第19話 ジャスミンティー


 そうして俺は、2人の待つ店に向かった。


 エスカレーターに乗ってフロアーに戻り、肩で風を切るように進む。

 さっきとは違う。

 女のケツについて行くだけの俺じゃあ、ない。

 背筋を伸ばし、両肩を開いて進んでいく。

 左右の店も、騒ぐ子供も、店内にかかるBGMも、よく聞こえている。

 天井の飾りつけが曲がっていることにも気づいたし、そこの店の店員のマズイ対応にも、パッと見で気づける。

 そうして2人のいる店の前まで来ると、間仕切りのガラス越しに、見慣れた黒いフライトジャケットが見えた。

 かつて俺のものだったそれを、今は茉莉花が着ている。

 ちょうど腰のあたりの高さは、店のロゴやりガラスで覗き込めないようになっている。

 その下は外からも見えるようなっていて、真っ白なスニーカーと黒く細いパンツが見えた。


 ――そういえば、アイツの足……


 店の前は相変わらず入店待ちの列ができていた。

 その様子は、凜々花が茉莉花を連れて行きたいと思うほどの店だということを証明していた。

 俺は入店を止める店員にツレが中にいることを告げ、2人の席へ戻る。

 席には座らず、テーブルに手をつき上半身を乗り出すようにして話しかけた。

「どうだ?

 2人とも美味かったか?

 すごいな、今も外は行列だよ。

 評判なんだな、この店」

「どこ行ってたの、パパ?

 心配したんだよ。

 茉莉花さんを放ったらかしにしちゃ、ダメでしょ」

「凜々花、オマエわかってないな?

 なんだっけ、女子会ってのか?

 女同士で楽しく話ができるように、俺が気をつかって席を外してやったんじゃねーか。

 その俺の親切心が、わからないかねぇ?

 それじゃあ、凜々花もまだまだだな。

 せっかくの男子の優しさを無視してちゃ、春は遠いな」

 そんなことないと抗議する凜々花の相手もそこそこに、俺は茉莉花に声を掛けた。

「足はどうだ?

 凜々花の靴で合うのか?」

「ええ、大丈夫」

「ただでさえ、体重がかかる部分だ。

 無理する必要はない。

 そもそも、状態はいいのか?」

「食事で座れましたから、なんとか……」


 昨日の今日で――もうすっかり治っていつも通り――なんてはずもない。

 わかりきった問いかけに、わかりきった答えを得て、俺は本題を切り出す。


「凜々花、もう楽しんだろ。

 帰ろう」

「えっ!

 せっかく出かけてきたのに」

 まあ、あの様子じゃ帰りたくないだろうことは、十分想像できた。

「悪いな、今日はホントに助かったよ。

 凜々花がいなきゃ、男の俺じゃ、どうにもならなかった。

 ありがとう」

「いつもは感謝なんてしないのに、どしたの?

 茉莉花さんの前で、あからさまなポイント稼ぎ?

 騙されちゃダメですよ、茉莉花さん」

 俺はワザと娘の凜々花ではなく、茉莉花を見ながら、その質問に答えた。

「いいか、凜々花。

 俺が凜々花に優しいからといって、それが茉莉花にもそうだとは限らん。

 逆に茉莉花に優しくしたとして、それが凜々花にとってもいいことだとも、言えないもんだ」

 茉莉花に向けてそう言うと、俺は凜々花を見る。

 凜々花は俺の意味するところがわからず、ポカーンとしていた。

「でも、必ずしもそうでない、なんというか、両方を満たせる場合もあるんじゃないかと……

 どうでしょうか?」

 茉莉花の伺いを立てるような答えに俺は、「さあな、そう上手くいくことがあれば、理想だな」と返した。

「アンタには、それが可能な力があるかもしれん。

 俺のような底辺には、できないことであったとしても……

 一般人には、慌ただしい日々の生活がある。

 そういう理想を追求するってのは、まあ、普通の生活では難しいんじゃないか。

 議員や役人でもなけりゃな」

 俺は茉莉花を煽ることで、午後の予定を匂わせた。

 ここからは、大事な話し合いの時間だ。


「ということでだ、帰るぞ」

 俺は伝票を右手に掴んで、1人会計に向かった。


 会計を済ませてしまった俺に急かされるように、2人はあとから出てきた。

 先を歩く俺についてくる2人。

 食事に訪れたときとは、逆になった。

 それでもなお、「どこそこへ行きたい」「茉莉花さんにあげた分の服の補充をしなきゃ」など、食い下がる凜々花には正直言って手を焼いた。

 けれど俺が服を取りに行けと押し付けた紙幣は、押し付けたあとに見れば万券だったのだ。

 まだ高1の娘の臨時収入には、十分過ぎる額だ。

 盆や正月ならともかく、ただの臨時。

 だから俺は、「くれた駄賃を返すなら考えよう」と告げ、さらに「今買った分もそこから精算するか?」と笑い掛けると、凜々花もさすがに黙った。

 アウターから何から、茉莉花の買い物に便乗してちゃっかり買い込んでいるのは、さっきの会計でなんとなくわかる。

 なら、凜々花の赤字は明白。

 計算するまでもないし、凜々花もそこまで馬鹿ではない。

 渋々ながらではあるようだが、凜々花もそれに従った。




          ◇




 凜々花を家へ送り届けた俺たちは、再び事務所へと戻っていた。

「どうだ?

 服も揃え、メシも食って。

 落ち着いたか?」

「いったん落ち着いたんですが、むしろここへ戻って来て、どうだろうなって……あはは」

 凜々花は時折目を逸らしながら、微妙な笑顔を浮かべていた。

 これから根掘り葉掘り自分のことを聞かれると思えば、まあ、そういう反応になるだろう。


 茉莉花をソファに座らせると、俺は電気ポットの脇に立ってカップを用意する。

 そして買ってきたティーバッグを取り出す。

 お湯を注ぎ入れると湯気が立ち上り、白いカップの内側がうっすらと黄色く色づいていく。

 それは懐かしい、ホッとする匂いだ。

 温かいカップを2つ、空のカップを1つ、センターテーブルに置く。

「好みでティーバッグは取り出せ」

「べつに茉莉花だからって、ジャスミンが好きとは限らないと思うんですけど……」

「フン、嫌いか?」

「そんなことは……」

「俺は好きでもあったし、嫌いでもあったな」

「なにそれ。

 矛盾してません?」

「死んだ妻が好きでな、もう10年経つ。

 で、死んだあとは嫌いになった。

 それだけだ」

「……べつに謝らないわよ」

「もちろん。

 そんな必要はない」

 カップを両手で包んで持ち上げる。

 すると茉莉花と目が合う。

 茉莉花はイタズラを思いついたように笑うと、前のめりになり尋ねてくる。

「じゃあ、今は嫌い?

 それとも好き?」

「どうかな。

 もともと嫌いじゃないのさ。

 長い時間も経ったしな」

「あなたにしては、はっきりしないのね」

 その投げかけに曖昧に笑い、俺は返事を濁した。

 きっと彼女にとって、納得のいく答えではなかったのだろう。

 茉莉花は力を抜いて、体を背もたれに投げ出した。


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