第3話

 あやめの頬に触れている短刀が、氷の刃となって彼女の心を凍てつかせた。身動きひとつままならず、たった今この異端の男に挑みかかった勇敢ささえも一瞬にして折れてしまった。

 だがそれでも気丈な花嫁は、金色の双眸を真っ直ぐに睨み返した。憎悪と憤怒をほとばしらせる漆黒の瞳を正面から受け止めて、龍神はニヤリと笑って短刀をあやめの足元に突き立てた。

「また襲われては面倒なんでな。しばらくそのまま黙って俺の話を聞け」

 あやめの四肢を拘束していた何かが一瞬緩み、腰が抜けていたのかその場にへたり込んでしまった。目の前の短刀を抜こうかどうしようかと迷っているあやめに気付いたのか、すぐにまた何かに拘束される。

 先ほどのように締め上げる訳ではなく、緩やかに包むように彼女の動きを封じる何かは、どうやら水のようであった。先ほどの拘束が水でできた蛇であるなら、今のそれは水でできた布団にくるまっているかのようだ。小舟で感じた水の冷たさはそれらにはない。ほんの少しひんやりとする程度に温度が調整されている。

「まあまず最初に言っておく。俺のせいじゃない」

 龍神は低く、だがよく通る声で言うと、あやめの正面の少し離れたところに腰を下ろした。

 落ち着いて見てみれば、そこは池の底のようだった。足元は岩であったり泥であったりしたが、厚い水の膜で覆われており凹凸のない状態が保たれている。時折足元を魚が泳いでいく。上を見ればやはり水の膜があり、遙か上から光が射し込んでいた。

「俺にどれだけ貢ごうが、雨は降らん」

 何を言われたのか理解できず、あやめはゆっくりと遙かな水面から視線を龍神に戻し、その言葉を反芻した。

「……降らない?」

「お前たちは旱魃の度にこうやって娘をよこすがな。俺に雨を降らせる力はない」

 悪びれる様子もなく、平然と龍神は言ってのけた。

 今までに一体何人の娘が龍神の花嫁としてこの池に沈められただろう。現にこうして、あやめは姉と引き離されてここにいる。自分の身代わりとなったあやめの前で、椿は泣き崩れていた。花嫁を池まで連れて来た男たちは、あやめに最後の希望を託した。

 誰も好き好んでこんな儀式をやっている訳ではない。こうすることで雨が降ることを信じてだ。

 それを──それを、この男は踏みにじったのだ。村人の希望の灯火を──。

「ふざけるな!!」

 あやめの怒号に、足元を泳いでいた魚の群れが一斉に散った。

「じゃあ今まで花嫁になった人たちは何だったって言うの!? 何もできないくせに供物はよこせって? 冗談じゃないわ!」

「俺は一度も花嫁をよこせと言ったことはない。お前らが勝手にやったことだ」

「だったら返せばよかったじゃない! そうすれば……!」

「できん」

 気炎を吐いたあやめに対し、龍神は水面を見上げてため息をついた。

「一度だけ花嫁に訳を話して帰したことがある。娘は雨が降らないことに肩を落としつつも、村に帰れることを喜んだ。その翌朝だ。その娘の遺体が沈んできた」

「なんで……」

 娘を森へと続く道の入り口まで送り届けて、龍神はそのまま池に戻るはずだった。だが獣も多い森のこと、心配になって変化で身を隠して娘の後をつけたのだ。夜になってしまったが、娘は無事に村にたどり着いた。

 安心して池に戻ろうとした龍神は、娘が村人に殴られて倒れるのを見て足を止めた。

 娘は龍神が言ったことをそのまま村人に伝えた。だが、村人はそれを娘が助かりたいばかりに嘘をついているのだと解釈した。

 龍神はそこで池に戻った。翌朝、昨日帰したはずの娘が縛られた上に重りをつけられて池に沈んできたのを見て、すべてを悟った。

「この【龍神の花嫁】という儀式はな、お前たちの過剰な期待がさせている。儀式が無意味であるという事実を受け入れようとはしない。花嫁を帰したところで、任務を放棄したと村人から罪人のように扱われるんだ。だから帰すこともできん。断ることもできん。俺にできるのはここに来た娘をせいぜい死ぬまで匿ってやることぐらいだ」

「私は……」

 目の前が真っ暗になったようだった。あやめはうなだれて、足元に刺さったままの短刀を見つめた。

「そうだな、その短刀で俺の首を取って村に帰るか? 龍神が死んだとなれば、この儀式も終わるだろうよ」

 もしその言葉の通りにしたとしても、龍神の話が本当であるならば、きっと村人は誰も信じない。信じたとしても、龍神を殺したとしてあやめ自身もまた殺されるだろう。

「死ぬのも殺すのも好きにするがいい。俺は寝る」

 あやめを拘束していた水が、形を崩して床に同化した。

 解放されたあやめは、やはり短刀を見つめたままだったが、もはや龍神を殺す気力も自らの命を絶つ気力も、立ち上がる気力さえなかった。

 あやめに背を向けて横になった龍神をぼんやりと眺めているうちに、緊張の糸が切れたのか、あやめもまたその場にうずくまるようにして眠りに堕ちていった。

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