すいりゅうさん【凪ぎ】

 この丘も随分賑やかになった。

 私はぽかぽかと心地好い陽気のなかで欠伸をした。近くの梢が揺れ、地面が少し波打って、松の木の根元から嬉しそうにはしゃぐ声が届く。

 スイレンの弟は腹が据わっている。無知であるが故の鷹揚さもあろうが、木々が騒めこうと大地が揺れようといつもああやって笑っている。


 私はこの丘の静けさが気に入っていた。日がな一日、ゆるりと午睡を楽しむのにこんなに好い場所は他に無い。

 だが静けさはうに破られた。

 小さなスイレンが毎日押し掛けてくるようになり、今ではその家族までもがこの丘を賑わせている。



 笑い声というのは、なんと心地好く胸に響くものであろうか。

 しんと静まり返った孤独に比べ、愛しい者と過ごす日々はなんと光に満ちていることだろうか。

 永い孤独を生きると決めた私に訪れた僥幸ぎょうこうに今はただ感謝しかない。



 弟に空の散歩をせがまれて、スイレンが困ったように眦を下げている。一丁前の顔で困っているようだが、ほんの数年前、その弟と同じように私に手を伸ばしたことは憶えているか?


「あのね。高いところから落っこちたら大変だから、お空のお散歩はダメだよ」


 しかつめらしい顔でスイレンは諭す。


「ぎゅうってしがみついてるから大丈夫だよ」


 しかし弟は諦めない。

 さて、スイレンはどうするだろうか。私は興味深く二人を見守った。


「うん。お前は賢いものね。きっと大丈夫だよ」


 おや? 乗せてやるのか? 私は驚いてスイレンを見つめた。めておいた方が好いと私は思うが。


「うん!」


 嬉しそうに弟が応える。それに優し気に頷いてスイレンは言った。


「だけどね。もしかしたらって思うと、みんなすごく怖いんだ」


「みんな?」


「そうだよ。おばさんも、グレンもね」


「パパとママ?」


「そうだよ」


「兄ちゃも?」


「うん。ぼくも」


「怖いの? どのくらい? 泣いちゃうくらい?」


「夜にお布団に縮こまって、おしっこに行くのも我慢しなきゃいけないくらいだよ」


「そんなに!?」


 スイレンの喩えに私は何だそれはと呆れたが、弟にはその怖さが十分に伝わったらしい。


「すっごく怖いね!」


「そうだよ。だから、ぼくたちを助けてくれないかな?」


 弟は暫く頭を抱えてうーんうーんと唸っていた。やがて。


「うん分かった。ぼく、危ないことはしないよ」


「ほんとに? お兄ちゃん嬉しいな」


「えへへへ」


 スイレンを喜ばせることが出来て弟は嬉しそうに笑った。したいことを諦めねばならぬのに嬉しいのか。不思議なものだ。彼らの心の機微は私にはいささか不可解だ。しかしそれは心地好い。私の胸を温めてくれる。


「その代わり、すいりゅうさんのたてがみでもふもふしよう」


「うわぁい! やったあ!!」


 スイレンの背に運ばれて、弟が私の鬣に乗ってくる。結構高いところだが、好いのか?


「すいりゅうさんは絶対ぼくたちを落とさないから大丈夫だよ」


 弟の隣に転がってスイレンが笑う。


「ぜったい?」


「絶対だよ」


「どうやったら絶対って分かるの?」


「長い時間をかけて確かめていくんだよ」


 スイレンが私に抱きついて鬣に顔を埋めた。


「ぼくはすいりゅうさんを信じてる」


「ぼくも絶対になれる?」


 スイレンを真似て私の鬣に埋もれながら、顔だけ上げて弟が問う。


「いつかね」


「兄ちゃはぼくの絶対だよ」


「嬉しいね」


「パパとママも!」


「おばさんとグレンは、ぼくにとっても絶対だよ」


 二人は顔を見合わせて笑った。暫く鬣に絡まって遊んでいた弟が、スイレンに抱きついて寝息を立て始める。その頬を愛し気になぞってスイレンが微笑う。やがてスイレンも眠りに落ちた。


 仕方がないから今日の午睡は諦めよう。

 私はお前の「絶対」だからな。

 

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