わたしのバーバ・ヤガー

酒田青

第1話 バーバ・ヤガーに会いに行く

 今日は、バーバ・ヤガーの家にお泊まりらしい。ママがそう言ったので、確かだ。ママが運転する車の中、わたしは目を輝かせて色々空想した。バーバ・ヤガーとお花摘み! バーバ・ヤガーの猫と思いっきり遊ぶ! バーバ・ヤガーの部屋で本を読む! ママは淡々と言う。「伯母さんに迷惑をかけないようにね」と。そう、バーバ・ヤガーこと寿美子さんは、わたしの伯母、ママの姉なのだ。

「ねえねえ、すみちゃんはどうしてる? 相変わらず猫飼ってる?」

 わたしが甘えた声でママに訊くと、ママは、

「多分ね」

 と答える。

「すみちゃん、寂しかったかな。わたしがいなくて」

「いやあ、あの人は一人が好きな人だからね。普通に生活してたと思うよ」

 ママはけらけら笑った。バーバ・ヤガーことすみちゃんは、独身で実家に一人暮らししているのだ。パパとママが忙しいときにだけ、わたしはすみちゃんに預けられる。わたしはすみちゃんが大好き。すみちゃんは、わたしの理想の魔女なのだ。

 バーバ・ヤガーという絵本がある。小さいころ、すみちゃんがプレゼントしてくれたのだ。表紙はニワトリの足が生えた小屋の入り口に、魔女のバーバ・ヤガーが佇んでいるというもの。バーバ・ヤガーはそれはそれは恐ろしい顔をしている。こちらをじいっと見つめて、取って食いそうだ。バーバ・ヤガーは悪い子供を食べるので、実際そういう顔なのだろう。主人公はお母さんからもらったカブの代金を落としてしまった悪い子だ。その子がバーバ・ヤガーに取っ捕まって、色んな植物を集めるバーバ・ヤガーと猫と共に生活し、こき使われるのだけど、機転を効かせて助かるという話。

 わたしはこれを読んで、「わあっ、すみちゃんだ!」と思った。だってすみちゃんは猫と暮らしているし、色んな植物を集めているのだ。さすがに子供を取って食いはしないけれど、色々なところが魔女じみていて、わたしはひそかに憧れているのだ。

 車は国道をずっと下って、すみちゃんの町に入った。びっくりするほど田舎だ。国道なのに、歩道と車道の隙間から草がぼうぼうに生えている。田んぼがずっと続いていて、家が遠くにまとまって建っている。それも銭湯みたいな瓦屋根が重そうな家。すみちゃんの家は、国道から細い道に入ってしばらくしたところの集落に、埋まるようにあった。

 おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなって、すみちゃんは一人暮らしだ。手入れのされた広い庭はかつての畑を潰したものだそうで、様々な植物が植わっている。バラの木が大人の目線くらいまで育っているかと思えば、背の高いイチョウやモミジがまだ青々と繁っている。裏庭に生えた、春になると白くて大きな花が咲くモクレンは、育ちまくって困るのよ、と前にすみちゃんは言っていた。テッセンにツツジにツバキ。ユリの花が咲いている時期もあったし、ボタンが堂々と大きな花を開かせていた時期もあった。今はバラの時期が近いらしい。すみちゃんのバラはいくつかピンクや赤や白の大降り小降りの花を咲かせていた。でも、わたしが好きなのはすみちゃんをすみちゃんたらしめる植物、ハーブだ。わたしは香りが強い植物が好きで、ローズマリーを育てようと思ってすみちゃんから枝をもらったことがある。結果、すぐに枯らしてしまったけれど。

 車は草刈りを済ませたばかりらしい庭の中心に進み、すみちゃんの家がやっと見えた。庭に対して小さめの家だ。おじいちゃんたちが亡くなってしばらくして、減築、というのをしたらしい。家を小さくして、管理しやすくすることだそうだ。小さな家には駐車スペース用の透明な屋根がついている。屋根の下にはすみちゃんの小型車が停まっている。どうやらちゃんといるらしい。すみちゃんの家は一部新しいが大部分は古く、便器は新しいがトイレの部屋は数十年分の臭いがする。お風呂も寒く、床は昔のタイル。和室には先祖代々の遺影が飾られ、百年以上受け継がれた大きな金ぴかの仏壇もある。とりあえず外装はきれいだ。アイボリーの壁に、新しい感じのするスレートで葺かれた屋根が載っている。

 ママはわたしを降ろして適当な場所に車を停めるとのことで、わたしは一人、歩いていってすみちゃんの花壇を見た。家の大きな玄関の横にある煉瓦でできた花壇は、ハーブがびっしり植わっている。好き勝手にうねるクリーピングローズマリー、ウサギの頭みたいな観賞用のラベンダー、青々としたレモンバーム、紫の花を咲かせるタイム、鬱蒼と茂るシソ、ネギみたいなチャイブ。香りがここまで漂ってきて、思わずそちらへ歩いていってしまった。ローズマリーは涼しいのに甘い香り、レモンバームはレモンを草っぽくした感じ、シソはすみちゃんが漬ける梅の漬け物の香りがする。

 ママが降りてきて、玄関のチャイムを押した。さすがにチャイムは新しいのでおかしな音がしない。ピンポーン、と明るく長く響き、ママは「お姉ちゃーん、いる?」と大きな声を出す。すぐに転がり出てきた人は、わたしの顔をほころばせた。

 すみちゃんはわたわたと走ってきて、

「ごめん、今猫洗ってて……」

 と言った。長い黒髪は一つにまとめられてお団子になっていて、ジーンズも長袖の白いシャツもまくりあげられている。面長の顔は優しそうな垂れ目と大きな口で、おっとりとして見える。背はいつもイメージより高い。わたしだって毎日成長しているはずなのに、すみちゃんは想像を越える高さでわたしを圧倒する。

 古い家の匂いがする玄関で、ママは呆れたようにため息をついた。

「雪を連れてくるって言ってたのに、このタイミングで猫洗う?」

 すみちゃんはすまなそうに濡れた手を合わせて、

「ごめんねー! 間に合うと思ったの! 雪もごめんね」

 とわたしたちに謝った。すみちゃんは様々なタイミングがずれてしまうタイプの人なのだ。わたしは気にならないけれど、ママは時々イライラするようで、今はムッと顔をしかめている。

「いいけど。ニャオが出てきてるよ。床びっしょびしょだけどいいの?」

 ママが指摘した通り、すみちゃんの猫のニャオが床を濡らしながらやってきて、すみちゃんの横で思いっきり体を震わせた。すみちゃんも床も玄関近くの雪見障子も、ひどく濡れてしまった。わたしやママにもかかり、ママはますます不機嫌になってしまった。ニャオは、体を床やすみちゃんにこすりつける。「あなたのせいでこんなに濡れてしまったんですよ。あなたがわたしを洗うから」と主張しているのだ。すみちゃんは慌ててニャオを押さえつけ、ママににいっと笑いかけた。ママの仏頂面は緩まなかった。

 どうにか濡れた玄関を拭いて、すみちゃんは大きなくたびれたクリーム色のソファーにL字に囲まれた居間のテーブルで、ママに緑茶を出した。すみちゃんはハーブティーや紅茶のほうが好きで、そちらを出したいのだが、ママはそういうものを「飲みつけない」という理由で飲みたがらないのだ。わたしは好きだけれど、ハーブティーは子供が飲んではいけない強いものもあるということで、わたしのお茶は今日もアールグレイティーだ。

 ママは緑茶をずず、と飲むと、「で」と言った。すみちゃんはきょとんとママを見る。わたしもママを見る。

「あの人もわたしも、しばらく出張とか遅く帰る日が続いてて、この三連休、この子にろくなことをしてあげられないの。幸いこの子は本さえ読んでれば満足なところもあるけど、図書館にずっと行かせっぱなしにして、ほったらかしってわけには行かないでしょ。だからお姉ちゃんに、連休が終わるまで雪を預かってほしいなって」

 ママは済まなそうな顔なのに、当然といった声音でそう言った。ママはちょっと傲慢なところがあって、すみちゃんに対してはそれが強く出る。すみちゃんは、

「いいよお、わたし、暇だし。植物の世話、雪も好きみたいだから手伝ってもらえたら助かる」

 とお人好しに笑った。ママはにっこり笑い、

「ありがとー」

 と明るい声を出した。それから都会でしか買えない変わったおかきをすみちゃんに渡した。すみちゃんは目を輝かせ、

「わあ、いつもありがとー! これおいしいよねえ」

 と受け取った。おかきくらいでわたしの世話を引き受けてくれるすみちゃんに感謝しつつも、ママはちょっと図々しい気がしてくる。

 ママは、畳がすっかり古くなった和室にわたしを連れて入り、仏壇のお線香に火をつけて灰の中に寝かせた。天井近くの壁の、一番左側にいる人たちがおじいちゃんとおばあちゃんだ。おじいちゃんの大きな目は何だか怖いし、おばあちゃんの笑顔は絵みたいに見える。ママが手を合わせて頭を下げるので、わたしも真似した。お線香は変わった匂いがして、全然好きになれない。

「じゃあね。伯母さんに迷惑かけないのよ」

 ママはわたしのものをすみちゃんの家の四畳半の客間に置くと、そう言って手を振って行ってしまった。わたしは、にっこり笑ってママを見送った。すみちゃんと一緒に玄関から出て、植物でもじゃもじゃの庭から車の中のママに手を振る。すみちゃんが、「ばいばーい」と明るく笑うので、わたしも「ばいばーい」と真似した。

 すみちゃんは、一旦家から出ると中々戻らない。植物が気になって仕方がないらしく、白いスニーカーで花壇の中に入り、黒く汚しながら虫食いの葉っぱをむしったり、枯れた部分をちぎったりしている。わたしもついていってそれを眺め、すみちゃんがこちらを見て手招きをするので、迷いなく踏み込んだ。

「こういう、黄色い葉とか茶色い葉とか取っていって。虫食いがあったら、何もせずに教えてね」

 すみちゃんの言うとおり、瑞々しい葉っぱを残してどんどんきれいにしていく。丸い欠けや穴がある虫食いの葉は、すみちゃんに教えると残すか残さないかを判断し、虫がいたら指でつまんで花壇の外に出してぐいっと靴で踏みにじっていた。こういうところがますます魔女っぽいと思う。

 庭を囲う植物たちを見て、いくつか手を加え、すみちゃんが大丈夫だと判断したころには夕暮れになっていた。元々来た時間も遅かったけれど、夕飯が遅れるには充分な時間だ。

「お腹すいたね」

 すみちゃんが笑ったのでわたしはうなずいた。

「今日は、シチューにしよっか」

 すみちゃんの言葉にわたしは笑った。バーバ・ヤガーは、悪い子供をシチューにして食べてしまうのだ。でも、すみちゃんはそんなわたしを気にすることなくシチューの具や他のおかずを考える。

「ニンジンは、お隣からいただいたし、ジャガイモはお向かいからいただいたし、タマネギは都築さんのおばあちゃんがわざわざ持ってきてくれたしー」

「お肉は?」

 まさか悪い子供の肉、とは言わないとわかっているが、一応訊いた。まさかこれももらっているのだろうか。殺したばかりのニワトリの肉、なんて言われたら食欲がなくなりそう。すみちゃんは、

「買ってあるよ」

 と笑った。

「シチューの素は?」

「素なんて使わないよー」

 さすがはすみちゃんだ。料理上手のすみちゃんは、料理に手間をかけることが好きだ。

「他のおかずは、もう少し青いお野菜が必要だね」

「わたし、すみちゃんのベビーリーフ食べたい」

 わたしの言葉に、すみちゃんは目を輝かせた。

「そうだね。ベビーリーフにしよう」

 早速わたしたちは暗くなった庭に出て、すみちゃんの鉢植えコーナーに行ってマーガレットやらシクラメンやらの花たちを尻目に、プランターで青々と繁った様々なベビーリーフをむしり取った。湿気のある台所からプラスチックのボウルを持ってきて、わたしとすみちゃんは素晴らしい収穫物を中に放り込んだ。

 それからわたしたちは、夕飯作りに取りかかった。

 わたしは野菜の皮剥きを手伝わされた。ピーラーでこりこり、こりこり、とジャガイモから皮を剥いでいき、残った芽はすみちゃんが包丁でえぐる。

「芽とか皮にはね、ソラニンっていう毒素があってね、食べると具合悪くなっちゃうから気をつけてねー。わたし、前にやって一日寝込んだんだから」

 などとすみちゃんは言いながらローリエの葉や白ワインで作ったスープを煮込む。わたしが協力してできた材料は、白いスープのなかでとろけていく。炊飯器が鳴った。ご飯が炊けたらしい。

「雪、ベビーリーフを洗って、器に盛ってよ」

 わたしは言われた通りにする。黒ずんで見えるくらいに濃い色の葉っぱは、柔らかくてすぐに破れそうだ。手早く洗い、白くて深い器二つに盛りつける。

「冷蔵庫から細長い瓶出して」

 冷蔵庫には、大小様々な瓶で満たされ、ピクルスや漬け物が入っている。タッパーには梅や大根やきゅうりの漬け物や作り置きの食べ物。手作りのジュースがいくつか並んだドアの棚に、ローズマリーのもじゃもじゃの枝がそのまま浸かった黄色い液体で満たされた瓶があった。細長い瓶といえばこれしかない。

「それそれ。テーブルに置いといて」

 すみちゃんは振り返りながらテーブルを指差す。料理中のすみちゃんは普段からは考えられないくらいてきぱきとしている。シチューの味見をし、火を止め、うなずく。

「できたよ。食べよう」

 テーブルには楕円形のお皿に盛られた白いシチュー、ベビーリーフ、雑穀米が並んだ。雑穀米は、ここに来ないと食べられない。ママもパパも、白いご飯のほうが好きなのだ。

 いただきますを言って、ご飯をぱくりと食べる。甘味とプチプチとした歯応えがたまらなくいい。うちのご飯よりおいしいのは、井戸の水で作るからなのか、炊飯器が違うのか。すみちゃんは先程のローズマリーが入った瓶から液体をベビーリーフの皿にかけた。わたしが見ている前で、すみちゃんはそれを口に運び、むしゃむしゃと食べた。

「ドレッシングなの?」

「うん」

「どんな味?」

「味は変わらない。塩とオリーブオイルと酢を混ぜて、ローズマリーを漬けてただけだから」

「へええ」

 わたしも使ってみた。てらてらと光るドレッシングは、鼻を近づけると確かにローズマリーの香りがした。口にベビーリーフを運ぶ。歯で噛むと、ローズマリーの涼しくて甘い香りが鼻の中でした。青臭いベビーリーフと合わさると、奇妙な味わいだ。けれど、ローズマリーの香りのドレッシング、というだけでわたしは気に入った。

 シチューは絶品で、シチューの素を使ったものよりさらさらしていて濃厚で、喉をどんどん通りすぎていく。鶏肉は柔らかいし、野菜もおいしくて、作ってくれたすみちゃんのご近所さんに感謝したいくらいだった。

 夕飯は八時ちょうどに済んだ。わたしはお風呂を済ませ、髪を乾かし、ニャオと一緒に四畳半の客間の布団に向かった。すみちゃんの家の布団は冷たい。ニャオが布団の足元に乗って暖めてくれる。茶色くて薄くなった毛布をかぶり、わたしは眠りに落ちた。

 すみちゃんの家は、様々なもののたましいで満ちている。おじいちゃんやおばあちゃんのような具体的なたましいを感じることもあるが、たまにだ。わたしが感じるのは、外にいる秋の虫のたましい、子猫のたましい、小さな小さな、バクテリアのたましい、空気に混じる、たましいのかけらのようなものなどだ。今日は月を眺めていないが、月のたましいは怖いくらい様々で豊かだ。子供はあんまり見ないほうがいいのだと思う。たましいがたくさんあると、わたしは安心する。都会では感じられない、たましいの気配。

 すみちゃんの部屋から物音がする。きっと仕事をしているのだ。すみちゃんの仕事は、たましいをすくい取って見える形にするというものだ。

 今日もいいものができますように。そんな願いが聞こえてきそうだ。

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