第32話 奪われた未来
俺と車のあいだ。
ほんのわずかな距離。
そこには誰もいない。
そう、誰もいないはずだった。
俺が感傷に囚われた次の瞬間……
――なぜか東田と女が俺の両脇をすり抜けていく。
視界の左右から不意に現れ、2人の乗る車へと猛然と走って行く。
――クッ!
凜々花は手を振ったんじゃない、俺は間抜けか!
「おいっ、待てよ!」
呆気にとられた一瞬ののち、叫んで走り出そうとした俺の右手は不意に背後から掴まれた。
左腕が空を切り、よろけてたたらを踏む。
そのまま腕を引き込まれ、背中へ回されガシッと決められた。
――なっ、クソ!
慌てて俺は左足を思いっきり後ろに振り上げる。
「離せよ、クソが!」
うしろの男の金的を狙い振り上げた踵は、間一髪で交わされた。
――チッ、身長差がありやがる!
だが、振り上げた一撃を避けようとしたせいか、決められた腕がわずか、
その隙を逃さず、振り向きながらしゃがむように沈み込んで勢いをつけ、男から腕を抜く。
勢いのまま回転し、男を放りだして駆け出した!
けれども東田は後部座席へ、女は運転席へ、すでに乗り込んだあとだった。
俺のだったはずの車はグングン急加速し、持ち主の俺へと真っ直ぐに迫ってくる。
――逃げなければ!
立ち止まり、そうは思うが、『ここを通したくない!』、『止めなけりゃ!』という気持ちが判断を鈍らせる。
4人を乗せた鉄の塊は
見たくないというようにギュッと目を
――ドンッ!
目一杯にジャンプし飛び上がった。
もちろん飛び越えるなんてことはできやしない。
そのまま車のボンネットを、屋根を転がり、通り過ぎた車から落とされると、重力に従ってアスファルトに尻から叩きつけられた。
「くぉぉ、痛ぇ」
思わず情けない声が漏れる。
車が加速しきっていないこともあり、なんとか上手く飛び上がり、転がって勢いを殺せたらしい。
――ハッ、そんなことより車はどこへ!
顔を上げ、あたりを見回そうとすると、いきなり視界が暗転した。
――チッ、さっきの野郎かよ!
首へ丸太のような太い腕をまわされるも、それを下から掌で押し上げて必死にズラす。
男の腕がこめかみのあたりを締めつけてきて、頭の骨がミシミシと
それでも俺の頭を離そうとしない男のガラ空きの腹に、遠慮なく膝を落とす。
「グヘッ」とカエルを潰すような悲鳴が上がる。
が、そんなことはどうでもいいことだ。
情けをかける状況じゃない。
早く早くと、気ばかり焦る。
膝を落とされ、さすがに俺を離してうずくまる男に、さらに数度の蹴りを加える。
抵抗する力を失った男の髪を掴み上げ、無理矢理に引き起こして乱暴に揺する。
男は苦痛に顔を
「目を逸らすんじゃねーよ」
髪を引いて逃がさず、こちらを無理に向かせた。
「アイツはどこへ行きやがった?
ああ?」
「……知ら…ないん…だ」
男が答えるや否や、顔面に頭突きを入れてやる。
「隠すとタメにならんぜ?」
「待てっ! 知らん、ホントに知らん!
足止めが役目なんだ、俺は……」
「チッ。
役立たずめが!」
首筋に手を回し、探って血管を押さえて落としてやる。
息を整えつつ冷静になって見回すと、すでにスバル車はいない。
役立たずとバカにしたものの、立派に役目を果たされちまったようだ。
時間稼ぎの捨て駒としての役割を……
手掛かりを聞きだせなかった俺は、あたりをざっと見回す。
ふと視線の先に、エンジンを掛けたまま、リクライニングにしている車があった。
――こんな近くで大事件だってのに、呑気なもんだ。
俺は怒りにカラダを震わせ、コイツをターゲットと決める。
ぐっすりと眠っている哀れなドライバーの乗る銀色のセダンに近づくと、コイツにはひどく理不尽であろう怒りを込め、いささかの躊躇いもなく助手席のドアを蹴り下ろす。
高級車のドアは突然固い靴底を叩きつけられ、苦痛を表すかのように、鈍い音と共にべコリと凹んだ。
さらに数度、揺らすように蹴りつけて、ドライバーを夢の世界から叩き起こしてやる。
それから俺は頃合いを見てしゃがみ、姿を隠す。
眠りを邪魔された男は寝ぼけながら、訳もわからない様子だ。
いったい何が起こったのか? 事態を確認しようと降りてくる。
そのまま運転席側から、車の前を通って俺の方へと近寄ってきた。
突然に俺はすっくと立ち上がり、「よお? いい夢見たかい?」と話しかけた。
いきなり現れた俺に、男はどうしていいかわからないという、困惑の表情を顔に貼り付けていた。
「えぇ、あぁ」とはっきりしない返事を返す男に、握手を求めるように手を差し出した。
男は俺の顔と差し出された手を、どうしていいかわからず、交互に見ていた。
やがて男の視線が無残に凹んだドアへと移り、表情がガラッと変わった。
男が愛車に気を取られた瞬間を逃さず、俺は動いた。
表情もカラダも凍り付いた男の腕を一瞬で取ると背中に回して決め、フロントガラスに押し付けて動けなくする。
「アンタ、保険には入っているか?」
男は恐怖か、戸惑いか、反発か、答えられない様子だ。
「安心しな。
保険に入ってりゃ、保障されるさ。
あんたは運悪く、強盗に襲われた。
けど、あくまで強盗だ。
いいか?
コイツは重要なことだぜ?
目的は車で、アンタの命じゃないんだ。
車については、ま、不運だがな……
アンタの大事な命やカラダにとっては、こいつはとてつもない幸運だ。
俺が立ち去ったら、警察を呼んで保険屋に電話しな。
……いいか、もう1度言うぜ。
あんたの血も、傷も、命も、俺は求めていない。
オーケー?
……で、鍵は」
「左の…ズボン……ポケット」
俺はのしかかって圧力をかけ、動けないようにしたまま、男のポケットをまさぐり鍵を取り上げた。
それからチラッと見えた上着の携帯を奪い取り、フェンスの向こうへと放り投げてやった。
薄く平たい携帯は、冬枯れの田んぼへと、キレイな放物線を描いて飛んだ。
◇
男を突き飛ばして開放した俺は、車に乗り込むや否や急発進する。
駐車場の出口へと一直線。
区間線も一方通行の矢印も無視し、すっ飛ばしていく。
――クラクションが多重奏を奏でるが、知ったことじゃない。
こっちは茉莉花と凜々花の無事がかかってんだ!
幹線道路に出ると、片手で携帯の画面を調べる。
そこには移動する赤い点があった。
「そう簡単に、俺から大事なものを奪えると思うなよ、クソったれ共が!」
茉莉花と凜々花の2人には、GPSを忍ばせてある。
万一に備えれば、当然の策だ。
携帯をダッシュボードのホルダーに固定すると、もう1台の携帯を取り出す。
すぐさま西へと連絡を入れた。
「どうした?」
「しくじったぜ。
笑えんほどマズイ状況だ。
なあ、東田の奴は、今何をやっているんだ?
「東田だと?
どういうことだ?
まさかのまさか、か?」
「あのヤローは、いつ警察を辞めた?
いったい今、何をしてんだ?」
「北見、君には娘のこともある。
だから聞きたくないだろうと思い、あえて話題にしなかった。
その結果がこれとは……
奴は袖の下を貰いすぎた。
とうの昔に、警察から追放されている」
「言っとけよ、それを!
俺によ!
俺は奴を信用なんてしていない、奴を信用することなど、絶対にあり得ん!
だがな、警察に所属してんなら、話は別だ。
クソッ!
そう思って頼んだら、このザマか、クソッ!」
「……状況は?」
「南雲茉莉花と凜々花の乗った車を奪われた。
俺は白昼堂々と善良な市民の車を奪って、GPSで追いかけている。
最悪だぜ?
俺は1人しかいないのに、奴らは6人くらいはいそうだからな。
ハハッ、これが映画や漫画じゃねーなら、俺はゲームオーバー間違いなしだぜ」
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