第9話

 あやめが龍神の右目に触れると、彼女の手に導かれるようにずるりと金色の眼球が飛び出、金色の輝きを放ちながら小さな木の実ほどの大きさに凝縮された。光の珠となった龍の眼を、あやめは迷わず飲み込んだ。

 咆哮をあげながら襲いかかってくる土石流の牙が、あやめと龍神を飲み込もうとするほんのわずか一瞬前のことだった。

 天をつんざくほどの雷鳴と同時に、白い稲妻があやめを撃った。否、白い稲妻があやめの身体を引き裂くようにして、天を撃った。それらの数瞬後、龍神の身体から発せられた稲妻が天へと伸び、ふたつの雷光は重なり合った。

 轟雷の中で、あやめは自分の身体が膨張し、皮膚が裂け、そこから鱗が現れるのを見た。茜色の着物は雷に焼かれ弾け飛び、影も形もなく消失した。ぎしぎしと身体中が軋み、ばきばきと音を立てながら骨格が変わっていくのが解る。

 痛みを伴う訳ではない。あるいは、身体中にあふれる高揚感がそれらを麻痺させているのかもしれない。

 右目を飲み込んだとき、口の中で一瞬にして溶けて消えた。そしてあやめの右目がひどく熱を帯び、そこからありとあらゆるものが彼女の中へ流れ込んでいく。

 龍としての力──記憶──。

 金龍が生きてきた時間分、蓄積された膨大な情報と力が彼女の中にほとばしった。


 稲妻が天と地を結ぶ間の、ほんの刹那のことであった。


 気がついたときには、はるか上空から森を見下ろしていた。この夜の豪雨の中、まったく視界を遮られることもなく村を見つけることができる。村ではため池があふれ、その処置に追われていてまだ金龍と銀龍には気付いていないようだった。

 金龍に寄り添っていた銀龍が、小さく唸り声をあげる。促された金龍は、上空を目指し飛んでいったかと思うと、厚い雲の中へと消えていった。

 様子を見に森へとやってきた村人は、間近で龍神を目の当たりにして腰を抜かしてしまっていた。

 金色の龍が空へ飛んでいくと、銀色の龍もまたそれを追う様に飛び立った。森の木々に隠れて双龍を見失った村人は、這うようにして落石の場所までたどり着き、龍が消えた上空を見上げた。

 轟!

 地響きを伴うほどの轟音が降り注ぎ、同時に金色の閃光が空を網羅し、一帯は目も眩むほどの明るさに包まれた。

 突然の光に視界を失った村人は、慌てて両手で目をこすった。そしてようやく視界が戻ったときに見たのは、雲の中から姿を現した龍が、村へと向かって飛んでいくところだった。

「龍神様が、龍神さまが!!」

 龍の輝きでかすかに照らされている森の中を、まろびながら村へと走り出した。


 凄まじい轟音に、村の誰もが落雷か土砂崩れが起きたのだと思った。女子供は震えながら抱き合い、家の中で小さくなった。男たちは全身を竦ませて作業の手を止めた。しばらく様子を窺っても何事もないことから、どこか遠くで大規模な土砂崩れか何かが起きたのだろうと判断し、再び作業に戻った。

 最初に気付いたのはため池で土嚢を積んでいた男だった。

「おい、雨が小降りになってねえか」

 先ほどまで降り注いでいた滝のような雨は、普通の土砂降り程度までに収まっている。

「もうすぐ止むんじゃねえか」

「だがお前、さっき空が光らなかったか。何かの前触れかもしれん」

「そりゃ雷だろう。さっきもでかいのが近くに落ちた」

「いや、ありゃ雷じゃねえ。まるで雲が光ったみてえな……」

 あの光り方は雷ではなかった。そう主張して空を指差した男は、その先を見て悲鳴をあげて腰を抜かした。

「お、あ、おお、おい、お前、あれ、あれ……」

「ああ? 早くこれを積んじまわんと……」

 男たちは、呆然と立ち尽くした。ある者はその場にひれ伏した。

 金銀の龍が、まっすぐこちらへと向かって飛んでくる。

「龍神様だ!」

 誰かが叫んだ。呆然としていた者も、一斉にその場に頭を垂れる。

 その叫びに呼応するかのように、銀龍が牙を剥いてため池の方へ飛びかかった。何が起きているのか理解できない村人の前で、銀龍の牙にかかったため池が壊れ、そこからあふれた水が近くの畑へ流れ込んだ。もうたっぷりと雨水を吸い込んだ畑はさらに流し込まれた泥水にむせたかのように、農作物を泥水に乗せて吐き出した。

 ため池だけでは飽き足らないのか、銀龍はそのまま村の中心へと向かう。

 震え上がる村人の前で、金龍が空に向かって吼えた。天地を轟かせる咆哮に、先ほどの轟音が龍神のものであるとようやく気付く。

「龍神様のお怒りだ……」

「花嫁を捧げたのに、どういうことだ」

「椿じゃいかんかったのか」

「お赦しを、どうかお赦しを!」

 ただひれ伏す人間たちを、金龍は冷たく見下ろしていた。


「龍神様のお怒りだー!!」

 戸を叩く音に、村長は何事だと顔を出した。

「龍神様が、龍神さまが……!」

 村長はぎくりとした。その声に奥の部屋で臥せっていた椿が身を起こした。

 龍神には気付かれたのだ、この花嫁偽装の工作を。だが事実を露呈させることができない村長は、視界の端に村のはずれにいる金龍を確認しながら、

「隣村へ逃げるんだ、急げ!」

 そう叫んで使いの者を追い返そうとした。しかし隣の村へは山をふたつ越えなくてはならない。明かりもなく、足元がぬかるんでいる状態で山を二つ越えるなど、大の男でも容易ではない。使いの者がまごついていると、

「私が行きます」

 姉を失って塞ぎこんでいるあやめがそこで臥せっているはずだった。だが村長の家の奥から現れたのは、青い顔で足元さえおぼつかない、やつれ果てた椿だった。

「つ……あやめ! おとなしくしていろ!」

「もうやめて父様!」

 混乱する使いの者の前で、椿ははっきりと否定した。

「私が悪いんです。私が自分かわいさに、妹を身代わりにしたから……!」

「村長!? どういう……」

「お前はもう寝ていろ!」

「自分が何をしたかくらい解っています。ちゃんと自分で責任を取ります。本当に、ごめんなさい」

 よろめきながら、それでも椿は家の前まで出て空を見上げた。村のはずれに佇む金龍は、こちらをじっと見下ろしている。

「私は……」

 椿が言いかけたそのとき、すぐ横を銀色の閃光が貫いた。うねりながら森を引き裂いた閃光は、うなり声を上げて空へと舞い上がる。ようやくそこで、村人は銀龍が襲ってきたことを知った。

 うなり声を上げながら、ゆっくりと金龍が椿の方へと向かってくる。かすかに吼えた拍子に、するどい牙が覗く。

「……逃げて!」

 椿が叫んだ。

「みんなそこから逃げて! 早く! 父様!!」

 動揺する村長よりも早く、使いの者の方が我に返った。村長を引っ張りながら村人たちに避難を呼びかける。

「椿、お前も急げ!」

「……父をお願いします」

 やりとりの間に間近に迫った金龍を前に、椿は両手を握り締めた。三日間臥せって弱りきった彼女の身体では、立っているだけでやっとだった。声を出すのにも気力を振り絞らねばならない。肩で息をする椿の言葉を待っているのか、金龍は静かに人間たちを見下ろしたままだ。

 その横で、逃げ惑う村人を追い立てるように銀龍の爪が家々を引き裂いていく。

 雨の音と混乱する村人の怒号と悲鳴と龍の叫びが入り混じる中で、金龍と椿が対峙する空間だけが静まり返っている。それは彼女のはかない鼓動さえもが聞こえそうなほどだった。

「……あやめ!」

 驚くほど力強く、椿の声は響き渡った。

「ごめんなさい……!」

 椿の痩せこけた頬を、幾筋もの涙が伝った。

「許してくれなんて言わない、でももし生まれ変わることがあったら、またあやめと姉妹でありたいと思ってる! だから……!」

 その後、何を言おうとしたのだろう。

 そこまで言いかけて崩れ落ちそうになった椿に、金龍は牙を剥いた。

 村人を誘導していた父が見たのは、金龍が椿を喰らう瞬間だった。

 誰かが悲鳴をあげた。

 誰かが石を拾って投げつけようとした。

 だが、それらはすべて銀龍の口からほとばしった稲妻によって阻まれ、金龍は悠然と空へと昇っていった。


 轟!!


 再び凄まじい轟音が村を襲い、閃光に包まれた。視界が闇に戻る頃には金銀の龍は遙か上空へと昇っており、村人が安堵して村へと戻ろうとしたときだった。

 どこかで獣の咆哮がしたような気がした。

 気のせいかと思われたその音は、次第に大きくなり村人たち全員の耳に不安とともに襲いかかった。

「逃げろー!」

 村の北にある山の斜面が木々ごとすべり落ちてきた。大量の雨水を含んだ地盤は土石流となり、森をなぎ倒して村をあっという間に飲み込み、さらに下へとすべり落ちていった。村人たちが避難していた場所の間近を流れていったが、起伏の関係で村人たちを飲み込むことはなかった。

 九死に一生を得た村人たちがようやく雨が止んできた空を見上げると、金銀の龍は寄り添うように空を舞い、やがて池の方へと戻っていった。


 嵐は過ぎ、夜半過ぎには月がかつて村であった場所を照らしていた。

 そこにはもう、誰も居ない。

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