24話 熊

地響きが宵闇に包まれた校舎を震撼させる。

 ずしりと重たい足音は、廊下を疾走する帝の背後を追いながら尚もその勢いを増した。


 振り返ってはいけない、と本能が告げてくる。生命の危機を如実に体現するそれはその狂気の爪、概して狂爪を床へと叩きつけた。その破壊の衝撃は床を砕き、その威力は周囲の窓にヒビを入れた。


 背に当たる瓦礫の破片が身に染みて痛いが、それで歩を止めることなど当然容認される筈もなく、全力で地面を蹴る足に力を込める。

 ふシュー、と荒い鼻息が聞こえて、そいつは口から涎を滴らせた。無論見えない、しかし乾いた床を濡らすその音に他に予想がつかない。


 そいつ、その怪物、廊下を塞ぐ程の巨体を誇るそのクマは口の牙をギラつかせる。

 何故自分は夜の学校で、それも自身が通っていた訳でもない中学校で熊から逃げているのだろうか。


 そしてこのクマを差し向けているのが、あの権力さんであることに納得するもやはり信じられずに帝は唇を噛み締める。


 クマ好きとして変な方面から有名な権力さんの特徴は、記憶の有無を除いてはほぼ同質と見て間違いないか。

 センセイ、伊草、その二人の変化に何かしらの要素が入り込んでいることが原因と仮定、それを一旦定義と置き換えてこの現状を鑑みればこの権力さんの攻撃は、どこに分岐点があったのか。

 自分本位に言ってしまえば、帝が生徒会長にならなかったことで本来あるべきだった権力さんとの出会いが有耶無耶になっているということだろう。熊が好き、その心は熊の持つ圧倒的な暴力性が好きという権力さんの心情との矛盾点を指摘するには、そこに着眼するしかない。

 それ以外に起因すべきものがあるとすれば、刀薙切の存在が切って捨てるには不確定要素が過ぎた。


 それを解き明かせば、何かしら元の世界に戻るためのヒントが得られるのではないかああああああああああああああああ!?


閑話休題それはさておき、今は俺の命が最優先だろうが!!」


 加速度的に悪化していく状況。現在進行形で失われつつある己の命。それらと天秤に架けられるのは、既に何度も繰り返された検証実験、シュミレーション。自分が選ぶべきは考えるまでもなく明らかなのに、考え出したら止まらない己の性格が恨めしい。  


「つかさる、僕の力を使うかる?」

「あの大きさ、あのスピード、恐らく最高火力でも焼き尽くす前に殺される・・・・・・小手先の技で逃げようにも窓の外は霊力で結界が張られている・・・・・・てな理由ワケで今は逃げる!」


 頭の直ぐ真横を机が直球のように飛んでいく。投げたのだ。多分当たっていたら、死んでいた。それでもその武器はまだ可愛いかもしれない。

 権力さんや、いかに他人だとしても少しは加減というものをとツッコミを入れる余裕が生まれたかと思ったが、続いて飛んで来たのは黒板。曲がり角でのヘッドスライディングで回避するが、さっきまで自分がいた場所を文字通り殺人級の一撃が粉塵を散らしながら通り抜けていった。


 帝の表情にサッと青色が差す。ここでイフの話をすれば今の場所が曲がり角でなかったら十中八九避けきれずに全身骨折の未来が黄泉の国から手招きしていただろう。

 その危機こそ回避できたが、未だ足を引っ張るあの世からの誘い。クマはまだ追ってくる。

 

「はぁっ、はぁっ・・・・・・、くそっ、ああもうどこにいやがる! 権力っ!?」


 絶叫が迸る。

 それを聞く者はここに、一人だけ。


 ★  ☆  ★


 帝が通り過ぎたばかりの教室で、微笑を携える少女がとても楽しそうに糸を手繰る。

 その糸の伸びる先はクマ、に限りなくそう見える寄生妖精、ティルティ。

 灯台下暗し。夜の闇よりも深い黒色をした髪を優美に体の揺れるに任せる少女、咲敷綾乃、または権力さんは遠くに響く帝の絶叫を聞きながら、また愉快そうに肩を震わせた。


「さあ、もっと足掻いてくださいな。九条帝さん?」


 彼女が呼んだのは、愚物の名。

 愚かしくもわたくしという特別な存在に下心丸出しで現れた、妖精師ということ以外になんら評価できる点のない、有象無象を超えて、もはや憎たらしいまでに神経を逆撫でる存在。


 男というものはいつもそうだ。女を性欲のはけ口ぐらいにしか考えていない。そうであれば、こちらも男を家畜のように、おもちゃのように扱うことに不当だと言われる筋合いはない。

 敬意を払うにも値しない。だったらボロ切れになるまで、生きていることすら後悔するまで痛めつけてしまえ!!


 糸を操る右手に込められる霊力の量が爆発的に増え、同時に熊の、ティルティの膂力もまた、増す。

 一際大きな轟音が鳴り響き、ティルティのガラスの目を通して見える先では、男は為す術もなく無様に転がっていた。


 ★  ☆  ★


 理科室を横切って、とっさに帝はある作戦を思いついた。しかし、それをやるには、更に勢いを増した熊からかなり距離を取る必要がある。時間稼ぎが必要なのだ。


 ここは二階、方法は多少賭けになるが、ないこともない。

 そうと決めた帝は三階への階段を駆け上がった。


 ちょうど位置の互換的に理科室の前と同じところに来たタイミングで、帝は廊下の窓を割った。グッジョブ! 結界は窓ピッタリに張られているのではなく、人一人分の余裕を持って作られていた。

 熊が迫る。

 一切の躊躇を捨てて、帝はそこから飛び降りた。そして二階の窓の縁を掴むと、体を捻って窓を割り中に突入する。

 ガラスの破片が肌に食い込むのを感じながら、帝は理科室へと入る。狙いは、そう。理科室なら必ずある、ガス。全ての元栓を開いて噴出し、徐々に部屋中が可燃性ガスで満たされていく。


 そして、重厚な足音が近づいて来る。

 ドアの前で、熊は帝の存在に気づいたようで、壁を薙ぎ払って内部へ強襲する。


 ガスがそこから漏れる前に、熊の体が全て中へ入ってきたその瞬間に、帝は地面に倒れ込みながら、妖精の力を使う。


 爆炎が大気を震撼させた。


 途方もない暴力の渦が一人と1匹を飲み込んだ。

 

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