ、この話は今はここまで。今はね」
「だね」
トモの提案に幼馴染二人は同意する。ミキがそこで思い出した様に言った。
「そういえば、ミナ、何かあたしらに話そうとしてた事があったんじゃなかったっけ?」
「ああ……また今度話すね。少し前にはっきり分かった事なんだけれど、今は気分的にちょっと……」
「そか。おめでたい事だったらお祝いするから、なるべく早めに話してよ?」
「うん」
「そうね、モロキュウさんに言われた通りにお祓いもしたし、考える事はあっても抱え込んで倒れてはまずいものね」
トモはそう告げると、わずかに微笑した。
ミナから
『好きな人が出来た』
と二人が告げられる、ほんの数日前の事だった……。
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