第68話 結


 淀む空気は彼の分身に等しい。

 暗い地の底に押し込められ息づく腐った血は、ここのところ地上に広がる力に圧されて、浅い土の中を漂っていた。

 普段であればそれらは地上に染み出し、人の姿形を取って街を彷徨うことになるのだが、今はそれも出来ない。ただその分地下に淀んでいく気は、いつもよりも遥かに濃いものとなって土を染め上げる程に力を持ちつつあった。


 ―――― ゆらり、と。

 本来の姿近くなった気は、土の中で頭をもたげる。

 予感があった。

 いやどちらかというとそれは、予兆であったろうか。

 地上で複数の力が交差する気配が感じ取れる。何が起きたのか、今まで彼を圧していた力が押し流されていくのが分かった。

 頭の上の重石が取り除かれたような解放感が訪れ、彼は自然と地上に向かい浮上していく。ようやく顔を出せた土の上には煌々と月光が注いでいたが、既にかなり濃いものとなっていた彼は、その光にも消えてしまうことなく留まることが出来た。

 いつものように分かれて人の姿形を取りかけた彼は、しかし一つの気配に気づく。

 そう遠くないところに佇んでいる女、月光を纏う彼女は、かつて本来の彼を殺した「存在」だ。その後も永きに渡って彼を地底へと押し込め、地上に出た気を刈り取ってきた相手。その存在が幾らか弱ってすぐ近くにいることに、彼は快哉に似た感情を覚えた。拡散しかけた気が意識するまでもなく一つの形に結実していく。


 そうして本来の姿と同じ黒い大蛇となった彼は、彼女目がけて音もなく路を滑り出した。狭い路地を曲がり、人だかりとその向こうの舞台を見つけて鎌首をもたげる。舞台の上には青白い顔色の少女が立っており、まだ彼に気づいた様子はない。

 普通の人間には見えぬ彼は、獲物を逃さぬよう地に伏してしゅるしゅると近づき始めた。

 だがその直後、彼の頭に白刃が突き刺さる。

 鋭く蛇の頭を地面に縫いとめたそれは、鍛える際に炉に麦穂をくべて打った化生斬りの持つ刀だ。突然の苦悶に身を捩る彼へと、燃えるような声が降りかかる。

「巫に近づくな。あるべき場所へ戻れ」

 警告の言葉と共に、突き立てられた刃は抜き去られた。

 痛みの残滓を抱えながら頭をもたげ牙を剥いた彼は、けれど視界の隅に振りかかる軍刀の煌きを見る。

 そこには一片の容赦もない。

 風を斬る一閃で首を落とされた蛇の気は、そうしてまた暗い地の底へと溶け入っていった。

 黒い気が消え去るのを確認したシシュは、溜息を一つつくと軍刀を鞘に戻し、舞台に向かって歩き出した。




 ※ ※ ※ ※




 今回の件程、被害が如何様なものか割り出しにくい事件もないだろう。

 出来うる限りの後始末を終えた翌朝、月白に集まったシシュとトーマ、テンセは、程度の差こそあれ疲労に満ちた顔を見合わせる。客も女もいない花の間のテーブルで、一通り街を見回ってきたシシュが口火を切った。

「それで、怪我人の容態は?」

「怪我人って厳密に言えるのはアイドくらいだけどな。あいつは当分動けないだろ。熱も出てるし」

 白々と言うトーマこそが、アイドの寝込んでいる原因なのだが、書類の束を手にした男はまったく反省しているようには見えない。色々言いたいことを堪えて、シシュは先に聞きたいことの方を確かめることにした。

「熱が出てるのは巫もだろう。大丈夫なのか?」

「サァリのあれはいつものことだからな。今は月白の女も倒れてて人手が足りないから一人で寝かせてるが、そのうち回復するだろう。気になるなら添い寝しに行ってやれ」

「断る。ヴァスは?」

「あいつの方はちょっと分からない。体に損傷はないけど、そういう問題でもないだろうからな」

 それを聞いてシシュは沈黙した。昨日の夜のことを思い出す。


 ―――― あの時、ヴァスは彼の目の前で狼に食らいつかれた。

 巫舞の影響か、狼は次の瞬間跳ね上がると、開いたままの玄関から何処ともなく走り去ったが、ヴァスはそのまま外傷がないにもかかわらず昏倒してしまったのだ。

 狼を追い払えれば代わりに化生が出現すると聞いていたシシュは、ヴァスが息をしていることだけを確認すると、彼を月白の玄関に寝かせて舞台へと向かったが、その後青年は一度も目を覚ましていないらしい。サァリが寝込む前に少しだけ従兄を視たようだが、とにかく存在が衰弱しており、自然回復を待つしかないということだ。その点はサァリも同じなので、二人のどちらが先に目覚めるかという話だろう。


 同席しているテンセが深い溜息をついた。

「今回は深く操作を受けた者ほど、後にひきずるようですね。あの鉄刃が熱を出すくらいですから相当でしょう」

「それを言うと何故この男がぴんぴんしているのか疑問なんだがな」

 シシュにお茶のカップを持った手で指され、若干血の気の薄い顔のトーマは肩を竦めた。

「俺まで倒れてたら後始末する人間が少なくて大変だろ?」

「……後で何人かに殴られる覚悟をしておけよ」

「お前には水路に蹴り落とされたしな」

「覚えてるのか」

 今までそのことについては一切触れられなかったので、てっきり記憶にないのだろうと思っていたシシュはぽかんとした。トーマは苦笑いでそれに答える。

「記憶はあるさ。サァリもそうだったろ? 全員がそうかは分からないけどな。ま、おかげで少し目が覚めた。あの操作はかなりきついな。次までに対策を考えておきたい」

「次!?」

「あるって思ってた方がいいだろ。ネレイが駄目になったとは言え、本体は無事なんだ。別の傀儡を作ればまた干渉は出来る。むしろわざわざ余所から来てるのにあれくらいで諦めたりはしないだろうよ」

 お茶を啜るトーマをよそに、シシュとテンセは愕然とした顔を見合わせる。

 今回でさえかなり苦労したというのに、相手が学習して再度やって来たなら退けられるか分からない。途端、先行きに暗い影が差した気がしてシシュは力なくかぶりを振った。それを見たトーマが呆れ顔になる。

「何やってんだ」

「いや……途方もなさを味わった」

「早々に凹むな。こっちだってまだ伸び代はある。サァリ自身まだ子供だしな」

 それは彼女が大人になれば、あの狼と互角になれるということだろうか。

 シシュは嫌な方向に話題が流れるのを恐れて立ち上がった。また神供うんぬんを言われても困る。無言で部屋を出て行こうとする青年に、トーマが軽く手を上げる。

「一応サァリの様子見といてくれ。起きてたら水を飲ませたい」

「……分かった」

「あとすまなかった。迷惑かけた。お前たちのおかげで助かった」

「は?」

 ぎょっとしてシシュは振り返ったが、トーマは背を向けてお茶を飲んでいて表情は窺えない。代わりに隣でテンセが苦笑するのが見えた。

 いつも通り飄々としているように見えるトーマだが、今回の件はかなり堪えたのかもしれない。操作を受けた他の者たちが揃って寝込んでいるというのに彼だけ事後処理に奔走しているのは、相当の無理を押してのことだろう。巫舞が成功したとは言え、その力は街の外までは及ばない。アイリーデから別の街へと移ってしまった店などには、誰かが手を打たねばならないのだ。

 捻くれた友人にいささか呆れながら、シシュは花の間を出る。途中で厨房に寄って水差しに水を汲むと、主の間へと向かった。



 奥の寝所で寝込んでいたサァリは、襖の開く音で目が覚めたらしい。うっすらと瞼を上げてシシュを見上げた。

 青年は水差しを上げて見せながら枕元に胡坐をかいて座る。

「飲めるか? 出来るなら飲んだ方がいい」

「……うん」

 浴衣姿の少女ははだけた胸元を押さえながら体を起こす。礼儀として顔を背けていたシシュは、彼女が浴衣を直す間に湯呑みに水を注いだ。白磁の底に描かれた青い蝶が揺らいで見える。

 サァリは一息つくと、白い手をシシュに伸ばした。

「ありがとう。頂戴」

「ああ」

 湯呑みを受け取った少女は美味しそうに水を飲み干した。まだ熱があるのか額には汗が滲んでいたが、顔色自体は蒼白だ。シシュは心配になって眉を寄せた。

「大丈夫か? まだ寝ていた方がいいな。欲しいものがあるなら持ってくるが」

「欲しいもの?」

「何か思いつくなら言ってみればいい」

 たとえ入手困難なものでも、言えばトーマが用意するだろう。

 そう思って問うたシシュを見上げて、少女はぽつりと呟く。

「手」

「うん?」

「手、握ってて。帰るまででいいから」

 湯呑みを置いたサァリは、横になりながらシシュに向かって手を差し出した。目を丸くした青年は、けれど心細そうな青い瞳に気づくと溜息を飲み込む。仕方なしに伸ばされた手をそっと取った。細い指先に触れた途端、氷のような冷たさに驚く。

「サァリーディ」

「眠るまででいいから……」

 小さく息を吐き出した少女は、既に眠りに落ちかけている。髪が乱れているせいか、瞼を下ろしたその貌がひどく大人びて見えて、シシュは我知らず見入った。呼気と共に上下する肩があまりにも薄くて、触れて確かめたくなる。

 だが彼は、そのように思っている自分に気づくと苦い顔になった。子供相手に何を考えていたのか、自分を蹴りつけたくなる。


 ―――― 本当は、唐突に現れて消えた人外の少女について、彼女に聞かなければならないと思っていた。

 しかし何となく機を逸してしまったのだ。サァリも弱っていることだし、回復してからでもいいだろう。今はただ、日常にかろうじて指がかかった幸運を喜ぶべきだ。

 おそらくはいずれまた、苦難の中に漕ぎ出さなければならないのだから。


 シシュは少女の手を握りなおす。

 未来がどうなるのかは分からない。自分がそこでどのように動くのかも。

 それでも彼は、冷え切った肌が少しでも温められるように―――― そして神の孤独が和らぐようにと、遠いその手を包み込んだ。



【第参譚・結】

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