第94話 眠り姫

 気にしないでと言葉を掛けたものの、まだ心なしか心残りがあるような表情を滲ませながら出て行ったフランさんを見送ってから、どれだけの時間が経っただろうか。その間僕はずっとメトロノームのように決まった速度で必要な空気を吸い、その後すぐに要らなくなった空気を吐き出すさくらを眺めていた。


 しかし呼吸という生物の大半が必要不可欠としている生理的行動は、その生物の顔一点だけを見ていたら呼吸を行なっているのか行なっていないのか、すぐにあやふやになってしまう。その例に漏れずさくらも、彫刻で作られたような整った顔を飽きることなくひたすらに眺めていると、ふと息をしているのかと小さな疑問が生じ、その些細な疑問はマイクを音が出ているスピーカーに向けた時のように、時間が経つにつれてやがて大きな不安となる。


 ――本当は僕が気付いていないだけで息が止まっているのではないだろうか。


 そんな暗澹たる心境に陥るたびに、正しいリズムで上下運動を繰り返している布団が掛けられたさくらの胸部を見て、自分を飲み込もうとする不安をその都度その都度解消していた。


 僕がこうして思っていることを、さくらも僕が寝込んでいた時に思っていてくれたのではないだろうか。そう思うと心配されているという嬉しい気持ちを抱くのと反対に、もうこれ以上こんな感情をさくらには味合わせたくないという気持ちも湧き上がってきた。


「ま、ふゆ…………?」


 無意識に不安を隠すためか、グルグルと止まることを知らない思考に埋もれていると、息が多めでまるで寝起きのような声が聞こえてきた。いやまるでではない、本当に眠り姫の声だったのだ。


「おはよ、さくら。気分はどう?」


 千の秋を過ごしてやっと出会えたような心の底から出てくる歓喜を爆発させたかったが、さくらの体調を考え何とか抑えてそう尋ねた。


「ちょっとまだ疲れがあるけど、動けなくはないかな」


 僕の質問に答えたさくらの顔はその言葉の通り多少の疲れが見て取れた。


「ご飯は食べれ「グー―……」」


 時刻はもう夜のとばりが下りてから結構経っており、さくらの目覚めが確認できたからかそろそろ僕のお腹も空腹を訴えてきたため、寝起きのさくらにも一応聞いてみようかと思った矢先、万の言葉よりも分かりやすい一つの返事が返ってきた。そしてその分かりやすい返事を意図せず起こしてしまった張本人であるさくらは、自分に掛けられていた布団を目一杯顔に押し当て、


「お腹すいた……」


 と、布団でさえ隠せないほど真っ赤な顔をしながらそう訴えた。

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