#4 モーニング・グローリー

「これは……ボクが、エスタに渡したものです」


 震える声でシャーリーは言った。そこにそれがあるという事実そのものが、彼女を大きく変えようとしていた。彼女の中に熱い何かが迸って溢れた。フェイが後ろからやってきて、そっと寄り添った。


「……奴の腕の中から出てきたということは。彼女が、取り込まれる直前に持っていたということじゃないか」


「はい……」


 シャーリーは大きく息を吸い込んで、マフラーを抱きしめた。全身の震えが止まらない。フェイが後ろから、肩に手を添えてくれた。誰に許可を取るわけでもなく、シャーリーは何度も頷いた。


 彼女の中に……エスタとの思い出が矢継ぎ早に蘇っていく。それだけで十分だった。


「エスタは……これを、忘れなかった……」


 ――再開した彼女と交わした、あの傷ついていくだけの会話を思い出す。彼女は言った、もう会えない、と。


 それでもなお、彼女は覚えていた。


 十年前の思い出を。だとすれば……何故、自分はあの時あれ以上何も言わずにその場を去ってしまったのだろう。


 何故、それ以上何も言わず、彼女に寄り添うことをしなかったのだろう。確かに彼女は大きく変わってしまった。しかし、それでもなお、変わらないものがあった。確実に、存在していたのだ。


「忘れてたのは……自分だ、ボクだったんだッ……もっと、あの子に手を伸ばしていたらッ……あの時も、この時も……ああああっ……――」


 後悔と懺悔は、胸の内で止まることがなかった。とめどなく溢れていく。涙が頬を伝って、地面を濡らしていく。


「ごめん、ごめんエスタ……ボクは、ボクは馬鹿だッ……」


 そんなシャーリーに、フェイは。


「それが……君達にとっての、大事なものということなんだろう」


 そう言った。

 ――先程の、彼女の言葉。


 大事なものがあるからこそ、高みに昇っていける――。


 その言葉。


「彼女は君との思い出を忘れていなかった。そして君は、彼女のことを十年間思い続けていた。そのマフラーがその結晶なら、君はまだ間に合うんじゃないか?」


「間に合う……?」


「そうとも。我々が、必ず彼女を取り戻す。そして君は――彼女と再会する。その時君が、何をするかだ。それは我々が決めることじゃない。君自身が決めることだ」


「ボクが……」


 その言葉の意味を考えた。

 ――それから、もう一度周囲を見た。


 変わらない街の情景がそこにはあって、遠くからは咆哮と衝撃音が響き続けている。戦っている。第八機関の者達が、戦い続けている。世界のために、そして、エスタのために。


 ……彼女たちの誰も、諦めていないのだ。世界の危機に対して、何一つ諦めていない。そしてあっさりと、正義の味方などを名乗ってしまう。


 そんな人達が、すぐ傍に居るのだ。


 ――それを、すぐ近くで、自分は見てきたんじゃないのか。

 なのに、自分は今ここで、何をしているんだ。


 ただ、膝をついて心の中のエスタに詫び続けることだけが、自分のすべきことなのか。ならば、今化け物の中にとらわれているのはなんだ。


 そこに居るのが本当のエスタじゃないのか。自分との思い出を、取り込まれる瞬間まで忘れなかった、親友のエスタ・フレミングじゃないのか。


 シャーリーは立ち上がり、頭を振って涙をごしごしと拭い取る。


 ……だったら、自分にはまだやるべきことがあるんじゃないのか。

 彼女に伝えるべきは、謝罪でも、懺悔でもない。


「ありがとう……ありがとう、エスタ……」


 十年の間でも、決して途切れることのなかったものを、もう一度彼女に伝えることなんじゃないのか。


「……ッ」


 歯を食いしばって、空を見る。そこにあるのは青空ではなく灰色の空で、更に上にはかつて自分が居て、忸怩たる思いを胸に過ごした浮島がある。だが、今自分が居るのは大地。自分が生まれ育った大地の上だ。地に足を着けているのだ。


「フェイさんッ……!」


 振り絞るようにして、シャーリーは声を出した。


 どこかでサイレンの音が響き、瓦礫だらけの街の中、二人の間に存在する静寂を埋めた。


「ボクを……エスタの所まで連れて行ってくれませんか。ボクはエスタに呼びかけたい。今はただ……あの子と、話がしたい……!!」


 フェイは、返事をしなかった。その代わり、シャーリーの横を通り過ぎて、彼女の肩を叩いた。


 その先にあったのは、一台のバイク――スズキ・カタナ。チヨのものだ。ここに残してあったのだ。


 それが、今のシャーリーの発言を予期してのことであるかは、分からない。あのポーカーフェイスの裏で何が考えられていたのかは、今となっては不明なのだ。


 フェイはシートに跨って、後ろを振り向いた。


わたしフェイは運転が荒い。乗る前にお祈りを捧げることを勧めるよ」


 そう言って、笑った。

 ――シャーリーの顔にも笑みが咲いて、はっきりと返事をした。


「……はいっ!」


 マフラーを見つめてから、首に巻いた。


 『友情』の名の赤。フェイのもとに駆け寄っていくと、風に揺れた。


 それから数秒後。シャーリーとフェイを載せたスズキ・カタナは一路、騒音と震音の根源へと向かっていく。


 シャーリーに迷いはなかった。自分のするべきことを、はっきりと覚悟していた。



 深い微睡みの中に彼女は居た。


 それは冷たく暗い海の底に似ていて、決して自分を立ち上がらせることのない諦観が自分を押し潰していた。


 その中でエスタは、ゆっくりと目を開ける――徐々に浮上していく。


 その度に全身にのしかかる重みを感じ、心に痛みを感じた。自分の置かれている状況が、理性を別にして、感覚にゆっくりと染み込んでいく。


 そう、彼女は何も見えていなかった。だが――意識だけは、確実に目覚めつつあった。そして彼女は、その理由を知らない。


 怪物は現在ストリートを横断していき、ブロードウェイ・ストリートにまで誘導されていた。それはミランダの銃撃とチヨの斬撃によるものであり、彼女たちは疲弊しきっていた。


「ハーッ、ハーッ……」


 チヨが荒く息をついて、地面へと着地する。土埃が舞って、膝をつく。そして前方を睨みつける。


 煙の向こう側に、巨大な化け物が見える。空間に響く唸り声とともに地面が揺れ、彼は悔しげなジェスチュアと共に両腕を地面へと叩きつける。


 轟音――アスファルトにヒビが入るが、もはやその程度でチヨ達がたじろぐことはない。彼女たちの後方、つまり化け物の通ってきたいささか幅広すぎる道は、二人の強引な誘導によって嵐の過ぎ去ったような有様となっており、復旧に長い時間を要することは簡単に想像できた。


 全くの無傷で済んでいる建物などひとつもなく、馬鹿な野次馬以外は、ギャラリーが淘汰されていた。皆、ダウンタウンの更に中心へと向かっていったのだろう。


 チヨは想像する……もしここが、グランドパークの近くだったなら。ビルは高層であり、被害は更に尋常ではなかったのだろう、と。そのような想像など慣れっこだった。


 彼女たちの仕事は、最悪を前提として、その中から幾つかの『マシ』を拾い上げることなのだ。


 ――というわけで、今二人は化け物をグロリアの居るポイント、ウエスト39thストリートとの交点にまで化け物を誘導させつつあった。そこで彼女が化け物へとダイヴ。その状態で、フェイ曰く『眠り姫』を完全に引き剥がす。無茶な仕事だ。


「全く……性に合わん」


 チヨの額に汗が浮かぶ。彼女の身体には無数の擦り傷がついていた。疲労も相当溜まっていた。だが、あくまで今の誘導は本番の前に過ぎない――本当の仕事が終われば、一体自分はどうなっているか分からない。


 無事でないならば、フェイに呪いをかけてやろう。無事生還できたならば、地獄のように熱い茶を飲もう――彼女はそう決めていた。


 と、そこへ、聞き覚えのある駆動音。チヨは振り返る。


「……チヨ」


 ――スズキ・カタナ。フェイが居る。その後ろに。


「何故……連れてきた」


 チヨは降りてきた少女にそう言った。

 すると彼女は、これまでにないまっすぐな瞳で、見つめ返してきた。それから、はっきりとした口調で言った。


「お願いです。ボクはエスタに……言わなきゃならないことがあります」


「……」


 チヨは一瞬、何かを考える顔をした。赤いマフラーが、やたらと目についた。そこへフェイの言葉が乗る。


「作戦を少し変更だ。これから彼女に語りかけさせてみる。何かが変わるかもしれない」


「確証は?」


「さぁね。アインシュタインにでも聞いてくれ」


「……」


 後方から、羽ばたく音が響いた。三人が振り返ると、ミランダが地面へと降りてきていた。羽毛が少しだけ散って、鷹の翼を折りたたむ。


「……本気なの、フェイ」


 憂いのある瞳で、ミランダが言った。フェイは黙って頷いた。


「シャーリー……」


 ミランダは、シャーリーを見つめた。


「ボクは……大丈夫です」


「……」


 数秒間、瞳が交錯して。


「……わかったわ。やりましょう。要するに、奴の注意をこの子に向ければ良いのね……?」


 ミランダは言って、チヨの肩にそっと触れた。彼女は抵抗しなかった。


「そうだ。――頼む」


 フェイが答える。チヨは黙って身を翻す。ミランダはシャーリーをもう一度だけ見てから、翼を広げて飛び立った。そして、元居たビルの屋上へと戻っていく。


「エスタ……――」


 シャーリーの正面に、化け物がいる。まだ奴は、気付いていない。しかしこれから、叫ばねばならない。自分がここに居るのだということを。フェイは後ろに下がって、煙草に火をつけた。


 大きく、息を吸い込んで。


「ッ――…………エスタァァーーーーーーーーッ!!!!」


 シャーリーは、化け物に向かって叫んだ。


 硝煙の奥で、ゆっくりと巨躯が蠢いて、彼女と対峙した。


 その中心部に――目を閉じている彼女が居た。

 だが、今……その眉根が、ピクリと動く。


(シャーリー…………?)


「……っっ」


 鈍い痛みが頭の中を駆け巡る。閃きのように。はっとして顔をあげる。


 聞こえた――確かに今、声が聞こえた。見てみると、彼女はまだ眠っているように見えた。しかし、声は確実にそこから聞こえた。それは声だ。エスタの、声だ。


「エスタっ……聞こえてる!? ボクだ、シャーロット・アーチャーだよ!!」


(シャーリー……あなた……!?)


 化け物はシャーリーに背を向けて、自分の進むべき方向へと身を翻そうとした。しかし、そこへチヨの斬撃が差し迫る。彼の巨体に再び青白い花がいくつも咲いて、肩口に巨大な裂け目が形成される。


「芦州一刀流――『竜胆ドラゴンズハイヴ』」


 その拍子に化け物はふらついて、傍らにあった自動車整備工場へと身体を突っ込んだ。まるでクッションに身を投げ出すように……スケール感が狂う。その動きは巨体故に、遠目からは随分と緩慢に見えた。


 バリバリと裂けるトタンの屋根。門の外へと強引に吐き出されていく建材。幾つものスクラップ車が巻き添えを喰らい、そこから悲鳴を上げながら身体を機械化したテロド達が逃げていく。

 これだけの騒ぎが起きていながら、まだ逃げていない者達が存在するのだ。


 化け物は苦悶の声を上げながら起き上がり、チヨ達に腕を振るう。肩口は既に再生しつつあった――絡みつく触手が、傷口を防いでいく。既に切り飛ばした腕も完全に元通りになっている。

 残心する彼女に迫る拳――それは、飛来したミランダの銃撃によって逸らされる。肉片が飛び散って、チヨの顔にかかる。


「……もう少し考えろ」

「文句を言わないでちょうだい……」


 二人は、なんとか化け物がシャーリーの正面を向き続けるように攻撃を再開する――。


 その中で、少女達の交信が始まっていた。


(どうして来たの……来てしまったの)


「言うべきことがあったんだ、エスタ! 君に……」


(言うべきこと……?)


「そうだ、エスタ。ボクはあの時、何もかもが変わっていくことを恐れた。君の変化が怖くなって、この世界そのものが怖くなった。でもそれは、ボクが君を避けようとしていたからじゃない。ボクが君との間に生み出したものを、信じ切ることが出来てなかったからだ」


 シャーリーは首に巻いたマフラーをギュッと握り締める。


 フェイが煙を吐いて、彼女が『交信』に成功したことを悟る。原理は不明だが。

スマートフォンでグロリアとキムに現状を伝える。片方は心配の混じった怒りを寄越して、もう片方は困惑と苦笑だけを寄越した。


 チヨは、グロリアは、攻撃を続ける。化け物は道を進むことを一旦諦めたらしく、その場で腕を振るい、身体を揺さぶりながら、チヨを引き剥がし、ミランダを追い払おうと暴れ狂う。その度地面が揺れてヒビが入り、些細なダメージが通りに広がっていく。


(だけど……あたし達は、もう二度と一緒の時を過ごせない。分かってるでしょう、本当は――)


「そんなの……分からないじゃないかッ!!」


 声を、思い切り荒げる。

 拳を握って、歯を噛みしめる。語尾が震えるが、それでも伝えることを決してやめない。


(っ……!!)


「だって君は――あの時、ボクの心も救っていたんだから!!」


 その言葉は、眠りの中に居る彼女を揺り動かした。それは化け物の身体にも伝わっていく。


「一人だったボクに語りかけて、救ってくれた……強さをくれたのは、エスタ!君だ、君だったんだ。何も変わらないなんて、そんなのは嘘だッ!!」


(でも、あなたは――)


「そうだ、ボクは確かにあの時逃げた! でも、そんなことはもうしない。君がいる限り、ボクはどんなところでだって生きていける……だから、今度はボクが君を救う番なんだ!!」


 ――そんなことを言ったって。


 ……そうだ。そんなことを言っても。現実は絶えず私を裏切り続ける。離れていった手。絶望する目。

 

 自分の体に起きた悍ましい変化。

 その身体とともについてきた、あの忌まわしい日常。自分の中に押し入って、何もかもをぐちゃぐちゃにしていく男たち。のしかかってくる体重。下水のような匂い。


 汗。排泄。頼るものなどない私をかき乱して、何度も絶望させた。それでも死ねなかった。何故か? 自分には捨てきれないものがあったから。あの赤い色――遠い日の約束以来、決して捨て去れなかったもの。あの赤色。薄ぼんやりした視界の中で、今目に入るあの赤色。


 ……ああ、忌まわしい、忌まわしい――。


(そうだ……もっと呪え。自分の身を。相手を。それでこそ君は、僕は……)


 思惟の底から、混沌を願う魔王の声が木霊する――。


(それでもあたしは、あなたを傷つけ続ける! 裏切り続ける――だから! あたしは、あなたが憎いッ!!!!)


 叫びは、シャーリーの耳朶を揺さぶり、つんざいた。


 この一声とともに、化け物の全てが変容した。めりめりとその肉体が膨れ上がり、周囲に赤黒い液体や筋繊維の残り滓を飛ばす。目に見えて、肥大化していく。それを受けて脚部が地面にめり込んでいく。瓦礫や車の破片がその陥没へ引き込まれ、音を立てていく。   


 触手が更に肉体から溢れ出て、より複雑に絡まっていく……化け物は、更なる化け物へ変貌を遂げる。よりおぞましく、より巨大に。60フィートほどにまでなった身体と共に、彼は再び咆哮した。一層巨大な声。周囲全てを揺さぶる。建物のガラスにヒビが入り、風圧が周囲を震撼させる。


「ッ……」


 フェイは倒れ込まないように懸命に脚元に力を込めながら前方を睨みつける。唐突に訪れた化け物の変貌。彼女にエスタの声は届いていない。原因が分からない。


(どういうことだ……ディプスの所業か)


『その通り。さすが第八機関の長!』


 不意に――スマートフォンの画面がついて、そこにディプスが姿を現した。今この現状と合わせると何かのパロディに見えるほどに、その姿はまるで変わっていない。常に変わらない。


「ディプスッ、貴様一体……!」


『なに、答えがほしいなら、案外早く向こうからやって来るはずですよ……』


「なんだと……?」


 何かが、落下する音がすぐ近くに響いた。フェイが振り返ると、そこには白煙と共に倒れ込んでいるチヨの姿がある。その身体は苦痛で震え、目を瞑っている。


「おのれ……一体何が……――」


「チヨ……」

 

「ちょっと……何よ、何なのよ……!」


 ミランダも、もはや平常心ではいられない。動揺が心の中を支配して、銃把から指を離させる。彼女の居るビルからは、状況がよく見えた。故に、外面的な変貌以外のことも、そこからはよく見えた。


「あれは……」


 無数の触手状の部位が、化け物の体表面を更に覆っていく。それは胴体の中央部で目を閉じている少女の肉体を包み、内部に取り込もうとしていた。


「エスタッ!!」


 シャーリーが叫び、化け物に近づいた。


「よせっ――」


 フェイが制止する前に、彼女は駆け出していた。触手はやがてエスタを完全に覆い隠していく――。


 上空を、ヘリが通過する。


『お、おい――これ中継するのか!? ふざけんなどうせ使わないんだろうが……えっそれでもやれって!? 畜生め……――ええっと、こちらダニエル・ワナメイカー!! 現在化け物は、ええと、どう表現すれば良いのでしょう、そう、身体が……膨れ上がっています、そして更に巨大な身体と成り果てています、例えるならその姿はカーネイ……はぁ!? 余計なことは言うなって!? 馬鹿いえ、これが俺の報道スタイルなんだよ――……ああ畜生、なんておぞましい姿なんだッ!!』


 怪物は叫び、その腕をシャーリーに伸ばしてきた。抵抗する暇もなかった。彼女は捉えられ、地面を引きずるようにしてその身体のもとへと引き込まれていった。彼女は抵抗したが、あまりにも強い力を前にすれば何の意味もなかった。未だ彼女はただの人間に過ぎなかった。


「――ッ!?」


 そして……今。


 シャーリーの眼前には、巨大な化け物の顔がある。

 まるで巨大なドクロのように落ち込み、その本当の瞳が見えなくなっている眼窩と、極限まで裂けた肉の口――もはや、あの、建物の前で叫んでいた男の姿など、どこからも伺い知ることは出来ない。


 その顔が、目の前にあった。彼女は腕に持ち上げられ、引き寄せられていた。既に胴体からは、エスタが見えなくなっていた。完全に、肉と触手に呑み込まれていた――それと同時に、彼女の声も聞こえなくなっていた。


 化け物は、シャーリーの目の前で咆哮した。眼窩から、ぼとぼとと肉の欠片が流れ落ちていった。まるで涙のように。彼女は掴まれているという苦痛と、エスタの声が聞こえないという苦しみの中に――そして恐怖の只中に居た。

 

 だが、彼女は……呻きながらも、前を、向く。


「――ッ」


 フェイはコートを脱ぎ捨てて駆け出した。化け物のところへ。咥えていた煙草を離して、指で摘んだ。それからその先端を化け物に向ける。何かの魔法をかけるように。


 ミランダは銃を構えて、シャーリーを救い出そうとしていた。化け物の手首を撃てば、間違いなく一瞬だけ彼女は解放される。そうなれば彼女は落下する――自分が翼を広げれば間に合う。だが、それも最速で、だ――確実な賭けではない。

 それに、この銃の威力なら彼女を巻き添えにしかねない……頬に、額に、指先に汗が滲む。それでも、構え、狙いをつける。デグチャレフ・カスタム。


 そう、確かにその時彼女たちは何かをなそうとしていたが、結果的にはそれをする必要がなくなった。


 シャーリーは……化け物に向けて、言った。

 いや――というよりは、その中で眠っているはずの存在に向けて。


「傷つけ続ける? 裏切り続ける? そんなの……――上等だ。ボクは君の泣いてる姿よりも、笑ってる姿のほうが、多く見てきたんだから。その笑顔が、ボクと一緒に居ることで得られたのなら、ボクは……いくらでも」


 シャーリーの片腕は空いていた。彼女はあるものを握りしめていた。フェイは立ち止まり、呆然とそれを見た。ミランダが銃から視線を離して目を丸くした。チヨが起き上がり、状況を把握した。彼女が握っていたのは、あの短剣。


 ――十年前、天から降り注ぎ、人間を人外へと変貌させた、あの短剣だった。


 誰もが、


 しかし、止めるためにはあまりにも距離があり、手段がなかった。


「よせぇッ!!!!」


 フェイが叫んだ。

 チヨがふらつきながら駆け出した。

 だが――間に合うことはなかった。


「ボクは――いくらでも、この身を捧げてみせるッ!!」


 シャーリーは叫んで、短剣を自身の胸へと突き刺した。



 ――彼女の体の内側が、発光しているように見えた。

 

 実際にそうなったわけではない。彼女はフェアリルではないからだ。しかし、その身体に何かが起きたのかは確実で、その『何か』は――まるで電撃のように、その場に居る全てのアウトレイス達に共有された。彼女は……身を捩り、呻いた。


「ッ……ゥあああああああああ……ッ!!!!」



 パァン



 と、音が響いた。


 一瞬遅れて、彼女が肉の拘束から逃れている光景が見えた。


 というよりは、彼女自身が、その拳を構成する肉を力の限り弾き飛ばしているようだった。


 周囲に肉の破片が飛び散る。フェイ達はそれを見た。そのままシャーリーは、落下する……だが、無事だった。


 彼女は着地した。しっかりと、片膝を着いて。しゃがんだ姿勢で、俯いてはいるが……どこも傷ついていなかった。


 シャーリーの背中は震えて、大きく息を吸い込んでいた。それから間もなく、変化が訪れた。その、右手に。「ッ……――」


「あ、あああああああああ…………――ッ!!」


 何かが引き裂かれる音。それは彼女の服の右袖が真っ二つに裂け、内部から何かが溢れ出ている音だった。


 途端に『それ』は、彼女の右腕を覆い尽くし、濁流のごとく溢れかえり、一つの形を構成していく。それは複雑な色調階層からなる多種多様な金属模様のようであり、


 様々な機械部品のペーストのようでもあり。ガリガリ、ぎりぎりと音を立てながら、彼女の右腕が変貌し、形作っていく。


「痛っ……」


 シャーリーは呻き、とうとう両膝を着く。だが、変化は止まらない。誰も彼もが、見ていることしか出来ない。


 雑多な金属部分の寄せ集めが時間を経るごとに少しずつ秩序ある形を生み出していく。目に見えてわかる機構を作り出していく。


 一秒ごとに変化していく、意味のある形を生み出していく……ぎこちない金属のシリンダーのような部位が、滑らかな鈍色の外皮に覆われ、更にその上に真紅のラインが流れ込み、まるで墨流しのように作業機械のようなマーキングを施す。


 出来上がるのは巨大な杭打ち機のような部位。彼女の身長の倍は確実にある長さ。その先端に、巨大な五本指が形成され――。


 ……変化は、終わった。

 シャーロット・アーチャーの右腕は、異形と化した。


「これは――……」


 フェイが絶句する。ミランダも、チヨも、手を止める。その威容に、息を呑む。


「なんだ、これ……っ」


 無論、一番呆然としているのはシャーリーであり。そんな彼女に、その男の哄笑が覆い被さる。


『くくく――…………ははははは!! そうか!! 君の力はそんな風に変化するのか……これは面白いッ!!』


 フェイの耳を不快に撫でる声。


「貴様……どういうことだ」


『ほらほら、よそ見をしている場合では……ありませんよ!!』


「――ッ!?」


 振り返る。化け物の巨大な拳が、風圧を、周囲の情景を巻き込みながら、圧倒的なスケールでシャーリーに迫る。巨大な影が彼女の上空を覆い尽くす。


「避けろ――」


 だが。


「ッ…………――来るな、ぁぁぁぁッ!!!!」


 それは無意識の叫びだった。混乱の中からもたらされたものだった。シャーリーは目を瞑ったまま、その右腕を――前へと、『振るった』。


 右腕の機構が稼働した。


 内部に奔るシリンダーが高速で上下し、その最尖端に備わった拳を射出した。それはロケットのごとく猛烈な勢いで発射され、化け物の拳と正面からかち合った。


 衝撃同士がぶつかり合い、破壊の波が周囲へと、放射状に広がる。アスファルトにヒビ。煽られる看板。割れる窓ガラス。吹き飛ばされそうになるフェイ達。シャーリー自身も後退していく。


 足裏の地面がめくれ上がり、後方へ吹き飛んでいく。じりじりと後退する。腕と拳は見えない何かで繋がっていた。


 彼女は歯を食いしばり、前方を向いた。化け物。形相――怒り。いや、悲しみ? エスタが見えなくなった今、そこに見えるのが彼女の感情なのだとしたら。負けない、負けられない――!!


「ッ、ああああああああっ!!!!」


 化け物に負けぬほどに、シャーリーは叫んだ。右腕の後部からスリット状の部位が露出。彼女の激情を現すかのように、黒煙を一気に噴出させる。そのまま、彼女は一気に。


「――……おりゃああああああああーーーーーーーッッッっ!!!!」


 右腕を――いや、右拳を、更なる勢いで、化け物の拳へと叩き込んだ。


 次の瞬間、化け物の体が宙に浮いた――いや、吹き飛ばされた。


 時間が緩慢になり、事実だけが浮き彫りになる。彼女は拳の衝突に競り勝った。化け物ははじき飛ばされ、その勢いで後方へと倒れ込もうとしていた。


 シャーリーは歯を食いしばったまま前方を見ている。まだ、自分がやりとげた事には気付いていない。彼女は姿勢を崩しかけていた。フェイ達がそれを見た。その巨体が、よろめき、あろうことか……一瞬、地面から、離れた――。


 ――……時間の流れが、元に戻る。


 巨体が瓦礫の中に倒れ込み、轟音を立てる。煙が猛然と、一斉に立ち込める。地面が激震し、フェイ達の脚元を揺らす。煙が上空へと立ち上っていき、ヘリをも呑み込もうとしていた。


「ハーッ、ハーッ…………」


 ……シャーリーはその時、我に返った。まるで止めていた呼吸を復活させたように息をつく。前方には倒れ込んだ化け物。瓦礫と、建物数棟がまた犠牲になって、ガラガラと音を立てながら崩れていく。


 全高の低いものしかなくて不幸中の幸いといったところ。混乱する思考はそんなことを考える――そして自分の右腕を見る――異形。長大なシリンダー機構、そして。


 ……拳がその先端へと帰還し、衝撃とともに嵌まる。その反動でまたよろめくが、今度はそれをしっかり見た。自分が何をやったのかを。目を丸くして、右腕を見る。それから化け物を見る。交互に繰り返す。


「これが、ボクの……?」


(そう。君の力ですよ。まぎれもなくね)


「ボクが、あの剣を刺したから……?」


(それだけじゃない。君は……選ばれたようだ)


「選ばれた……?」


(さぁ――それについて話している暇は……果たしてあるのかな?)


 ハッとして、シャーリーは前方を向いた。

 化け物は首をもたげながら……煙の中から起き上がっていた。ほつれた肉の塊を地面に垂らしながら、緩慢に、しかし確実にシャーリーを見据えていた。再び彼女の頭上が陰の暗黒に染まる。


「なんだ、あの力は。あれはテロドか? それともエンゲリオか――」


「いや、違う……」


「……?」


 チヨがフェイに問いかけたが、彼女は呆然としたまま前を向いていた。


『そう、違う。あれは僕が作り出したどの種族にも属さない特例だ! あぁ――とうとう、とうとう目覚めたか!! 第三の最強が!!』


 そこへ、ディプスの甲高い声が覆い被さる。


「やはりそうか――」


 と、フェイ。チヨが遅れて理解を示す。


「まさか……」


「間違いない……彼女は……“ザイン”だ!!」


「これが……ボクの力……」


 拳に力を込める感覚。


 送り込むと、連動するように巨大な右腕が動作した。あまりにも長大で、あまりにも重かった。しかし、その感覚は、自分の体そのものといえた。その感覚が彼女の中に駆け巡り――なにか、ひとつの確信のようなものを導き出した。


 彼女は前を向いて、右腕をかざす。


 ――正面に座す、怪物。

 その中に、エスタが居る。


 思いが溢れて、力が奮い立った。


『そうですとも!! これを必然と呼ぶんですねぇ!! ――僕の遺伝子ミームを継ぐ特異種族“ザイン”!! その3人目が、今ここに誕生したぁッ!!』


「……――いける……!!」


 シャーリーは口元で小さく確信を唱えると、重い右腕を引きずりながら、化物に向けて駆け出した。

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