エピローグ
千鳥かなめが目を開けると、真っ白な天井が見えた。元々寝起きは良い方ではない。ここが住み慣れたマンションの自室でないことに気付くには、数十秒を要した。意識が覚醒するにつれ、何か恐ろしいことが自分の身に降りかかったことを思い出していく。そうだ、あたしは――。
体にかかっていた布団をはねのけ、かなめは勢いよくベッドから飛び降りた。体には入院患者が着るようなガウンを纏っている。どうやらブラジャーは外されているようだ。その事実にぞっとするが、今は考えないようにする。足に力を入れ直し、そのまま正面に見えるドアまで駆けようとして――突然耐え難い頭痛に襲われ、その場にうずくまった。
それはまるで、頭の中を電流が暴れまわっているかのような、嵐のような痛みだった。同時に襲ってくる猛烈な吐き気。咄嗟に手で口を覆うが、堪えることなど到底無理だった。そのまま床に嘔吐する。だが、手や服が汚れることに気を回す余裕は無い。ただ、声にならない叫びをあげ、ひたすら痛みに耐え続ける。
痛みは一分足らずで、徐々に治まっていった。まだ吐き気はするし、涙で視界はぼやけている。だがかなめは歯を食いしばると、再び立ち上がった。早くここから逃げなくては。
しかし、ドアの外からぱたぱたと、走りながらこちらへ近づいてくる音が聞こえてきた。音の数からして二、三人。恐らく、自分の叫び声を聞きつけてやってきたのだろう。ここには武器になりそうなものも、隠れる場所もない。かなめはせめてもの抵抗と、ガウンの胸元をしっかりと押さえた。
勢いよくドアが開け放たれる。部屋に入ってきたのは三人、人種はばらばらだったが、いずれも女性だった。
「大丈夫!?何があったの!?」
見た目から日本人でないことは分かったが、ネイティブな英語を聞いて、相手がアメリカ人であることを理解した。だが確か自分は、北朝鮮に連れて行かれたはずではなかったか?
警戒したままのカナメを見て、先頭にいる恰幅の良い黒人女性が両手を広げる。
「安心して。私たちはあなたの味方よ。といっても、すぐには信じられないでしょうけど……」
同じように、残りの二人も手を広げてみせる。どうやら、確かに敵意はないようだ。
「きっと記憶も混乱しているでしょうし、聞きたいこともたくさんあると思うけど、今はまだ休んでいた方が良いわ。すぐに着替えを用意するから、ちょっと待ってて」
最も身長の低い白人女性が、そう言って部屋を出て行く。もう一人の若い、東南アジア系の女性が、部屋にあったふきんを備え付けの洗面台で濡らし、床の吐しゃ物をさっさと掃除し始めた。会ったばかりの相手に、いきなり自分の吐しゃ物を掃除されて、羞恥心と申し訳なさが警戒心を上回った。
「あの、あたし……」
「良いから、休んでなさい。心配しなくていいわ、ここは安全だから」
そう言われて、はいそうですかと信じられる程、お人好しではない。だが、気を失う前の記憶がおぼろげながら蘇ってきて、なるほど確かに、あたしを拉致した奴らとは違う。自分の勘を信じるなら、この人たちに、少なくとも悪意は感じられない。
「ここは、どこ……?」
「詳しい場所は……ごめんなさい、話すことが出来ないの。少なくとも、あなたの生まれ故郷ではないわ」
「これから、あたしはどうなるの?」
「それは、私には分からない。私の仕事は、あなたの身体と心をケアすることだけ。その後のことは、あなたを助け出した人たちが考えてるわ。ただ一つだけ言えることは、私達はあなたを守ることに全力を尽くすということ」
ただの善意ではないことは分かっている。平凡な、どこにでもいる女子高生でしかない自分を、得体の知れない組織が保護する理由など、かなめが知るわけもなかった。だが、先程から頭の奥で――自分に何かを囁きかけている、この声がきっと関係しているはずだ。
新しいガウンとシーツを抱え、白人女性が戻ってきた。東南アジア系の女性も床を拭き終え、二人で手早くシーツを交換していく。
「さあ、とにかく今はゆっくり休みなさい。顔を洗って、服を着替えたら、大人しく寝てるのよ」
かなめは素直に頷き、ガウンを受け取る。背中を向けて素早く着替えると、汚れた服を黒人女性に手渡す。
「じゃあ、何かあったら枕元のボタンを押して、私達を呼んでちょうだい。部屋のライトはリモコンで操作できるわ」
三人が部屋を出るのを見届けてから、かなめは洗面台で顔を洗った。冷水を顔に浴びせる度、思考がクリアになっていく。
あたしは何かに巻き込まれた。とてつもなく恐ろしい何かに。
濡れた顔をタオルで拭くと、テーブルの上にあるペットボトルを開け、ミネラルウォーターで喉を潤す。ベッドに戻ると、リモコンで電気を消し、布団の中で目を閉じた。確かに今は、体力を回復させることが先決だ。どうせ他に何もすることが無いのだから。
だが、いつまで経っても睡魔はやってこなかった。代わりに、自分をどこか、底の見えない暗闇へと引きずり込もうとするささやき声が、ずっと頭の中で聞こえていた――。
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