第六章 8

 多田彰浩は次の日も普通に登校した。痩せぎすの薄い体と銀色フレームの厚いメガネ。余分な肉などないようなその顔に、昨日はなかったはずの絆創膏が貼られていた。髭をそり間違えたんだよ、とは到底言えないようなそんな位置。

 僕は下駄箱で多田彰浩と顔を合わせ、いつものように何も言葉を交わさずにすれ違う。下駄箱に靴を突っ込んで、上履きを投げたその時に桑原亮二と鉢合わせする。

「おはよー」

 おはよ、と僕は言う。この時期になってもまだコートの一つ着用していない桑原亮二は、「きょーも寒いねぇー」などと言いながら泥だらけの靴を抜いで、乱暴に下駄箱に突っ込む。僕は意味もなくそんなクラスメイトの行動を眺め、ふとした拍子に桑原の鞄に取り付けられたお守りを目に入れる。学業祈願。そこらへんの神社で買ったようなものではない、布でできた、手作りの。

 僕はそれを問いかける。

「桑原、それ」

「あー? なにー?」

「それ、そのお守り。赤いやつ」

 桑原は顔を半分回転させて、「ああこれね」とにかっと笑った。

「いいだろこれ。かーちゃんが作ってくれたんだ。家に余ってた布使ってさ。おれ、頭わりぃじゃん? で、とーちゃんとかーちゃん相当心配しててさぁ。一時期、マジで浪人したらどうしようとか就職しようかとか思ってたらしいんだ。面白いべ? で、あんまり心配したかーちゃんがこれ作ってくれたんだ。いいだろー?」

 と、学年中でもっとも安全圏にいるであろう桑原亮二は、自慢げにそういった。

僕は、屈託のない笑顔を浮かべる同級生のことがどうしても憎らしくなり腹が立って、瞬間的にどうしようもなく責めたくなる。かっ――と頭に血が上り、周りの音が一気に遠くなる。僕の体が波を打つ。

「……い、おい。藤崎」

 はっ、と僕が意識と取り戻すと、目の前ではなんだか不思議そうな表情を作る桑原亮二が僕のことを見つめていた。

「なんか体調悪そうだけど、大丈夫?」

 初めて見る、桑原亮二の心配そうなその表情。珍しいこともあるものだ。その様子がなんだか楽しくて面白くて、口の端をにやりとあげる。

 大丈夫だよと僕は言った。



 いつからこんなに寒くなったのだろうと思う。一か月前はもう少し暖かかった。二か月前はコートなんて着てなかった。三か月前など半袖でいたような気さえする。ついこの間まではこの空もこんな重そうな灰色ではなかったし、雲だってもっと白くてふわふわきらきらしていた。僕らの体を包みこむ空気だってこんなにも泥臭くなかったし、今目の前にある景色だってこんなにも味気のないものではなかったはずだ。

(はず、だけど)

 でもそれらはもしかして、もうずっとずっと前から見ているものであり、今まではただ単に気がつかなかっただけなのかもしれない。

 目の前では同じジャージを着た同級生がドッジボールを繰り広げていた。コートの半分を女子、もう半分を男子が使っている。こんなにも気温の低い、冷たい風が吹いているというのにさすが田舎の中学生。そんなもの諸ともせず、自由気ままに飛んだり跳ねたり転んだりと走り回っていた。

 目の前で大胆不敵な行動を繰り広げるのが、相も変わらず桑原亮二。そして敵チームとしてこれもまた意外な俊敏性を見せる石井健太。その隣のコースでは和泉紗枝率いる女子チームがまるで猿か猫のようにしてきゃーきゃーという甲高い声をあげていた。

 あともう、数日で二学期の授業が――学校が終了する。冬休みとなる。今日は二学期最後の体育だから、この授業自体がフリーなのだ。だから、他のコートでサッカーをしているような奴もいるし鉄棒をしているやつ、達磨さんが転んだをしているような奴らだっている。

 僕は校庭の隅に座り込み、それらの様子を観察していた。

(学校が終わるまで、あと六日間)

 今日は十七日。二十三日から冬休みで、クリスマスまであと一週間。来年度まであと十三日。嫌な数字だ――と意味もなくそう感じる。

 白いうなじの辺りで束ねられた和泉紗枝の艶やかな髪が、彼女があっちこっちに飛ぶたびに不規則に揺れて飛び跳ねる。灰色の空に薄暗い雲がかかって、昼間なのにぼんやり暗いという奇妙な天気を演出する。

 イライラする。


『セイジは、どうしたいの?』


 桑原亮二の手の中にある丸いボールが、たった一つの迷いもなく繰り出されて石井健太の背中に当たり景気のいい音を立てる。


『パパー』


 投げられたボールをわずか数センチの距離で和泉が避け、瞬間的にそれを取り相手コートに投げ入れる。


『とーさんとかーさんが』


 外野に出ていた石井健太が瞬間的にボールを取り、運よく誰かの腕に当ててまたすぐに内野に戻される。

「……うるさいなあ……」

 誰かが僕の名を呼んだ。もしかして、授業終了のチャイムがなったのかもしれない。わからない。目の前が暗くなる。石井健太。

「おい藤崎、大丈夫かよ」

 大丈夫? 大丈夫だよ、と僕は思う。

「おい、藤崎。おまえやばいって。だって顔色真っ青だもん」

 大丈夫だ、大丈夫だからあまり僕の名を呼ばないでくれ。

 そう抗議をするために僕は、地べたにひっ付けていた腰を上げる。

 上げようとした瞬間に僕の体は安定感を失ってそのまま横から崩れ落ちる。



 周囲の驚愕の声を最後にして、僕の意識はそこで途切れる。

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