第六章 5

 僕のスマホに、あの番号は掛け直されていなかった。



 年の瀬ともなると流石に時間が過ぎるのも早くなり、受験を控えた僕たちはあと数十日後のあくる日のためにわけのわからん方程式やら役に立つのかどうかもわからない英単語を頭の中に吸収していく。シャーペンが紙の上を走る音をBGMにして、教科書のページとページが擦れる音を感じながら。僕の周囲は皆かつかつで、余裕があるのは合格率百%の和泉紗枝と、都内の私立高の特待を取っている桑原亮二。同級生のフラストレーションは発散されることなく溜まっていって、それらの感情をうまくコントロールできない、発散できない受験が、それらの欲求不満の解消の仕方が分からずにあるとき突然、ふとした拍子に爆発させてしまってもおかしくなかったのだ。

 それは本当に突然で、唐突だった。

 最近頻繁に行われる進路指導と生徒指導、学年集会。十二月の体育館は室内とは思えないくらいに冷え切って、どこにあるのわからないような隙間から冷たい空気が吹き込んでいた。つるつるにワックスの施された床はまるで冷蔵庫の底のようになっていて、ぺたりと付けた上履きの底ごしにもその温度が僕の足の裏に伝わった。あまりの寒さに僕は体を震わせる。膝上スカートの女子たちは、寒い寒いと騒ぎながら出された膝小僧を擦り合わせていた。

 丈の短い女の子だけじゃなくて、制服の下のジャージを着こんだ男子の僕らも充分寒くて、なるべく空気に触れないように指の先を制服の袖の中にしまう。氷の温度を湛える床に腰を付けて、縮まるように肩をこわばらせる。いつものように壇上の上でマイクを握る教師の話をすべて聞き流し、あくびをして、退屈しのぎに覚えたばかりの英単語を脳内で反復させる。ぼんやりとしたままスピーカーの下に取り付けられた時計の針がちくたくちくたくすぎるのを待って、終了のチャイムが鳴る。それを合図に長々と区切りなく話し続けていた学年主任も適当なところで話を切った、その時だった。

 どこかの猛獣が発したような、超音波にもよく似た奇声が爆音のようにして体育館に響き渡る。例えばもしこの場所に爆弾が落とされたのだとしたらこのような音を立てるのだろうというような、そんな声。それまで静まり返った氷の下のようだった体育館の様子が騒然とする。つい数秒前まで眠そうに目を擦ったりあくびをしたりしていた生徒たちの目が見開かれ、それらすべての瞳が体育館の一点に注がれた。

 そこでは眼鏡をかけて痩せぎすの、僕らと同じきっちりと制服を着こんだ男子生徒がひどい罵声を飛ばしながら両手両足をばたばたを動かして、先生たちに抑え込まれていた。僕の位置からそいつの名札はわからない。でも僕はその、暴れているのがだれだかわかる。多田彰浩。去年一年間同じクラスだったやつだ。

 多田彰浩はまるで、とっくの昔に試合終了のゴングは鳴り終わったというのに戦闘意欲の収まらないファイターのようにして、教師という名の審判に手足を拘束されながらも暴れていた。

「なんで俺ばっかりこんな思いしなくちゃいけねぇんだよ! ちくしょう! ちくしょう! みんな死ねよ! 死んじまえよ! 殺せよ! 殺せよ!」

 バシン!

 多田彰浩のほとんど筋肉のないような貧弱な腕が、体育教師の顔を叩く。教師の鼻が妙な形にひん曲り、そこから赤い血が出るが教師は多田の手を押さえることを止めない。多田の短い足がばたばたと暴れて、体育館の壁を蹴り上げる。ガン! ガン!

「落ち着け多田!」

「やめなさい多田!」

「殺せよ! 殺せっていってんだろ! 早く殺せよ!」

 ガタイのいい柔道部の顧問とバスケ部の顧問が二人がかりでまるで薬中患者のように暴れまくる多田のことを体育館の外まで連れ出す。三人が出たところで扉辺りに待機をしていたベテランの女性教諭が首尾よく閉めて、僕らと奴らを隔離する。それでもまた、区切られた重い扉の向こうから空しく叫ぶ多田の罵声が聞こえてきて、僕らは魂の一部を取られたような空白の時間を数秒過ごす。それから、はっと意識を取り戻した学年主任の「ええと、じゃあこれで今日の学年集会を終わりにします」という声で元に戻った。


 多田彰浩はもともとごく大人しく、クラスでも学年でもそれほど目立つ存在では決してなくて、どちらかというと休み時間が教室の隅で本を読むか、もしくは友人たちの会話に笑顔で相槌を打っているようなそんな地味な生徒だった。僕は去年一年間多田彰浩と同じクラスで、一度席が前後したこともあったのだが、そこのことが僕らの仲を深めたり絆を作ったりすることもなく、せいぜい名前と顔が一致するというくらいの間柄だった。

「あいつさぁ、明和大付属の推薦落ちたんだってよ」

 僕は給食のスプーンをお椀の中に突っ込んだままストローを口に咥える石井の話を耳に入れる。

「あいつの母ちゃん、すっげぇ教育ママなんだって。で、絶対明大付属入れるって言って、あいつ週六とかで塾言って、ほとんど徹夜状態で勉強してんだって。でも、ずっと塾の成績も学校のほうも全然上がんないで、で、結局推薦落ちたじゃん? そのせいじゃねぇの?」

 僕は石井の独り言のような解説を聞きながら、僕はぱさぱさになった食パンをちぎり口に含む。それをもぐもぐと咀嚼して、かみ砕き、心の中に浮かんだ疑問を石井に問う。

「多田って、成績悪かったっけ?」

「悪くはないけど……やっぱあいつ、焦ってたみたいだぜ」

 焦ってた?

「私立って公立よりも受験早いじゃん? 植村とかが言ってたけど、すげーヨユーなかったっぽい。休み時間とかがりがり勉強してさ。あと、あれだよ」

 そこで石井は、声のトーンを少し落とす。

「桑原は特待決まったじゃん? あれ、結構ショックだったっぽい」

 そう呟いた石井の向こうで、桑原亮二が何も知らないような何も知らない気楽な表情でクリームスープを飲み込んでいた。


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