紅色 ~傷~ 33

「はッ、ハハハッ……ゼぇ、ハハッ……!?」


とある男は逃げていた。

顔はまだ若く、目の下のクマができており、痩せ細った身体に充血した目が男の年齢が中年男性のように見せてはいるが、男はまだ青年と呼べる年齢ねんれいだった。

息を吸って吐き、息を吸って吐き、この至極当たり前の行為である呼吸を青年は苦に感じつつあった。

日常生活では何の支障ししょうをきたさないが、運動の最中、焦燥に駆られる、緊迫的状態、または危機的状況において、呼吸することの──息を吸って吐くことの辛さを男はみくびっていた。

右手に持つ所々錆びたカッターが人の温度と同じ程度まで温まっていた。それも脊髄から下半身の爪先まで滝のように流れる冷や汗で人肌程度の温度などわかりはしない。


「な、なんなんだよ!?一体なんだってんだよッ!!ち、ちちちっくしょーがー!!!」


黒のパーカーを深く被った青年のこれでもかと想わせる荒ぶる声が深夜しんやで静まり返った街中で響き──渡りはしなかった。

青年が走っている付近で行われる水道管の入れ替え工事、エンジンカッターが転圧機械の音が振動が青年の声をかき消した。

青年はそのことに気付かず尚声を荒らげる。


「うううううわぁぁぁあああ!!!嫌だ!!俺は、俺はまだ死にたくない!!!俺にはまだやらなくちゃいけねぇことがあんだよ!!こんの糞野郎がぁぁぁッ!!!!」


背後からの完全なる敵意、幾ら突き放そうと狙いを定めた獲物えものを刈り取ろうとする獣の如く迫って来る正体不明の存在、そして何よりも正体不明の存在から放たれる自分とは桁が違う圧倒的な『殺意さつい』が青年の忘れかけていた強者への得体の知れないものへの『恐怖きょうふ』を呼び覚ました。

『恐怖』で支配された青年は最早、冷静な判断ができていなかった。

ここに信号があったならば青年は確実に往来する車と即死不可避の事故にあっていただろう。青年の思考能力は失われていると思われているかもしれないが、青年は頭が回っていた。言語がハッキリとする程度には。

深夜1時を回った頃に襲われた、それも3度も。青年は最初、警察かと警戒したが暗闇にポツンと佇む自分と同じ黒いパーカーの服装に驚きを表すと前方──黒いパーカー姿の正体不明の存在からこれまた青年とカッターが寄ってかかっているコンクリートの壁に当たり、刃がくだけ散った。

ジャキッジャリン、ジャキッジャリン……、刃を出し刃が砕け散る音が延々と青年の耳元で鳴る。

どうして今更!?今まで何のアクションも起こさなかっただろ!!

青年は不思議に思って、考えないようにしていたある『疑問』が再び浮かぶ。

諦め、絶望し、意識をなくそうと現実から逃げたそうとすることから叩き起す目覚まし時計のように鳴り続け、そのお陰か、そのせいか、青年は未だ諦められていない。

生を諦められない。


「ち、ちちちちょっと、待てよ!俺は何も悪くねぇ!俺は自分のやりたいことをやっただけだ!実際、誰も悲しんでいないだろ!俺はやっと見つかった俺の生きる糧を楽しみを素直にやっただけだ!」


「……」


何も答えない。

その他者を全く歯牙にもかけない、豚や牛といった家畜かちくを見ているように想える態度に青年は「人の形をしてはいるが、中身は化け物なんじゃないか?」と通常なら笑い話にでかきることを今、青年は笑い話にできない。笑うことなどできはしない。


「こんの野郎……手前なんて俺が殺ろうと思えば殺れんだからな!!男か女かは知らないが女だったらその薄気味悪いパーカーをひん剥いて想う存分ヤリまくってやるからな!!」


『恐怖』に押し潰されないための青年なりの必死の抵抗だった。

荒い息遣いと耳元で鳴り続ける騒音が青年が生きている証であり、唯一自分で把握できる情報じょうほうだった。

──一層の事、ここでホントに殺ってしまおうか?

青年の精神は限界にきていた。いつまで続くのか、いつまで襲われるのか、いつまでこんなみっともなく逃げ回らなければならないのか。

月明かりが右手のカッターの刃に当たりギラりと鋭く輝く。

逃げ回るのに必死でずっと持っていることすら忘れていた。そのことを悔やむ時間はないが、自分にはあの正体不明の存在と戦う武器がある。

新たな生きる原動力は皮肉ひにくにも正体不明の存在が散々投擲してきた青年にとって『恐怖』の象徴しょうちょうとも言うべき物だった。

地獄に仏とはこのことだ。


「(ま、まだまだまだ、俺に……は、生きる術をがある、可能性がある、希望がある、蜘蛛の糸のように極細の決死の綱渡りだが、やれんことはねぇー!!)」


崩れそうな精神を無理矢理奮い立たせ、儚く脆い『〜かもしれない』という極めて低い可能性に一縷の望みに賭ける。

ギュッと右手に持つびたカッターを握りしめる力が無意識に強くなる。

尋常ではない手汗が青年の両手、特に右手から滲み出る。

──失敗は許されない

人生初の極度の緊張感、危機感、身体の自由を奪う束縛感、心臓を背後から抉り出されているかのような圧迫感。

この時の青年は『やりたいことがあるから生きたい』といった純粋な想いだった……、が青年は知らない。その純粋な想いは──汚れ腐り切っている『異常 いじょう』な想いだと。

青年は今走っている先にある曲がり角── 一本道で月明かりや電灯で照らされていないここでは完全に一瞬死角となる所で待ち構えてやろうと計画を咄嗟に練る。

計画と呼べる程のものではない、単純に待ち構えて右折して来た奴をぶっ刺してやろうと、誰にでも思い付く考えだが、この暗くて視界が悪い、加えて両者緊迫状態の現状なら正体不明の敵も一瞬は無理でも刹那程度なら油断するかもしれない。

玉砕覚悟で青年は決心した。


「……」


「ちッ!!」


正体不明の存在は一切止めることなくカッターを投擲し続ける。青年の身体はカッターの刃で所々切られ、血が滲んでいた。

しかし、それも後少しの我慢がまんだ。

精神が磨耗する中、青年はそう心の中で自分には言い聞かせる。


「(今だ!!)」


右折する。

距離が数メートル離れていて良かった、青年はそのことに感謝しつつ、足を止め、じっと正体不明の敵が来るのを心臓の躍動を耳元で流しながら待つ──待ち構える。

閉じそうになったいた目をギョロッと見開くと同時に鼻息が荒くなる。

この間、3秒弱。


「……」


警戒心が一切ない。青年はそんな風に感じ安堵したが、それもスグに捨て去った。


「(来る来る来る来る来る来る来る来る。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。殺してやるッ!!)」


そして、その時が来た。


「……」


「(い、今だ!)し、し死ねやッ!!この糞野郎がぁぁぁぁあああ!!!」


最短距離で正体不明の存在の胸元へとカッターが握られた手を伸ばす。

ここで補足だが、青年は大学にいた頃、ボクシングサークルに所属しており、青年のジャブはそこそこ早かった、

その過去が現在に今に役立たれ、青年の希望通りに運良く偶然正体不明の存在の胸元へと届く──ことはなかった。

現実は非常で厳しい。


「……え?」


感情の色を失くした素っ頓狂とんきょうな声が青年の口から漏れる。

それも仕方のないこと。

青年の持っていたカッターを正体不明の存在が持っていたカッター──両手に握っていたカッターで抑え込まれていた。

カッター二刀流?

青年の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。

戦国武将よりも闇に紛れてひそっりと相手を抹殺する暗殺者のフォームを連想させ実際、青年の頭は現在至近距離で目の前行われている現実離れした事態に理解が追い付いていなかった。


「…………ば、化、バケモノめぇぇ」


勢いも感情も燃えた木々が沈下するようにすっかり消え去った。


「……」


正体不明の存在は螺子ねじが止まった人形の如く膝から崩れ去り、ピクリとも動かなくなった青年を見下ろし──


「……」


正体不明の存在の瞳はひどく濁り、青年の瞳に映る自分の姿を忌まわしそうに眺めていた。




















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