第二章 第五節 ガドシル王国編(後編)

第91話勇者を名乗りし者の名は

膨大な広がりを見せた何かが、私を丸ごと飲み込んでいた。


『――だせ! 汝の名を――』

その瞬間、誰かにそう言われた気がしていた。


聞き覚えのある声……。誰だっけ?


しかも、はっきりと聞こえず、何て言われたのかわからない。

でも、その事を考えようとは思えなかった。


さっきまであった体の感覚はすでにない。


何かとの結びつきのようなものまで、ほとんど断たれている……。

周りは深い闇のように感じる……。私のそばにはたぶん誰もいない……。


恐怖と混乱と悲しみが、私の中で急速に広がっていくのが分かる。


しかも、次々と襲い掛かってくる様々な感情の波が、私を攻め立て続けている。まるで、激流の中にある岩になった気分だ。

何の容赦も感じない。

そして確実に、私を蝕んでいくのが分かる。


攻め立て、入り込み、食い荒らしていく。


痛みはある。ただ、それだけじゃなかった。

食い荒らされていく感覚が増える度に、そこに私は色々な私を感じていた。


徐々に私が私でなくなっていく感じがする。その事がどうしようもなく怖かった。


でも、目をそむけてはいけない。見なければならない。

心の奥から何かがそう告げてきたように感じていた。


その瞬間、暗い闇の中に、ぽっかりと何かが浮かび上がった。


そこには砂漠の砂をまき散らし、情けなくのた打ち回る私がいた。

まるで、苦しみと苦痛を周囲にまき散らすかのようだった


なぜ、私がこんな目に合わなければならない?

何かがそう囁いてきたように思えた。


そうかな? そうなのかな? そうだよな?


疑問はいつしか屈辱と憤りに変わり、それはやがて、怒りへと変化していった。

でも、怒りの矛先はどこに向けたらいいのかわからない。目の前の私はそんな感じだった。


目の前から飛び立った銀色の竜に向けるべきか?

それとも、それにつれられた男に向けるべきなのか?


男を連れた銀色の竜は、その一瞬の逡巡の間に、どこかに消えていった。


くそ!


怒りの矛先を失い、いつの間にか憎しみが育っていた。

目の前にある全てのものを破壊しようとする私がいた。


土の精霊と氷の精霊が私を押しとどめても、私は二人を振り払っていた。

そこに火の精霊と風の精霊と雷の精霊が加わっても、私は五人の精霊たちを簡単に吹き飛ばしていた。


それでも、精霊たちは私を押しとめようと、傷つきながらも同じ行為を繰り返していた。

傷つき、倒れながらも、それでも必死に立ち上がろうとする精霊たち。


その顔を見た瞬間、私は大切な何かを失っていた事を思い出していた。

同時に、深い悲しみが私を包み込む。


違う……。あれは、私じゃない……。


私はそんなことをしない。あの子たちは私の大切な……。

必死になって頭を振ってみても、目の前の事実は変わらなかった。


慟哭が、私の周りにあるものを吹き飛ばす。その瞬間、急速に理解が追い付いてきた。


私が、大切なあの子たちを傷つけた……。この、私が……。


吹き飛ばした何かは、まとわりつくように、私の足元に集まってきていた。

精霊たちは地面に伏して動かなくなっていた。


もう、だめだ……。


それが絶望だということは、頭の片隅で理解していた。

でも、それすらどうでもよくなっていた。


悲しみと絶望が、私を包み込んでいく。

しかし、ほんの一瞬、何かがそれを切り裂いていた。


その切れ目から、光が差し込んでくる。

その瞬間、遠くの方からあの声が聞こえたような気がした。


『思い出せ! 汝の名を!』


今度はさっきよりもはっきりと聞こえる。そして、その声との繋がりだけは、かろうじて私の中で生きていた。


私の名前……。


『汝の望みはなんだ!』

それを考えている間に、またも私に問いかけてきた。


さっきよりも近く感じる。

その声の主は、暗い闇の中でも感じる事が出来ていた。


名前……。望み……?


名前はなぜか、思い出せない。でも、私の望みは分かっていた。


あの時、私はそう誓ったんだ。

ただ、与えられた道を進んでいた私が、私の意志で決めたこと。


そのための力が、今の私がもつ力だ。


「守りたい」

心からそう思っていた。


今も、いろんな感情が私を包み込み、飲み込もうとしてくる。

少しでも気を抜くと、それに飲み込まれてしまうのは変わっていない。


でも、私はさっきまでの私じゃない。


そう易々と飲み込まれはしない。

一人一人の顔が浮かぶ。

知り合うたびに、その顔は増えていった。


そのすべてを守るんだ。


抗う心が押し戻し、思う心がそれを弾き飛ばす。

もう一度、私を包み込んでいたものは、足元を残して四散していた。


よかった……。


うっすらと光が差し込んでくるように、さっきとは違う世界が見えてきた。

倒れた精霊たちは、目の前にはいない。精霊たちの繋がりは切れたわけじゃない。


さっきまでの光景は、現実じゃないと思えてきた。


断たれた五感が急速に戻り始めている。

両手の感覚も戻ってきたけれど、戻ってきた感覚は、私にとって疑問でしかなかった。


いつの間に抜いたのだろう? いつの間に持ちかえたのだろう? この切られたような痛みは何だろう?


なぜか、手にしているのは尾花おばなだけじゃなかった。

尾花おばなは左手に持ちかえて、右手の桔梗キキョウを上段に構えていた。


もしかして、さっき見ていたのは現実か?

私の意志とは別に、体が勝手に動いている? 今、私は何をしようとしていた?


意識してみると、精霊たちの傷ついている姿が感じられた。


その途端、またもや恐怖が私を包み込んできた。


目の前には、無防備な後ろ姿を見せるルキがいる。今も懸命に本を調べ続けている。


そして、私はまたあの闇にとらわれようとしていた。

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