第4話 扉

 東京も郊外となると、結構静かなもんだ。小さなアパートが続く路地をのろのろと歩きながら、俺はぼんやりとそんなことを考えた。

 いったい、この道を何往復したことだろうか。仁と別れたときには天高く昇っていた太陽の姿はもうなく、星の淡い光とチカチカと点滅する飛行機のライトが空を飾り付けていた。

 いつまでこうしてふらついているつもりなのか。自分で自分に聞きたかった。

 おもむろにポケットから手を出すと、鈴の音が響いた。指の間から零れた青い手毬が揺れている。そっと手を開けば、電灯の明かりを反射して鈍く輝く鍵が。


 ──鍵、返せばいいんだな。


 威勢良くそう言っちまったけど……どんな顔してサキに 会えっつーんだ。

 仁も仁だ。俺もサキのこと好きだったこと、気づいてなかったわけじゃないだろうに。酷なことを頼むもんだ。


 ──頼むよ、廉。


 仁の苦しげな声がよみがえる。

 自然と鍵を握りしめていた。

 そうだ。仁も、仕方なく、だったに違いない。俺に頼むしかなかったんだ。あいつはあいつで、サキに会いたくないんだろう。

 会ってもつらいだけだと分かりきってんだから。

 手に取るようにその気持ちが理解できる。双子だからじゃない。きっと、俺も……同じ心境だからだ。


 「ああ、くそ!」


 頭をかきむしり、俺は悪態づいた。

 ここまで来て、なに尻込みしてんだ。鍵返して終わりだ。

 仁のため。仁のためだ。鍵を返すだけだ。──そう自分に言い聞かせ、俺はキッと前を睨みつけた。その視線の先にあるのは、四階建ての小綺麗なマンション。ほんの百メートル程度しか離れてないはずなのだが、一キロにも十キロにも遠くに感じた。

 この数時間で何度行き来したかも知れない道を、俺は足取りだけは勇ましく歩き出した。


   *   *   *


 オートロックもなく、エレベーターもない、簡素なマンションだった。住人のポストが並ぶだけのエントランスは飾り気がなく窮屈で、コンクリートの冷たさがひしひしと伝わってくる。

 サキのイメージに合わなくて、戸惑った。一挙一動可憐な彼女は、良家のお嬢さま、て感じで、俺は勝手に金持ちのイメージを抱いていた。

 それを言ったら、サキは「まさか」と照れながら笑った。


 ──普通の会社員の娘だよ。


 静まり返った自習室で、彼女は隣の席から俺に身を寄せ、そう囁いた。上目遣いで見つめてくる彼女。吸い込まれそうな深みのある黒い瞳。幼さの残るふっくらとした頬。柔らかそうな唇。セーラー服の胸当ての隙間からのぞく胸元。勉強なんてできる状態じゃなくなった。それでも自習室に残ったのは、単に彼女の傍にいたかったからだ。

 そもそも、自習室に通いつめてたのは彼女に会うためだったんだから、高校生といっても、まだまだ子供だったよな。つい、苦笑が漏れた。

 そんな情けなくも懐かしい思い出にふけっているうちに、三階についていた。とりあえずケータイを開き、仁からのメールに再び目を通す。


 「……三○二号室」


 メールにある住所を再確認し、ケータイを無造作にポケットにつっこむと、俺は三○二号室の扉を探した。

 仄暗い外廊下にずらりと並ぶ重々しい鉄の扉。その中で三○二の表記がある扉を見つけて、俺は足を止める。

 固く閉ざされた扉の前に立ち、俺はしばらく立ち尽くした。

 彼女がこの扉の向こうにいる。そう考えるだけで、心臓が異常な速さで暴れだす。呼吸が乱れて、手の平に汗がじんわりとにじむ。

 動けなかった。この扉を開けてはいけないような、そんな気がした。この扉の向こうに行ったら、何かが終わる──そんな気がしていた。

 鍵を渡すだけだ、と何度、自分に言い聞かせても、その声には我ながら説得力はなく、どこかでよこしまな期待をしている自分に気づかされる。


 ──頼むよ、廉。


 チリン、と鈴の音が響き、仁の言葉が脳裏をよぎった。

 俺はぐっと鍵を握りしめた。今なら引き返せると思った。いや、今しかない。このまま、帰ろう。そう心を決め、階段へと戻ろうと振り返った──そのときだった。


 いつのまにそこにいたのか。

 踵を返した俺の前に、ぽかんとして佇む一人の女がいた。


 見覚えがあった。

 相変わらずの白い肌。長いまつ毛の陰からこちらを覗く澄んだ瞳。すっと通った鼻筋。瑞々しい小さな唇。育ちの良さを思わせるようなその上品な顔立ちは、少し化粧をしているからか、あのころよりも素っ気無く見えた。

 一瞬で目を奪われた。まるで、あのころのように。

 やばい、と思った。

 何も言えない。体が動かない。金縛りなんてあったことはなかったが、きっとこんな感じなのだろう、と思った。

 気まずい沈黙が続く。ここが東京だということを忘れてしまいそうなほどの静寂。遠くで電車が走る音が聞こえてきていた。

 どれくらいそうしていただろうか。


「久しぶり」と、ふいに彼女がつぶやいた。

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