16 泰河


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... “これこそが、生命だ”


司祭が、影の仔羊に触れていた。


仔羊には 実体があった。

大地の男や白い木々のように。

杉や羊歯のように。二本の大樹のように。



... “『水は生き物の群れで満ち、

鳥は地の上、天の おおぞらを飛べ』”...


とおくから、身の内からの声と

生まれては消える泡の音。

冥い水の中で瞼を開き、創世の祭壇に横たわる。


白い空から、四肢を伴ったルアハが 揺らめき落ちた。

焔には 口があった。顎の下に 牙の感触。

溢れ出し、祭壇を濡らしながら 焔にほどけていく。


白い大樹の大地の男が 瞼を開くと、一片ひとひらの葉が

枝から離れて、白く透けた鳥の形となって羽ばたいた。

草色の土の泥濘に落ちた葉は、白く透けた魚の形となって、泥濘に跳ねて潜る。


... “『生めよ、ふえよ、海たる水に満ちよ、

また鳥は地にふえよ』”...


枝を離れ 羽ばたく鳥は、空の焔に溶け入り

白い魚たちは 泥濘に潜った。

生まれては消えていく。泡のように。


... “水の男が齎すものは、かすかなる霊であり

生命には及ばん”


法則である右の男司祭の、藍のフードの中の顔が

鳥や魚から 影の仔羊に移った。



... “『地は生き物を種類にしたがって いだせ。

家畜と、這うものと、地の獣とを 種類にしたがって いだせ』”...


揺らめき降りる焔は、かたちを成し始めていた。

たてがみと尾、ひづめの上にほのお

ルアハ。 大地に降りる空の獣。


牙が 顎の下を食い破り、焔が融け込み溢れた水が

祭壇から 草色の土に染み入る。


大地の男... 白い大樹の根元から、白く透けた 羊が現れた。

羊は 歩きながら薄れ、白い鉱石の木々の間で消えた。


白く透けた 山羊が現れ、馬が現れ、牛が現れ、

白い木々の間に消える。

鰐が現れ、蜥蜴が現れ、狼が現れ、虎や獅子が現れ、皆 薄れて、白い木々の間に消えた。


這い出した蛇だけが、創世の祭壇を回り込み

法則右の男... 司祭のローブの下に潜った。



... “『われわれの かたちに、われわれに かたどって

人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、

地のすべての獣と、地のすべての這うものとを

治めさせよう』”...


声に目覚め、冥い水から上がると

身体が重いことに気付いた。


濃灰の神殿の入口から 風が吹き込み、肌や髪を洗う。

顔の前に翳した手には、色が着いていた。

向こう側の 砂漠の砂の色が。


指で、指や腕、顔にも触れると

白い鉱石のような木々や葉でも 藍の祭壇でもなく

灰色の砂や 草色の土の泥濘でもない感触がして、まばたきをすると、瞼に気づいた。


瞼を閉じれば、外界も閉じる。

水の男 という役割も分離する 自己の確立。


... “贄”


法則右の男... 司祭の思念が届いた。


... “祭壇へ” と、大気左の男の思念。


灰色の砂に上がっても、祭壇へ向かうことを躊躇する。戸惑いと 微かな嫌悪。

それまで こんなことは、一度も無かった。


きっと、身体に色が着いたからだろう。

影の仔羊のように。

曖昧だった 外界と自分との区別もついたからだ。


灰色の砂の上を歩くと、砂に足が沈み、足跡がついた。

濃灰の神殿からの風が、その足跡も洗う。


白い木々の間を抜け、祭壇に横たわると

影の仔羊を伴った 右の男が、白い空を見上げ

ルアハを呼ぶ。


水の中に落ちるインクのように揺らめきながら

空から祭壇に降りた獣は、焔が取り巻く前足で

オレの胸を押えつけた。


開いた口の牙が降りてくると、反射的に身が縮む。

いやだ と 瞼を閉じる前に、顎の下を食い千切られて、溢れる血液で 祭壇が濡れていく。


ルアハ... 獣が 押えつけていた胸は、もうほどけていて

大きな穴になっていた。

ルアハほのおや四肢、牙が当たると、そこから解けて

ルアハと融け入る。


... “見よ、これ等を”


融けて溶け入りながら、祭壇に背を向けて立つ

法則右の男の前には、色の無い人型のものが 二人 立っていた。人型の大気。


水の男オレとは違い、水とルアハが溶け入った 大気左の男

また大地から成っている。

一人は、胸が膨らんでいて、腰がくびれている。

一人は男だ。

草色の土と 白い大樹... 大地の男に、オレの血液が

取り込まれたからか、男は 大地の男と同じ顔の形をしていた。


... “『生めよ、ふえよ、地に満ちよ』”...


二人の間や 白い大樹の根元から、大気左の男から成る

人型のものが湧き出てくる。


... “『主なる神は 土のちりで人を造り、

命の息を その鼻に吹きいれられた。

そこで人は 生きた者となった』”...


神殿からの風が 大気左の男を振るわせる。


色の無い人型の大気たちは 草色の土の上に座り込むと、泥濘を手に取って 自分の身体に塗りつけているが、泥濘は とろとろと流れ落ちていく。

影の仔羊のように 確かな生命にはならなかった。



... “園にある どの木からも取って食べるなと、

ほんとうに神が言われたのですか”


法則右の男のフードの中から、蛇が這い出し

藍のローブを這い下ると

白い木々を越えた場所に現れた 無花果イチジク棗椰子ナツメヤシ

... 二本の大樹の元へと 法則右の男を誘う。


... “それを食べると、あなたがたの目が開け、

神のように善悪を知る者となることを、

神は知っておられるのです”


蛇に誘われ、大樹の下に立った法則右の男

... “新たなる 叡智を迎えよう” と

無花果を手に取り、フードの中へ運んだ。


... “見よ、人は われわれのひとりのようになり、

善悪を知るものとなった”


フードの中で 青銀の眼が光る。

神殿からの風が 藍のローブを煽ると、法則右の男

青銀に光る眼を神殿の向こう側へ向けた。


濃灰の神殿の向こう... 星々がまたたき、月が明かりを落とす 砂色の砂漠の泉には、人が集まっていた。


三日月形の泉のオアシスの周りには 幕屋が張られ

身体を休ませている駱駝の姿も見える。

泉から浮き出したかめを囲む人々は、そのなかに湧く

発泡した蜂蜜色の麦酒ビールを飲んでいる。

泉の向こうで、棗椰子の葉が 風に揺れた。


影の仔羊を伴った法則が 濃灰の神殿の前に立つと

草色の土の上に座っていた 色の無い人型の大気たちが 立ち上がり、神殿へ歩いていく。


ただ、最初の 二人は、祭壇の前に座ったまま

動かなかった。

大地の男と同じ顔をした男と、それと共に現れた

女の大気。


色の無い人型の大気が、神殿に足を踏み入れると

溶け込むように薄れ消え、神殿の向こう側に

黒い立体の影の人の形で現れた。


黒い立体の影は、自分の形の人間に重なった。

重なられた人の眼が青銀に光り、大気左の男の意思と融合していく。

それまで 砂の上に伸ばしていた影が消えた。


驚いて立ち上がった人にも 立体の影... 影人が重なると、眼を青銀に光らせ、大気左の男と融合し

新たな世界を知り、新たな感覚を目覚めさせた。


三日月形の泉のオアシスに居た すべての人に

影人が重なると、法則右の男が 神殿に足を踏み入れる。

赤い光が、神殿の中から 空へ突き抜けた。



... “贄が与えられた”


向こう側に立った 法則右の男の後に、実体を伴った 影の仔羊が現れると、大気左の男と融合した人たちは

声と思念で「オオォーッ!!」と 歓声を上げた。

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