37話 紅蓮
曇天の空。
太陽は分厚い、今にも雨粒を零してしまいそうな雲の奥に隠れ、もう昼だというのにやけに薄暗い。
冬の冷気と相成ってどうにも寒々しい風が窓の外で吹き付け、窓を揺らした。その些細な雑音をBGMに聞きながら、帝は机の上に肩肘をついて黒板に無間地獄のように増え続ける数式を眺めていた。
耳に入ってくるはずなのに、その反対側の耳からすり抜けて行く。どうにも集中できない。既に聞いたことのある授業とはいえ、この調子でいても仕方がないだろう。
その理由は明白。一番後ろの席でぼんやりと時の流れるに身を任せる帝の二列前、この単純極まりない問題演習に頭を抱える少女、刀薙切吹雪。
目下絶賛悩みの種。そしてその正体は《絶望》属性を持った精霊、パンドラの宿り木。
もう間もなく、場合によっては今日にでも。
行動を先延ばしにしていても、いいことは無い。リリムが接触を急いだのは、単に時間がなかっただけなのか。ひとつの可能性として、パンドラが動きだそうとしていたのではないか。そしてその時期はほぼすぐまで差し迫っていたのではないか。
よって、今。仲間たちに背中を押され、恐怖心も動揺も、どこかに追いやった今なら、誰にも負ける気がしない。
下手に動くことで周囲に被害をもたらしてしまうことは避けたいが、この状況は裏を返せば日常の中に爆弾を抱えているようなものだ。しかし放置しておくことも肯定し難い現実でもある。
だがその爆弾は、救うべき失われた記憶の中の少女であり、なんとしても助けなければならない。
そして、自分を信じて、自分を恋い慕ってくれている彼女たちのためにも。
結局授業を聴き逃して、お昼休みを迎えた帝は吹雪を屋上に呼び出していた。
フェンスに背中を預けて待つこと数分、屋上へ繋がる階段のドアが開けられ吹雪が姿を見せる。
「やっほー! つかさっち!! 急にボクを呼び出してなにか用でもあるの?」
元気はつらつといった風に軽快にステップを刻みながら吹雪は帝の下へと駆け寄って来る。鼻先同士が触れ合うような距離にまで詰め寄って、純粋無垢な笑みを輝かせる。
距離感は未だに掴みかねる。彼女たちがどうして自分に好意を寄せるのかが分からないのと同様に、この少女の病的な好意もまた、理解の及ぶところにない。
しかし、自分のすべきことは、それに対して当惑していることではなく、勇気を以て挑むことだ。
綾乃を始めとして、仲間たちは学校を抜け出して緊急事態に備えている。
決意を固めて、はやる動悸を押さえ込んで帝は吹雪の顔をまっすぐ見つめ返した。感情を削ぎ落として、冷酷なまでの優しさのない声音で紡がれた宣告は喉の奥から一字一句淀みなく発せられた。
「ケリをつけよう、パンドラ」
「・・・・・・どういうこと?」
ゾクリとこれまでとは比較にもならないような悪寒が全身を激しく揺さぶった。色を失った吹雪の虚無的なまでの冷徹な怒りは、もはや殺意と呼んで差し支えない域にまで達していた。
反射的にたじろぎそうになるのを精神力で支え、臆せずに帝はその無色の感情を覗き込む。それはひとつの深淵。人の全てを飲み込むブラックホール。
触れれば即死の絶対的な領域に踏み込んだ。
「俺はお前の知る九条帝じゃない。お前を止めるためにもうひとつの世界から来た九条帝、全くの別人だ。俺とお前がどんな関係だったかなど知りはしないが、《俺》は容赦はしないぞ・・・・・・なあ、パンドラ早くその化けの皮を剥いだらどうだ?」
手の平の上に炎の弾を形成し、それは意思をもったように飛び回り、周囲を囲んだ。雪が解け始め、熱気が包み込んでいく。
揺らめく炎に退路を防がれながら、吹雪は。
豹変する。
「ねぇ、なんでそんなこと言うの? つかさっちはつかさっちだよ、ボクの大好きなつかさっち、ボクの、ボクのつかさだよっ! ボクだけに優しいつかさだよっ!! ・・・・・・ああ、そうか。あの子たちがつかさを誑かしたんだね? やっぱりもっと早く殺しておくべきだった。安心して、つかさ。つかさを惑わしたおじゃま虫たちはボクが今から皆殺しにしてあげるから。そしたら、もうボクとつかさだけの幸せな世界ができる。あの子たちも草葉の陰で喜んでくれるさ、ねぇ? そうでしょ? そうなんでしょ? ねぇ、うんって言ってよ!!」
狂気が、ドス黒い瘴気となって吹雪の体から溢れ出す。茶色がかっていた髪は、徐々に白色を帯びていき、重力に逆らって蠢く。
瞳もまた、氷のように絶対零度の絶望を込めた透明感のある翡翠色に染まる。とめどなく溢れ出すその悪感情は目に見える牙となり、地面から生え出してくる。
しかし、これが最初で最後の好機かもしれない。復活の定義は分からない。内に秘めた妖精が目覚めるその動作の如何まで知るには、帝の知識は確実性に欠いた。
だからこそ、帝は駆ける。
そして、頼れる仲間たちに懸ける。
「サラド!!」
紅蓮の焔が吹き荒れ、天を赤く染めると時を同じくして、結界が校舎中を覆い尽くした。
綾乃と瑞生だ。綾乃はもとより、瑞生もそれなりに霊力を用いた結界の展開の技量に長けていた。それを信じて、パンドラの体が浮いた、打ち合わせ通りのタイミングで結界が、睡眠の属性を付与された、《連合》に伝わる対妖精戦闘空間術第三項、《蒼ノ塔》が完成した。
結界の内部の人間は皆眠りについた。それだけではない、学園の外でも《連合》、そして《師団》の妖精師たちが結界の維持、拡大に尽力してくれている。
未知の妖精が目覚めようとしている、そんな不明瞭すぎる救援要請に対し、帝たちを信頼して二つ返事で戦力を投入することを躊躇わなかった、こちらの世界の、或いはかつての同僚。
連合未登録の妖精師による綾乃に対する悪行という、連合の大失態があったことも巡り巡って、支援を断れない状況を生み出したのもまた事実。
数多くの支え、奇しくもその数は過去に起きていたはずの大事件とほぼ同数。
そして、帝自身まだ思い出していないが、その決戦地もまたそれと同じくして、最強最悪の敵と対峙する。
追憶の彼方から、あの時の激情が音を立ててその顔を覗かせる。
「うらああああああああぁぁぁ!!」
猛り立つ咆哮が喉の奥から渦を巻く焔に負けじと放たれる。
轟音が世界を震撼させた。
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