宝生世津奈の事件簿/深海の使徒

亀野あゆみ

第1話 波乱の幕開け

1.真夏の陽に焙られて・・・



 「宝生さん、ボクら、ローストビーフになっちゃいますよ。となりで、相棒の菊村幸太郎がぼやいた。確かに、降り注ぐ真夏の陽射しと地表の照り返しが、世津奈と幸太郎の身体をジリジリ焙っている。


「コー君をローストしても、骨ばっかりで美味しくなさそう」と世津奈は言い返す。


 身長190センチ近い幸太郎は、スリムを通り越して痩せすぎだ。27歳で、会社では最年少の幸太郎を、世津奈の同僚たちは「コータロー」、世津奈は「コー君」と呼んでいる。


 高く通った鼻筋にセルのメガネをかけた細面の顔は、色白で知的だし、目の周りには少し憂いもただよって、なかなかイケメンなのだが、しゃべり出すと、精神年齢15歳の地金がむき出しになる。


「宝生さんをローストしても、スペアリブって感じっすね。太い骨に肉が貼り付いて食べにくそう」


 スペアリブとは、うまいことを言う。世津奈は、すらっとして見えるが、実は、骨太でがっしりしている。背は高くない。というより、チビだ。高校生のころ、父から、「お前はおチビちゃんだけど、身体の中で手脚の比率が高いからモデル体型っぽっく見えて得だぞ」と褒めてるのか慰めてるのか分からないことを言われたが、まぁ、事実、そんな感じで、本当の身長を言うと驚かれることが多い。


 「あゝ、でも、屈強だから、警察官としては、良かったのか」コータローが勝手に納得したように言う。世津奈は、2年前まで警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ(警察用語では「営業秘密事犯」)を追う刑事だった。


「コー君、屈強って、婦人警官に使う言葉?」


「でも、宝生さん、女とか男とか、別に気にしてないっしょ」


 世津奈が黙ってコータローの顔を見上げると、コータローが急に慌て始めた。


「あっ、もしかして、実は、気にしてました?えっ、ええーっ、まずいこと言っちゃったかな」


 世津奈は吹き出したくなるのをこらえて、手の前で右手を振ってみせた。「そういうことじゃないの。辞書的には、『屈強』とは力が強いという意味だから、腕力のある私に当てはまらなくはない。でも、警察では、『屈強』と言ったら、いかついマル暴のデカとか機動隊員のことを言うの。だから、ちょっと変だなって思った」


 コータローが長身を丸めてすまなそうにするのを見ると、ささいな言葉の使い方にツッコミを入れている自分が大人気ない気がしてきた。


 「わかった、わかった。チビで屈強な私を焙ったらスペアリブになるんでしょ。面白いたとえだから、覚えておく」世津奈が笑いながら言うと、「そうでしょ。ボクもウマいこと言ったなって、思ったんすよ」と、コータローが急に元気を取り戻す。コータローは、いつも立ち直りが早い。



 世津奈とコータローは、機密情報の流出が不安だが警察沙汰にはしたくないという企業や研究機関から機密保持と産業スパイ狩りを請け負う調査会社「京橋テクノサービス」の調査員だ。今日は、「海洋資源開発コンソーシアム」の依頼で、コンソーシアムが所有する「深海技術センター」に産業スパイが潜入していないか調べに来た。


 これから「深海技術センター」の総務部長からあれこれ聞き出そうというのに、コータローは、Tシャツに短パン、素足にクロックスのサンダルと、近所のコンビニ買い物に行くような恰好だ。もっとも、世津奈も、白いコットンのポロシャツに濃紺のジーンズ、ビジネスっぽく見えなくもないウォーキングシューズといういでたちだから、コータローの服装をとやかく言うつもりはない。


 2人は、「深海技術センター」の中央通りを歩いていた。東京湾に面した200メートル四方の埋め立て地の中央を陸側から海に向って大通りが走り、両側に低層階の研究施設が整然と並んでいる。どの建屋も表面が打ちっぱなしのコンクリートで統一されている。見た目こそ地味だが、仕上げに手間のかかる高級仕様だ。「深海技術センター」を所有する「海洋資源開発コンソーシアム」は、一流の商社、メーカーの集合だけに、金回りが良いとみえる。


 研究所は夏休み中で、あたりに人影はなく、広い構内で、世津奈と幸太郎の2人だけが、逃げ場もなく、太陽に灼かれている。幸太郎が、また、横でぼやき始めた。


「だから、クルマで来ようって、言ったんすよ」


「歩くのは、健康にいいのよ」


「今日は最高気温が35度を超えるから、出来るだけ外出しないようにって、お天気お姉さんが言ってました」


「そうなの?」


「ええ、こんな、だだっ広い所を、上から下から灼かれて歩いてるなんて、熱中症にしてくださいって、言ってるようなもんじゃないすか」


 「ほら、グジャグジャ言ってるうちに、着いたわよ」と、世津奈は、右手の建物を指差した。壁に大きく13号棟と記されている。


「ええっ、これっすか?窓が全然なくて倉庫みたいですよ。本当に、こんな所にいるんすか?」


「普段は本部棟にいるけど、今日はここで業者がメンテナンスするのに立ち合っているそうよ」


「あゝ、メンテナンスかぁ・・・」コータローが遠くを見るような目になる。「メンテ会社でバイトしたことがあるけど、メンテって、会社とか工場が休みの時にやるんです。だから、メンテ会社の人間は、盆暮れに休めないんすよ」


「そうなんだ」


 世津奈は、世間の人が楽しく遊んでいる時に、ひとけの絶えたオフィスや工場で黙々と働くのはどんな気分だろうと、少しだけ想像してみる。楽しくなさそうだが、慣れれば平気になるのだろうか?

 おっと、今は他人の気持ちを想像している時ではない。世津奈はジーンズの腰ポケットからスマホを抜いて、東光物産の井出部長から教えられた番号を呼び出した。中高年と思われる男性の声が応える。


「あゝ、京橋テクノサービスの方ですね。井出部長から話は聞きました。調達品の監査だそうで。毎月末、井出部長様に提出しているレポートをご覧いただけば済むことなのに、暑い中をご苦労様です」穏やかな声だが、「迷惑だ」という感情がハッキリ現れている。


「私どもも、『深海技術センター』様からのご報告に疑念があるとか、そういうことでは全くございません。ただ、 100万円以上の調達品の現物監査を受注致したものですから、こうしてお邪魔している次第です」世津奈は、とりあえずは、丁重に下手に出る。


 意外なことに、「深海技術センター」総務部長の倉田俊介は、建物の外まで世津奈たちを迎えに来た。倉田は、額の禿げあがった、やせて小柄な男性だった。歳は五〇代後半といったところだろうか?この暑いのにスーツを着てネクタイまでしているが、それがキッチリというより、崩れて疲れた感じをかもしだしている。


 倉田は、メガネの奥から不審そうな視線をコータローに投げてよこしたが、世津奈が「よろしくお願いします」と頭を下げると、「では、まあ、どうぞ」と、世津奈たちを建物に招き入れた。


 中に入るなり、コータローが「こりゃ、すごい」と声を上げた。全館ぶち抜きのオープンスペースの内壁に肋骨のように鉄骨が張り巡らされ、天井を縦断するひときわ太い二本の鉄骨からは、巨大なクレーンの吊り具がぶらさがっている。そして、オープンスペースの中央に、クジラを寸詰まりにして頭に透明の球体を埋め込んだような物体が2つ、据えられていた。球体の中は、様々な機器で満たされている。


「1万メートル級の有人深海潜水艇、『かいこう1』と『かいこう2』です」倉田の声に少し自慢気な調子が現れる。


「1万メートルといったら、世界でも最高の潜水深度ですね」世津奈が水を向けると、「ええ。これだけの深さまで潜れる有人潜水艇は、世界でも、この二艇しかありません」と、倉田の声の調子がさらに上がった。


「その『かいこう1』が、先月、ひそかに日本海溝に潜り、6000メートルの深海から、あなたたちがREB(Radiation Eating Bacteria 放射線無害化バクテリア)と呼んでいる微生物を持ち帰ってきた。そうですね」


 倉田がごくっと息を飲む音が、ハッキリ聞こえた。


「そんなことは・・・」


「『聞いたこともない』と、おっしゃりたいのですね」


 世津奈が倉田の言葉を引き取り、彼の目を強く見据えると、倉田は顔をこわばらせ、目を宙に泳がせ始めた。


「でも、心の中では、『なぜ、この女が、この研究センターの最高機密を知っているんだ』と、驚いていらっしゃる」


 世津奈が微笑みながら続けると、倉田が脅えたような目で世津奈を見返してきた。


「ご安心ください。私たちは、決して怪しいものではありません」世津奈は、バックパックを下ろして、中からA4版横書きで200ページ近くある契約書を取り出し、倉田に差し出した。


「『海洋資源開発コンソーシアム』と私ども京橋テクノサービスが取り交わした調査契約書です。東光物産の井出部長様が、コンソーシアム側代表者として署名捺印していらっしゃいます」


 世津奈から契約書を受け取ったとたん、倉田が肩を震わせた。無理もない。標題には、堂々と『REB関連機密情報の漏洩調査』と記されているのだから。


「機密漏洩調査だなんて、そんなこと、井出部長は、ひとこともおっしゃっていなかった。ただ、調達品の監査としか・・・」


「訪問理由を偽ったことは、お詫びします」世津奈は素直に頭を下げる。「ウソも方便」とは言うが、人をだますことが相手に失礼なことに変わりはない。


「機密漏洩調査と申し上げると、相手の方に逃げられたり、証拠を隠滅されたりすることが、ごく、たまにですが、ございますもので」


本当はごくまれどころか極めてひんぱんに起こるのだが、それを露骨に伝えるのは、相手を頭から疑ってかかる失礼な態度に思われるので、世津奈は、ごく控えめな表現にとどめることにしている。


 世津奈は、倉田の注意を契約書に戻させた。


「91ページから115ページにかけて、私どもの守秘義務が記されています。かいつまんで要点だけ申し上げます。まず、京橋テクノサービスで本件に関与する人間は、社長の高山ミレと私、宝生世津奈、そして、こちらの菊村幸太郎。この3名に限定されています」コータローが、世津奈の隣で長身を折り曲げてペコリと頭を下げた。


「本件専用にインターネットから遮断したパソコンを用意します。収集した情報は、すべて、そのパソコンに記録し、報告書もこのパソコンで作成します。調査完了時には、調査報告書と収集した全ての情報をパソコンごと、井出部長様に納品いたします。ただし、弊社の控えとして、複写不可能な用紙にプリントした調査報告書の控えを1部だけ保管させていただきます」


 「それで、私は、何をお話したらよいので・・・」倉田が泣き出しそうな声を出す。


「少し込み入った話になるので、出来れば、座って落ち着いて話せる場所があるとよいのですが」


倉田がハッとしたような顔で、「これは失礼しました。地下の事務室にご案内します」と答え、世津奈たちに背を向けて歩き出した。


 世津奈が倉田に続きながらコータローに目を向けると、コータローがメガネの向こうで眼玉をくるりと回して見せた。何かを嗅ぎつけた時のこの若者のクセだ。そう、倉田は、匂う。それも、プンプン匂う。この男は、機密漏洩に関して思い当たることが大ありなのだと、世津奈はにらんでいた。



2.狭い路地で昼間から激闘



 「お客さん、ここから先は、クルマは入れないよ」中年のタクシードライバーがダミ声で言った。このあたりは、 昔からの下町がそのまま残ってて、狭い路地だらけだ。消防車が入れないから建て替えしろって都が言ってるけど、 ちっとも進んじゃいない」ドライバーが説明してくれる。


 「車両進入禁止」の標識が立っている路地の手前でタクシーが停まった。ドライバーがカーナビを見て「お客さんから聞いた住所は、その路地に入って、半分ばかり行ったあたり。路地の右側だね」と教えてくれた。


 「ありがとうございます」と世津奈が運賃を渡している間に、コータローがタクシーを降り、「うへえー、センターより、もっと暑いっす」と言う。コー君、当たり前だよ。今は午後の2時、暑さのピークだ。


 路地をのぞくと、クルマ1台が通り抜けられるかどうかの細い道の両側に塀も生垣もなく、建屋が剥き出しになった二階建ての民家がずらっと並んでいる。家の軒先に朝顔の鉢が並び、乾きかけた打ち水の痕が見られるあたり、昔ながらの下町風景そのものだ。


「大洋重工みたいな大企業の次長だっていうから、臨海部のタワーマンションにでも住んでるのかと思ったら、大違いっすね」


「代々の江戸っ子で、生まれ育った土地に愛着があるんじゃない?それにお金があっても、この辺で一軒だけ建て替えると、自分の家の前だけ道路を広げなきゃいけなくて面倒だし、近所からも嫌な顔されると思う」柳田部長とは、大洋重工から「深海技術センター」に出向してREB研究の中核となる生物資源開発部の部長を務めている柳田雄二のことだ。



 世津奈たちがにらんだとおり、「深海技術センター」の倉田総務部長には後ろ暗いところがあった。「海洋資源開発センター」との契約というお墨付きを振りかざすと、倉田は簡単に白状し始めた。生物資源部長の柳田が知人の中国人女性を正式手続き抜きで研究員に採用するのを黙認していたのだ。


 機密保持のため、「深海技術センター」は、センターの所有者である「海洋資源開発コンソーシアム」が審査・承認した人間しか採用できない。倉田は「センター」の総務部長として、柳田部長にルールを守らせる立場にあった。 


 しかし、2人は大洋重工からの出向者で、大洋重工では柳田が次長、倉田が課長だったため、倉田は柳田に押しきられたのだという。このあたりの感じは、徹底した階級社会の警察に身を置いていた世津奈には痛いほどわかる。


 倉田から教わった女性研究員の電話番号にかけると、固定電話はもちろん、携帯にも応答がない。切ってある携帯を起動させて呼び出す非常呼出信号を使っても、電波の向こうは沈黙したままだ。


 女性研究員がすでに欲しい情報を手に入れて逃亡した可能性が高かった。女性研究員の身元や立ち回り先のヒントを得るために、至急、柳田部長に会う必要がある。


 柳田部長に電話すると、幸い、柳田は自宅にいた。調査員と名乗って逃げられても困るが、単純な用件では夏休み中の柳田に断られるおそれもある。世津奈は、中を取って、「東光物産・井出の部下ですが、井出の代理で至急お伝えしたいことがあります。電話やメールでは不都合な件なので」と物々しい口調で告げた。柳田は、少し言葉に詰まったように感じられたが、「では、お待ちしています」と硬い口調で答えた。女性研究員の件をかぎつけられたと気づかせてしまったかもしれない。


 倉田が柳田部長の写真をくれた。倉田と同じような年齢に見えるが、人に使い倒され、すり切れた感じが漂う倉田と正反対に、柳田は他人に命令することに慣れきった人間に特有の尊大な印象を与えた。警察でひんぱんに見かけたタイプだ。「離婚されて、今は、独り暮らしです」と倉田が付け加えた。だから、女性スパイにひっかかったと言いたいのだろう。



 路地の中は意外に風通しが良く、外の大通りより過ごしやすかった。一軒、一軒、表札を確かめながら歩いていると、10メートルほど先に、路地と玄関の間に狭い庭があって周りの家より少し羽振りの良さそうな二階家が見えてきた。


 「柳田部長の家って、あれすかね?」とコータローが指差した時、その家から4人の男性が出てきた。50代半ばくらいの恰幅の良い男性を、引き締まった身体つきの30から40代らしき3人が取り巻いている。みな、カジュアルな服装だ。恰幅の良い男性の顔は、柳田部長の写真とそっくりだった。


 「柳田部長」 世津奈が声をかけると、恰幅の良い男がハッとしたようにこちらを見た。救いを求める表情をしている。そう、世津奈は判断した。


 左肩に片掛けしていたバックパックの外ポケットを右手でこじあけ、中の特殊警棒を握る。「宝生さん、これって」コータローが緊張した声を出した。「ええ、荒っぽいことになるわよ」小声で答え、急ぎ足で男たちに近づきながら、声をかける。


「どちら様か存じあげませんが、私どもが、柳田部長と先約があります。ここは、お引取り願えませんか」


 3人が世津奈に向かって歩み出て、柳田の前に壁を作った。世津奈は、男たちの2メートルほど手前で止まり、再び、声をかける。


「もう一度、申し上げます。私どもが部長と先約があります。どうぞ、お引取りください」


 「先約だか何だか知らないが、痛い目にあいたくなかったら、さっさと引き揚げるんだな」真ん中の一番図体のでかい男が、太くて、低い声で威嚇してきた。世津奈は黙って、作り笑顔を返した。


「へらへら笑ってるんじゃねえ。さっさと、引きあげろ」男が、声にドスをきかせながら、こちらに踏み出してきた。


 世津奈は、左手でバックパックの背負いヒモをつかんで肩から外し、そのまま、中央の大男に投げつけた。男はよけきれずに脇腹にバックパックを受け、一歩後退した。バックパックの中には200ページ以上ある契約書が入っているのだ。それなりの衝撃を受けたはずだ。


 世津奈は右手に握った特殊警棒を振り出しながら、低い姿勢で右端の男に向かって宙を飛んだ。着地と同時に、男の左ひざ外側に警棒を叩き込む。男がひざを折る。間髪を入れず、男の腰骨にも一撃。男がバランスを崩して横転する。その頭にケリを入れ、中央の大男に向かった。


 半身で空手の構えを取った大男の肘を警棒で一撃。固い金属にはじき返されたような衝撃が右手を襲った。こいつは、一筋縄ではいかない。コータローに目をやると、彼は、もう一人の男と組み手で闘っている最中で、助けは期待できそうにない。


 大男のケリがうなりを上げて世津奈を襲ってきた。大柄な身体からは想像もつかない速さで次々とケリが繰り出され、世津奈はよける一方になる。


 しかし、世津奈は慌てなかった。男がこんなにも激しくケリを繰り出し続けるのは、小柄な世津奈が懐に飛びこんでくるのを恐れているからだ。その証拠に、男は間合いを詰める必要がある突き、打ちなどの手わざは一切使ってこない。恐れを持っている人間は、いつかは、焦って自滅する。そのチャンスをじっとうかがうのだ。


 世津奈は、男の蹴りをよけながら、右に回りこんで柳田宅の庭先に移動した。庭は、路地よりも、わずかに高くなっている。世津奈は大きく後ろに飛び下がり、庭に着地した。世津奈を追ってケリを繰り出そうとした男の軸足が路地と庭の段差にひっかかり、男がバランスを崩した。ケリが中途半端に空中で止まる。今だ!

 世津奈は、男の前に飛び出し、宙にある男のつま先に警棒を叩き込んだ。男がつま先を両手で抱えて片足立ちになる。男に立ち直るスキを与えずに、軸足のひざとその上の腰骨を連打する。男の身体が揺らぎ、路地に横倒しになった。男のみぞおちに警棒を叩き込むと、男は完全に動きを止めた。


 視線の先で、コータローの回しゲリが相手の後頭部をクリーンヒットした。相手の男はふらりと揺れてから、前方にばったり倒れた。




3.社長室で蒸し焼き・・・



 「暑いっすね」コータローがぼやく。「会社に帰って来たら、今日一日でいっちゃん暑いんすよ。『ヒドくね!』って言いたいすね」


「もう、言ってるよ」と応じてからタオルハンカチで額の汗を拭っても、ハンカチが汗でグシュグシュで役に立たない。


 世津奈とコータローは、「京橋テクノサービス」の社長室にいる。10畳ほどの広さで、艶光りする木製の壁とフローリングに囲まれた威圧感たっぷりの部屋。西向きの窓から真夏の光が容赦なく差し込み、室内はサウナ風呂みたいだ。


 社長の高山ミレが「人間は自然の威力をリアルに感じて生きるべきだ」という信念を持っているため、社長室だけは全館エアコンの対象外になっている。しかも、ここには応接セットも打ち合わせスペースもなく、世津奈たちは、立ったまま蒸し焼きにされていた。


 「社長は、いつまで待たすつもりなんすか?もう20分経ちましたよ。柳田部長から聴取を始めようとした所を呼び出しといて、失礼じゃないすか。社長が来たら、パワハラだって言ってやります!」コータローが息巻く。


コータローは世津奈以外の先輩社員にはオドオドしているくせに、不思議なことに、社長には、平気で文句を言う。


「今日は、止めといた方がいいよ」


「なんでですか?これって、まるでお仕置きみたいじゃないすか。ボクら、柳田部長がさらわれる所を助けたんですよ。褒められるんなら分かりますけど」


 「ともかく、今日は、話すのは、私に任せて」きつい目でコータローをにらむ。それでも、何か言おうとするので、人差し指を顔の前で振ってみせた。「じゃあ、宝生さんから、ちゃんと文句言ってくださいよ」と、コータローが口を尖らせる。


 その時、ドアが勢いよく開いて、よく弾むゴム製のマトリョーシュカが飛び込んできた。マトリョーシュカが、 「あーたたち 、何てこと、してくれたの」と甲高い声を浴びせてきた。


 人間をモノにたとえるのは、ものすごく失礼だとわかっていても、世津奈は、社長の高山ミレを見るたびに、マトリョーシカを連想してしまう。まるっとした五等身くらいの体型で、きれいにウェーブがかかった、栗色がかった髪の毛が丸顔を包んでいる。目鼻立ちはくっきりしていて、日本人というより、白人を思わせる。すきっと通った鼻筋にかかったピンクのメガネの奥で、目玉がくりくりと実に表情豊かに動く。声は高い。


 身長は、世津奈より少し低いくらいか。この暑いのに、紺のビジネススーツに身を固め、タブレットを手にしていた。


「あーたたち、よくも、真昼間の路上で大立ち回りなんか、してくれたわね!ご覧なさい、ネットに動画が投稿されてるわよ」高山がタブレットの画面をかざして見せた。そこには、特殊警棒で長身の男を叩きのめす世津奈の姿が映っていた。スマホでかなり離れた所から撮影したらしく、世津奈の顔まではハッキリ見えない。


 「やはり、やられたか」と思った。高画質のスマホが普及した現代では、荒っぽいことをしでかすと、どこの誰に動画をネットにアップされないとも限らない。


 「この画像はさ~ぁ、あーたたちの顔がハッキリしないから、まだ我慢できるとして」そこで高山は言葉を切って、宝生をにらみなおした。「近所の人が警察に通報したら、どうするつもりだったの?宝生ちゃん、あーた、元警察官のくせに、そのことを考えなかったの?」


「その可能性は、あると思いました」


「だったら、なんで、武力行使なんかしたのよ。警察沙汰になって、お客様を巻きこみでもでしたら、あーた、あれよ、この会社が信用なくして、つぶれるのよ。あーたのせいで、社員とその家族が路頭に迷うの。あーた、自分のしたことが、わかってる?」高山は舌が短いのか、「あなた」が「あーた」になり、「さあ」は「さ~ぁ」になる。


「柳田部長を連れさろうとした連中が、口封じに部長を殺す危険があると思いました」


「はぁ?誘拐殺人ですって?それこそ、警察が対処する事態でしょ。民間調査員は、よけいな事に首を突っ込まないの」


 「社長は、矛盾してますって」不意に、コータローが割り込んできた。「柳田部長が殺されたら、それこそ、警察が『深海技術センター』に調べに入るじゃないすか」あれほど黙ってろと言ってあったのに、余計な事をする。


「あーたさ~ぁ、柳田の死体が出てくると本気で思ってるの?だとしたら、バカよ。ほんと、死んでも治らない正真正銘、永久保証つきのバカ」さっそく、高山から侮蔑の言葉が飛び出した。それでも、コータローは食い下がる。「死体が出なくても、捜索願いが出ます」


 高山がメガネの奥で白目を剥いた。「だ・れ・が、捜索願いを 出・す・ん・で・す・か?家族いないんでしょ」


「『深海技術センター』に決まってるじゃないすか」


 「そんなことしたら、警察が『深海技術センター』に来て、色々探って、REBにたどり着くかもしれない」今度は、世津奈が横から割り込んだ。これ以上、コータローが高山に侮蔑されるのを見たくなかった。


「そ~よ、柳田が殺されたって、死体も捜索願いも出ない。ただ、消えるだけ」


顔を赤くして何か言いそうになるコータローの肩を世津奈は抑えた。柳田に死なれたら産業スパイの手がかりがなくなるとでも言いたいのだろうが、手がかりは、探せば、他に何かしら見つかるものだ。


「だからさ~ぁ、問題は、宝生ちゃん、あーたよ。そこまで分かってて、どぉして、暴力沙汰を起こすまで起こすかなぁ~?」


 これ以上高山を刺激しないために、ここは、平謝りに謝ることにする。


「申し訳ありません。警察官時代の習性で、市民を守らなきゃと思ってしまい・・・」


「だから、あーたを雇う時に、『警察の常識は世間の非常識』って教えたでしょ」


「はい、教えていただきました」


「何度も、何度も、口を、リトマス試験紙が真っ青になるくらい酸っぱくして、言ったわよね」


「はい、おっしゃいました。私が未熟でした。本当に申し訳ありません」


 「今回はさ~ぁ、私があーたたちの無事を祈っててあげたから、幸運にも」そこで言葉を切って、高山は、「幸運にも」を繰り返す。「幸運にも、警察沙汰になってない。あーたたち、私に足を向けて寝られないわよ」


どうやら、高山は自分のことを神仏に等しい存在と思っているらしい。記憶にとどめておこう。


 世津奈は、あの場に警察が駆け付けても、自分たちが刑事告発されることはあり得ないと見込んでいた。だから、迷わず打って出たのだ。白昼堂々、人を拉致しようとする連中だ。どうせ、すねに傷もつ身で、警察の厄介にだけはなりたくないはずだ。


 世津奈は、そのことは高山に言わなかった。それでよかったと思っている。高山は知性とユーモアにあふれた人間で、ふだんは、一緒にいて刺激になるし、楽しくすらある。


 しかし、何かのハズミで脳内回路がショートすると、狂ったように怒り出す。そうなったら、怒りをひと通り吐き出すまで、収まらない。理屈で反論すると、怒りを長引かせるだけだ。最初に柳田の保護が目的だったと説明したのは失敗だった。初めから平謝りに徹して、高山が冷静になるのを待てばよかったのだ。




 高山がふーと息を吐いて、首を一度回した。怒りを吐き出し終わったと見える。


「でもさ~ぁ、せっかく相手をぶちのめしたんなら、ひとりでもいいから、連れてこりゃ良かったじゃない。そうすりゃ、そいつを尋問して、一気に黒幕に近づけたのに」


 高山が冷静さを取り戻してくれたのはいいが、話は、世津奈にとってマズイ方向に流れ始めていた。


「タクシーで帰ってきたんすよ。負傷して呻いてる奴なんか乗せられないじゃないすか」横でコータローがブスッとした調子で言った。思わず、コータローの顔を見る。どうして、悪い流れに乗るかなぁ?

「なんで、うちのクルマで行かなかったの。クソ暑いのに」高山が呆れた顔で世津奈を見る。


「えっ、社長も暑いって思ってるんですか?」と言いそうになって、飲み込む。


「宝生さん、クルマに弱いんす。すぐ、酔っちゃうんです」コータローが言った。あゝ、それを言うか、このど阿呆!

 高山が動物園で珍獣を見る小学生のような顔で世津奈を見た。


「あーた、なに、都心では駐車場所を見つけるのに困るとか、万が一駐禁でチケットを切られたら困るとか、もっともらしい理由をつけてたけど、ガキみたいにクルマ酔いするのが、クルマを使わない本当の理由だったの?」


 高山がデスクの後ろに回り、引き出しから何か箱のようなものを取り出して、世津奈の前に戻ってきた。


「ほら、これ使いなさい」


差し出された箱にはリュックに黄色い帽子という昭和の小学生姿の男の子がバスに乗っている絵が描かれていた。世津奈が幼稚園から小学校にかけて使っていた酔い止め薬だ。世津奈には、たいして効かなかったが。」


「それは、あげる。なくなったら、自分で買うのよ。調査費に計上しちゃダメだらからね。それでさ、コータロー、あーた、あとで、豊洲にあるうちの駐車場に行って、好きなクルマ持ってきなさい。あーたの好みで選んでいいから」


「コー君、派手なのはダメよ。どこにでもありそうなフツーのクルマにしてね」


高山にぎろりとにらまれたが、こればかりはきちんと言っておかないと、クルマ好きのコータローは、ど派手なスポーツカーでも選びかねない。


「宝生ちゃん、あーたさ~ぁ、肝心なところで不用心なくせして、そーいう、どぉーでもいい所で、慎重なのね。うちは調査会社よ。元々、目立つクルマなんか用意しておくわけないでしょ」


高山の軽蔑の視線を浴びてちょっとシャクだったが、まあ、少し考えてみれば、高山の言う通りだ。


 「さて、じゃあ、一緒にここまでの経緯を整理して、今後の作戦を練ろうか」話がやっと実務に向けて動きだした。しかし、世津奈は、これ以上この暑さには耐えられないと感じていた。とは言っても、今の流れの中で、それは、いかにも、切り出しにくい。


 その時、隣で空気が動く気配がした。目を向けると、コータローの長身が前後に揺れている。


「コー君、どうしたの?大丈夫?」と訊くと、「いや、前から言いたい、言いたいと思ってたことを言ったら、なんか、急に気が抜けて・・・」と言って、グラグラしだす。


「前から言いたかったことって、まさか、クルマのこと?」


「それに決まってるっしょ。この暑い中、歩かされてばかりじゃ・・・」そこまで言って、コータローは身体の芯を抜き取られたみたいにフロアに崩れ落ちた。


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