2:サナとスミレ
{オレンジ区・リアンが住む小さなアパートにて]
この古いアパートに暮らし始めて二年ほどが経つ。
きちんと掃除はしている方だと自負しているが、スミレの家を訪問して分かったことがある。
掃除以前に、このアパート自体が汚いのだ。築何年程か…–––管理人とは、ろくに話もしていない。そもそも管理人たる者がいるのかどうか。アパートの最上階である二階の端に住んでいるリアンは、布に包まれた短刀を手に考えこんでいた。
そろそろ引越しなんかも考えていいのではなかろうか。
貯金も溜まってきた。二年前に、親の遺したお金で借りたこのアパートだが、今なら一戸建てやマンションも買うことができるかもしれない。
……なんて、そんな時間ないんだけど。
自嘲の笑みを浮かべて、夕方六時を回った時計をぼんやりと眺めていると、アパートの廊下で足音が聞こえた。
その音はリアンの部屋の前で躊躇うように立ち止まり、二、三回足踏みがあってから、インターホンを押したようで、部屋に古い鈴の鳴らす音が響いた。
誰だろうかと、彼は深く考えずに玄関に向かい、ドアを開けてみる。廊下でもじもじと指を組みながら待っていたのは、意外な人物だった。
「「あっ」」
訪ね人は勢いよく顔を上げると、改めてリアンの顔を確認してホッと息を吐いた。表札が無く、名前が分かりにくいところに書いていたからだろう。
「…サナさん、なにか?」
訪ね人はそれきり何も言わないので、リアンは伺うようにドアを広く開けた。訪ね人、冒険者ギルドの受付嬢であるサナは、幼馴染の部屋の中をちらりと伺ってから、言い出した。
「あのう……デリダさんから、アレ…受け取ったか、聞きたくて」
「『アレ』…? ああ、あの短刀のこと?」
そういえばアレはサナからデリダが預かっていたものだったな…。と、リアンはサナが返事をする前に部屋に入り、テーブルに置いてあった短刀を布ごと掴んで玄関に持って行き、布を広げて見せた。
「あっ、そう、それ! よかった。ふふ」
もうそれで用は済んだ、とも言いたげな表情で、彼女は満足そうに微笑んだ。リアンは布を持ったまま、そんな彼女に見入った。瞬きせずに見つめていると、彼女のあどけない笑顔は昔の彼女に変わっていくように見える。嬉しい時は、今にも踊り出しそうに、体を、髪を弾ませて、悲しい時は全く逆で。それが可笑しくもあり可愛らしい。無意識のうちにそう感じてしまうのは罪だろうか。
「それで、それがどうかした?」
つい昔のような口調で訊いてから、リアンはやりにくそうに唇を結んだ。サナは三秒ほど口を開けてから、「あっ」と思い出したように手を叩いた。
「…それね、本当はあなたのものだったけど、あの時から私が持ってたから、そろそろ返さなきゃなって思ってたのだけど。…それを見てると昔を思い出すの。懐かしくもあるし、でも悲しいから……。仕事が辛い時に見ているとなんだか涙が出てきて、ね…だからリアンくんに返そうって思って……いいかな?」
「あ……」
そうだ。これは。
サナの潤んだ瞳と短刀を見比べる。
俺があの時に…。サナを守れなかった時に…。
だからデリダから渡された時、喉が詰まったのか。
だから今も、彼女を見た時に。胸が締め付けられたのか。
「…うん、大丈夫」
あまり舌が回らないようで、彼はまごついた。でも、彼は頷いて布を畳んで見せ、自分にこう言い聞かせた。
これは自分への戒めだと。
{ブルー区・冒険者ギルド前にて]
ギルド前のカフェテラスにて。受付嬢としての仕事にももう慣れ、ただ今は新しく冒険者登録をした人々に茶を振る舞いながら説明をしているところだ。しわが伸ばされたブラウスに革のベスト、長めのスカートを身に包んだサナは、紅茶のポット片手に営業スマイルを浮かべた。その目の前には、緊張した面持ちの新人パーティ三名。用意された椅子に腰掛け、説教でも食らっているように手を膝に置いておどおどしている。
そんな三人をみて、サナは内心「あらあら」と苦笑した。これから命をかけて攻略する身だというのに、これではすぐにモンスターの餌食だ。なんとか––––最初は–––安心させないと。
「緊張されてますねぇ。でも大丈夫です! わたくしたちギルド職員一同、保険も兼ね、あなた方をサポートさせていただきますから! これを飲んでみてください、植物ダンジョンといって、私達に害をきたさないダンジョンから採れるハーブと蜜の紅茶です。飲むときっと、緊張が和らぎますよー」
これじゃまるでお茶の宣伝じゃない、と自分に叱りながらカップに紅茶を注いで三人の前に置いた。三人は警戒しているようにあまり手を出さない。しかし一人の女の弓使いが、肩を震わせながらカップの淵に手を触れた。それからゆっくりと持って、口に運んで行く。サナはわくわくしながら、その紅茶が口の中に入るのを見守った。他の二人は、驚いて、その勇気ある行動を見ていた。
「……あ、」
どうでしたっ? とサナ。彼女は胸を上下させてやや興奮気味だ。おそらく初めての仕事だから胸を弾ませる思いなのだろう。
紅茶を飲んだ弓使いの少女は、頬を緩めて「美味しい、です」と呟いた。やったあっ、と叫びそうになり、サナは口を押さえる。
その美味しいの声に納得して、他の二人も次々にカップの紅茶を飲み始めた。それは本当に美味しいようで、三人はあっという間に飲み干してしまう。サナはいそいそとお代わりを注ぎながら「ギルド特製なんですよ」と誇らしげに話した。それから、また紅茶の事ばかりを、と焦り始め、紅茶をこぼしそうになりながら慌てて書類を取り出した。
「では早速、この国と、ダンジョンについてのお話をさせていただきます!」
段取り通りに、とサナは呪文を心の中で唱え、笑顔を固めながら話し始めた。
「ええと、まずステータスについてです。皆さんはもうステータスを取ってきましたよね? 実はそれは、この国にっては凄く大事な資料となります。まず、その情報が盗まれてしまうと、それが魔法により「妨害」されてしまい、ステータスがうまく働かなくなる、つまり自分の能力がすり替えられて暴走したり働かなくなったりしてしまうのです!
これにはギルドも対策を取らせてもらっていますが、くれぐれもステータスを他の人に譲渡したり話したりしないようにして下さいね。個人情報ですから。
あとは–––あっ、スミレさん!」
丁度ギルドに入ろうとしていた一流弓使いスミレはドアの手すりに手をかけた姿勢で立ち止まった。サナは頬を緩めて手を振る。スミレは律儀にお辞儀で返した。
「す、スミレ……?」
弓使いの少女は驚いて口をぽかんと開けた。彼女はまだ二十にも満たない年齢の少女で、鉄製の弓を重そうに背中に提げている。そんな少女は、まじまじとスミレの全身を見渡してから、「本物…!」と吟味するように頷く。スミレは戸惑い、手摺から手を離した。
「丁度良かったです、時間ありますかー?」
サナはにこにこ、手招きをしてみせた。
プロ中のプロ、一流の中の一流、世界最強という肩書きつきの強すぎる弓使いが、ここに佇んでいる。若い見習い弓使いは、声も出せないようで心を震わせているようだ。一年以上スミレの仕事に対応してきたサナでも、彼女を目にするたびに魂が揺れ動くほど。つまり相当のオーラを纏っているということだ。
「ダンジョンやモンスターの事は、実際に冒険者さんにお聞きした方が良いと思いまして! じゃあスミレさん、この方達に、イエロー区のダンジョンについてお話ししてくださいっ」
サナは一枚の紙を彼女に渡し、「ちょっと席を外しますね」とギルドの中へ消えていった。
「ええと…––––」
スミレは紙に目を落とす。そこにはこの国のダンジョンの構造についての説明がつらつらと述べられていた。このような長文を話すだけではつまらないだろう。スミレは小さく息を吸い込んだ。
♦︎
[ブルー区・冒険者ギルド受付にて]
「スミレさん、ありがとうございましたー! 助かりましたよ〜」
徐々に賑わいを取り戻しつつあるこのギルド内にて、受付窓口の向こうから制服姿のサナは掌を擦り合わせた。
そんな彼女を見下ろすようにして立ち、首をわずかに傾ける弓使いスミレは「いえ」とだけ答えて、辺りを見渡した。
「いやあ、本当に助かりましたよ…。スミレさんのおかげであの人達のモチベーションも上がったみたいだし…」
「サナさん」
「はい?」
夢の中にいるようにかぶりを振るサナの言葉を、スミレは珍しく遮った。時間が止まったようにフリーズしたサナは、少しだけ驚きが混じったその声色にどぎまぎしていた。
「……出張、終わって、冒険者、増えました、よね」
またもや珍しく、たどたどしい言葉。スミレはこのまま言葉を紡ぐべきか迷ったようで、俯いて装備に付いている飾りを指で触った。
「…」
サナはそんな見たことのない彼女の姿をしばらく眺めてから、ふっと唇を緩めて「そうですよ」と自慢げに胸を張る。
「先輩方が集めてきてくださったんですよ。
…あなたの仲間をね。もう、心配ありませんよ。新人の冒険者達も増えてきていますから。
もう、大丈夫なんです。
一人で背負わなくても。リアンく…さんだって、強くなってますから。ね?」
ゆっくりと深呼吸するように、スミレに言葉を伝えていく。スミレははっと顔を上げた。これまでスミレのいろいろな姿を見てきた受付嬢は、なにかを、誰かを安心させるように微笑んで見せ、息をついた。このギルドにいる全ての人間が二人の方を見て、そこに見える優しい世界に魅入った。サナの先輩達は、心を震わすスミレの姿を今までになく温和に包み込んで、重くのしかかる何かをスミレの背中から解放していく–––––ように、時は止まり。動き出して。
スミレの体は春の陽気に包まれたように温かくなる。そんな風に包まれ、スミレは、弓を折られて震え上がった彼女は、初めて本当に微笑むことができた。
「…
…ありがとう」
「いえいえ!」
サナはぱっと少女のような笑顔に戻り、スミレと視線を交わらせた。
しばらくして。日が暮れ、サナは仕事を上がり、ギルドを出てブルー区の広場に出ると、ベンチにスミレが腰掛けているのに気が付いた。やはり珍しく、ぼんやりと夕陽の向こう側を見つめている。その瞳は光を写して美しく燃えているようだ。背中にはいつも見える重荷がなく、表情はいくらか軽そうに弾んでいる。サナは胸を撫で下ろし、軽い足取りで彼女に近付いた。
「スーミレさんっ」
「…!」
「ふふ。あの、私今仕事上がったばかりなんで–––––」
見開かれた瞳が夕陽よりもきらきらと輝き始めたのを、サナは見逃さなかった。
「お酒でも、ご一緒しません?」
歯を見せて悪戯ぽく笑ってみせてみる。
スミレは、驚きと喜びが混じった様な表情と言葉で頷いて、了承して、勢い凄まじく立ち上がった。
「喜んでっ」
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