第26話 二人の間にあったもの

 有悟君は弾き終えると息を大きく吐き出した。緊張していたのかもしれない。

「ユウ。やっぱりお前の方が上手いよ。俺にはこういう演奏はできない」

「兄さんの方がギターも歌も上手いじゃないか……何を言っているんだよ」

「俺のは少しだけユウより弾くコツを知っていて、技術的に上手いってだけ。歌も同じである程度までなら誰でも上手くなれる。でも、ユウの弾くギターは技術うんぬんじゃなくて気持ちがこもってる――そんな気さえする音で本当に俺はいいと思ってるよ」

 有悟君は真っ直ぐに褒められることに慣れていないのか、困ったような表情を浮かべている。

「それにしても、スピッツの『ジュテーム?』か……これ、亡くなったユウの好きな人のために弾いただろ? 朱香さんだっけ?」

「…………」

 有悟君の沈黙に秀介さんは笑顔になる。そして、すぐに真剣な顔に戻り、

「そんなに好きな人だったのか?」

 と、改めてしみじみと尋ねる。有悟君はそれに首肯しゅこうして見せる。

「そうか、そうか。お前の好きな人、どんな人だったのか会ってみたかったな。なあ、ユウ。どんなとこが好きだったんだ? どんな人だったか教えてくれよ」

「いいだろ、そういうのは……」

「教えてくれてもいいだろ? 話せよ。そういう気持ちは溜め込まないで吐き出さないと後で辛くなるのはユウ自身だぞ」

 有悟君は私を見ながら、どうしようかと悩んでいるようだった。秀介さんからすると気まずくて視線を逸らしただけに見えるかもしれないが、その先には有悟君が好きだと認めたその当の本人の幽霊がいるのだ。

「有悟君、私も聞きたいな。お兄さんに話すついでに私にも聞かせてよ」

 有悟君は観念したのかギターを床にそっと置いて、コーヒーを一気に流し込む。

「わかったよ。彼女は――安居朱香さんは一年生の頃から同じクラスの女の子で、優しい笑顔をする子だったよ。でも、目立つ方じゃないからそんな笑顔の素敵さに気づく人は少なかったと思う。それにさ、面倒ごとを自分から背負い込むタイプでさ――美化委員を一年の頃から立候補してやるような変わった子だった。本人はポイント稼ぎより掃除が好きなだけと言っていたかな――」

 有悟君は思い出しながらぽつぽつと話す。私は有悟君の言葉に身を固まらせ、照れて転げまわりたくなる衝動に必死に堪える。

「おもしろい子じゃないか」

「おもしろい? そうかもね。で、そんな面倒なことでも手を抜かずに真面目にやるような子でさ、僕には理解できない部分もあったけど、正しい方向にも間違った方向にも一生懸命に努力してる――そんな女の子だよ。それで、一番惹かれたのは誰にでも気配りできて、分けへだてなく、接することができるところだと思う」

「それで?」

「朱香さんはさ、僕のことを兄さん――戎谷秀介の弟としての僕じゃなくてさ、一人の戎谷有悟として見てくれていたと思うんだ。そんな目で見てくる人は少ないからさ。先生ですら兄さんや母さんや父さん――僕とは関係ないところで僕を見ていて、周りはいつも僕じゃない僕を見ていたからさ。だから、同級生の――それも気になる女の子が僕を僕として認識しているのが嬉しかったんだ」

「そっか……ユウにもずっと俺のことで苦労かけてるんだな」

 秀介さんは目を伏せる。少し長い髪の毛の間から覗く瞳には、悲哀や後悔という念が混じっているように見えた。

「そうだよ。僕は兄さんに苦労かけられてるんだよ」

 有悟君はわざとらしく言う。秀介さんはそういう冗談めいたことを有悟君が言えるとは思っていなかったのか顔を上げ、小さく笑い出す。

「悪い、悪い。俺が苦労かけたことは全部俺が悪かった。許してくれ」

「別に兄さんと比べられるてこうむる苦労は慣れっこだからいいんだ。ただ僕は兄さんから直接受けたあの苦しい思いだけは簡単には許せない」

 有悟君の冗談に混じった本音の部分に秀介さんは反応し、

「俺、何か別のことでお前になにかしたか?」

 と、聞き返してくる。秀介さん本人には思い当たるところはなかったらしい。それは腕を組んで本気で悩んでいるあたり演技ではなさそうだ。有悟君はその姿を見て、大きなため息をついた。有悟君にとっての悩みは秀介さんにしてみれば大したことのないことだったと分かって拍子抜けしたようでもあった。

「兄さん……本当に心当たりないの?」

 秀介さんは首を捻って唸りだす。

「兄さんは覚えてないってことだね」

「俺は自慢じゃないけど、ユウに嫌がらせとかの類をしたことがないのが兄としての誇りでもあるんだぜ」

「じゃあさ……兄さんが高校に上がった辺りから、先生や同級生への愚痴や嫌味を延々と聞かせてきたのはなんでなんだよ? あれ聞かされる方としてはかなり苦痛だったんだぞ」

「ああ……あれか……」

 秀介さんは顔色を曇らせ、目を伏せる。

「あの時、兄さん言ったよな? 僕には話すような相手も仮に話しても誰も信じないだろうから話してたって」

「言ったかもしれない。その後に、俺は弟のお前の前でだけ本音で話せる、みたいなことも言ったはずだ」

「それが何だって言うんだ?」

「あのころは周囲の視線や期待というものが一段ときつい時期でさ、「人に言ったり期待するのはさぞ楽だよな? その前に自分でやってみろよ」っていう本心を隠して、外では一挙手一投足、気を抜かずにきっちりとこなしてたんだ。家の中でもその仮面をつけるのはしんどかったんだ。だから、昔、子供の頃にユウに言われた言葉にすがったんだ」

 今度は有悟君が固まる。それを見て今度は秀介さんが大きなため息をついた。

「ユウ、お前はもしかして覚えてないのか? ははは……話が食い違うわけだな……」

「僕が兄さんに何を言ったっていうんだい?」

「昔、小学生くらいのころかな? ユウが辛い時は助けてやるって言ったことがあったんだ。そのときに、ユウが「じゃあ、兄さんが辛い時は僕にできることはなんでもするよ!」なんて目を輝かせて言ったんだぜ?」

「そんな昔のこと、真に受けたって言うのかよ?」

「ああ……俺からすると、あの頃は――お前だけが頼りというか心の支えみたいなもんだったからな。母さんや父さんも俺には期待して頼って、それに応えるために無茶しててさ……ユウだけだったんだ。本当の俺でいられる場所がさ……ああ、でも、お前は苦しんでたんだな……ごめんな」

 秀介さんは深々と頭を下げる。有悟君はそれを見て、

「頭を上げてくれよ。兄さんのそういうことを知ってれば、僕はあのとき、もう少し違った思いで受け止められていたかもしれない。でも、それは変わらない……けど……」

 と、有悟君自身の気持ちと突きつけられた秀介さんの弱さの狭間はざまで困惑しているようで――。


 私は二人から見れば他人だ。だからこそ、話に聞く以上は過去に何があったか分からない。しかし、外側にいるから見えることもある。

 この兄弟は少しずつボタンを掛け違えて、お互いにそれにずっと気付かないまま今まで過ごしてきたのだ。

 そう思うと、二人はとてもよく似ている。

 二人とも勉強もできて、頭の回転もよくて、やろうと思えば何でもできるのかもしれない。さらに、二人とも基本的には身内には優しく、気が回せるのだが、ただ自分の本心を他人に伝えるのが下手で、言葉が足らなくて――、一言で表すなら、“不器用”なのだ。


「じゃあ、あれも僕の受け取り方が間違っていたと言うのか?」

「まだ何かあるのか? ユウ」

 有悟君の言葉に秀介さんは顔を上げる。その顔には悲壮感のようなものが混じっていて、秀介さんは秀介さんで有悟君に誤解や苦痛を与えていたことに苦しんでいるのかもしれない。

「去年の夏前だったかな……学校の屋上で授業抜け出した兄さんとばったり会ったときにさ、僕が兄さんを追い抜くなんて一生できない。兄さんにできなくて僕にしかできないことなんて何一つない。だから、兄さんの欠陥品だとか劣化版だとか言われるんだ、って言われたのをはっきりと今でも覚えてるんだ」

「俺も覚えているよ」

「あれも僕のことを兄さんが非難というか、僕自身を否定しているようでさ……何も言い返せずにただただきつかった覚えがあるよ」

「そうか……ユウ、お前はそう捉えていたんだな……」

「それ以外にどう受け取れって言うんだよ!」

「ああ言えば、ユウならもしかしたら発奮はっぷんしてくれるかと思ったんだ。ユウが同じ学校に入学してきて、俺のせいで……俺と比べてどうのこうのって言われて、不当に俺の劣化品だなんてさげまされて噂されてるのが俺は許せなかった。だから、ユウが何か一つでもいいから俺とは違うんだ、俺より出来るやつなんだってのを周りのやつに見せて欲しかったんだ」

「なんでそう言ってくれなかったんだよ……そうすれば、僕はもっと前向きにがんばれたかもしれない」

 有悟君の声は辛そうだった。それは秀介さんも同じで――。

「それは……ユウが怖かったからかもしれない……」

「どうして僕が……僕なんかが怖いんだよ?」

「お前だけなんだよ。俺を焦らせたのも、こいつには負けるかもしれないと思わされたのは――他の人、同級生たちはさ、早々に俺と競うことを諦めて、俺に負けるのは当たり前で仕方ないみたいな感じになっててさ……でも、ユウは少し運動が苦手だったり、人の輪の中に入るのが上手くないけれど、こと勉強や興味を持った分野はすごかった。俺が解いてる問題を二つ下の弟が悩まずに解いたりだとか、俺には衝撃だった。ギターだって、お前の方が覚えがよかった。そして、高校まで学業という面では俺にぴったりと後ろを付いてきた。だから、俺はユウに抜かれないために、ユウの前にこんな道もあるんだぞと見せるために、人一倍努力して来たんだ……」

「なんだよ、それ。全部……全部、僕が間違ってたってことなのかよ……」

 有悟君の悲痛に満ちた声が静かに零れ落ちる。

「お前が何を間違っていたかは知らない。ただ、お前が間違っていたというならその原因は俺だ。お前は悪くない。それに、その屋上の件の少し前にさ、職員室で英語の広谷先生に急に“戎谷の秀の方”とか呼ばれてさ……何でそう呼ぶのか聞いたら、案の定、ユウの方が完璧に広谷先生にやり返しててさ……ちょっと笑ったんだけどさ、そのとき、広谷先生がふと漏らしたんだよ。同じ時期のお前より弟の方が勉強は出来るのかもな、って……ユウが褒められて嬉しかったけど同時に怖くなったよ。だから、屋上での言い方がきつくなったのかもしれない……」

「なんだよ、それ……」

 二人の間に重たい沈黙が下りてくる。有悟君と秀介さんは長年に渡って掛け違えてきたボタンの場所をはっきりと認識し、修正したはいいものの、その見てきたものとは全く違うものがお互いに見えてしまい、そのギャップを埋める作業に戸惑っているのだ。

「ねえ、兄さん。じゃあ、兄さんが大学入学を機に一人暮らしを始めたのはなんで? ここからでも十分通えるよね?」

 有悟君は何かを確かめるように質問をする。

「それは……まずはさ、自分の力だけで家事全般をやって、経済的な面を除いて、母さんや父さんに頼らないでも生活できる土台を作りたかった。もちろんバイトとかもしてるから、お金のことも完全に頼ってるわけじゃないんだけどな。でも、一番大きな理由は、ユウにとって俺は目の上のたんこぶじゃないかと思ったからかな……学校とかで俺と比べられてるのを知ってたから、俺が日常的に視界に入ることがなくなれば、ユウはもう少し伸び伸びできるんじゃないかって思ったんだ、そのへんはさ、帆南さんの本業の方に相談して、悩んでだしたところでもあるんだ。帆南さんに、俺の存在がユウにとってはストレスになっているかもしれないって聞いてたからさ……」

「それも僕のためだって言うのかよ……たしかに、兄さんがいなくなったことでストレスは軽減されたよ。兄さんと顔を合わせたくないからわざと遅く帰ったりとかもしてたよ。でもさ、兄さんが家を出たら、今度はこの家に家族は誰も帰ってこないから、自分の足元が突然なくなったみたいな空虚さを感じるんだ。紗和子さんは家族に近いけどやっぱり他人で……僕は自分の家なのに自分の家だと感じれなくなってしまったんだ。そう思ってしまうと、また家に帰るのが辛くなって別のストレスが生まれて……」

 有悟君の声は涙ににじんでいて――ただ感情を吐き出す、それすらできなかった有悟君が感情をあらわにしているのは、彼の中で何かが変わったからかもしれない。

 秀介さんは有悟君の肩を叩きながら、「ごめん、俺が悪かった……」と繰り返していて――。


 私は二人の、兄弟の噛み合い出した時間の邪魔をしたくなくて、いっそこのまま消えてしまいたいとさえ思った。

 私は二人の間にあったみぞがなくなっていくのが目に見えて分かってしまい、思わず目尻からこみ上げてくるものがあった。

 有悟君はきっと大丈夫だ。幽霊になった私と話し始めて、柔らかくなったと思う。そこに根本にあった兄、秀介さんとの誤解が解消されたことで、さらに大きな一歩を踏み出すことができるだろう。


 ただ、私と有悟君のこういうことになっている原因――私の死の真相は依然としてまだ謎に包まれたままなのだ――。


 その後、秀介さんと有悟君は昔に戻ったように日が暮れるまで話したり、ギターを弾きながら歌ったり、勉強したりと久しぶりの仲のいい兄弟としての時間を過ごした。

 途中、秀介さんがトイレに立っている間に、有悟君は、

「今日はごめん、朱香さん。本当は君の家に行って、ペンを返したり話を聞いたりしたかったんだけれど……」

 と、申し訳なさそうに話してきた。しかし、私は、

「別にかまわないよ」

 と、笑顔を向ける。有悟君は困ったような表情を浮かべた。

「私の家は明日行っても変わらないと思うから。それに、今はお兄さんとの時間を大切にしなよ。死んでる人よりも生きている人との時間を大切にするべきだよ……」

「ありがとう」

 有悟君は嬉しさと申し訳なさが混じったなんともいえない表情を浮かべていた。

 ふいにそんな顔をされると、それ以上は何も言えなくなる。私はきっと有悟君のためならなんでもできただろうし、してあげようと思っただろう。

 それは、“生きていれば”の話だけれども――。


 私は有悟君の兄弟水入らずの時間を共有させてもらうことで、有悟君の満たされていく顔を眺めながら、どこか寂しさを感じてしまっていた――。

 秀介さんは夕食後には下宿先に帰ってしまい、有悟君はその後すぐに疲れがどっと出たのか横になると寝息を立てていた。


 私は一人、昨日より肉眼では分からないほど欠けてしまった月を見上げながら、自分にどれだけの時間が残されているのか不安に感じる。

 月に手をかざしてみても手は透けることはない。

 だけど、そう遠くない未来に自分は消えてしまうことだけはなんとなく感じていた――。

 そのときまでには、きっと有悟君の口から私の死の真相が語られる日が来るだろう。


 もう二度と目覚めないかもしれないという恐怖にさいなまれながら、今日も私は心地のいい眠りの浅瀬から意識を深く沈ませていく――――。

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