第62話 誠実


 古き時代、太陽を飲み下そうとした蛇を殺したのは古き神の一人だ。

 だが王の召喚に応えたその神の名も信仰も、今では当時在りし国の衰退と共に消えて残っていない。ただ御伽噺として知る者がおり、アイリーデがその由来を携え栄えているだけだ。

 けれど忘れ去られているだけで、その御伽噺は事実なのだとシシュは知っている。召喚された神は人ならざる血を残し、街に座す女たちはその祖と同じく人ではない。そこまでを彼は理解して受け入れていた。

 受け入れてはいたが、このような事態になると、どうして自分に不可思議な役回りが来てしまったのか、過去を振り返りたくもなる。まさかサァリ以外の神と尋常ならざる空気で向き合う羽目になるとは思わなかった。人生の苦味を味わうシシュに、ヴァスが呆れた視線を注いだ。

「急に何を言い出すんですか……」

「いや……事実らしい」

 狼が見えないヴァスには分からないだろうが、真紅の目が示しているものはただの肯定だ。

 金の狼は再び目を閉じる。その前に座るネレイが笑った。

「なかなか察しがよろしいようで。それとも彼女の客だというあなたは、何か彼女から聞いていたのですかね」

「は? 客? あなたが?」

「……今そこにつっかかられると話が脱線する」

 巫の客になるというのは、ネレイに探りを入れる為についた嘘なのだ。そんなことでヴァスに睨まれている場合ではない。これ以上の脱線を防ぐ為にも、シシュは大きくかぶりを振った。

「巫から聞いた訳ではない。ただの推測だ」

「なるほど。失礼ながらもっと鈍い方かと思っていましたよ」

「俺のことはどうでもいい。それより、サァリーディ自身はお前の妹ではないだろう」

 たとえ同じ血を持つ存在であっても、今の巫である少女とその祖である神とは同一人物ではない。サァリーディを勝手な身代わりにされる筋合いはないのだ。



 しかしネレイはそれを聞いても薄く笑ったままだった。男の声が一段低く、二重にぶれて響く。

「―――― 我々が保つものは存在だ。それは個ではなく、在り方そのものだ」

「在り方そのもの?」

「本質と言い換えてもよい。血によって薄まることはなく、魂が変われども変わることはない」

「それは……」

 分かるような分からないような話だ。だが少なくとも、人とは大分違う感覚を持っているらしいことは分かる。押し黙るシシュに、ヴァスが前を見たまま声を潜めてきた。

「どういうことなんです?」

「つまり、おそらく俺たちでは勝てない」

「……やってみる前からですか」

「現状把握と、やるかやらないかは別問題だ」

 神としてのサァリ一人でさえ、相手に出来るような存在ではないのだ。それに加えてネレイや狼がいるとなれば、まず太刀打ちは出来ない。

 シシュは相手の動きにいつでも対応出来るよう注意を払いながら、まず交渉を試みた。

「だとしても彼女は望んでここにいる。干渉はやめてもらいたい」

「役目は果たし、対価は受け取った。未だ人に使われる筋合いはない」

「使っているわけではない。彼女は人との暮らしを望んでいる」

「本当にそうか?」

 ネレイは言うなり、膝の上の少女の顎を支えて顔を上げさせた。胡乱な青い目が男を見上げる。普段生き生きと跳ねている彼女のそのような貌は、まるで本当に別の存在のようで、シシュは顔を顰めずにはいられなかった。サァリに向かって、男は先程と同じ問いをする。

「何故お前はここにいる? 血を分けた人間がいようとも、お前はそれらとは根本的に違う存在だ。それらはお前を理解出来ず、受け入れることも出来ない」

「…………」

「お前はここにいる限り永遠に孤独な異種だ。それにお前も気づいているのだろう? 何をしている? どうして帰らない?」

「……蛇の気を抑えているのです」

「ならば我がそれを滅せばお前は共に帰るのか?」

「―――― っ」

 思いも寄らぬ話に青年二人は息を飲んだ。

 確かに蛇の気が完全に消えるのなら、それは願ってもいない話だ。だがだからと言ってサァリを連れて行かれては困る。愕然とする彼らの視線の先で、けれど少女は無言のままだった。ネレイは答を後押しするように重ねて言う。

「出来ないと思っているのか? そんなことはない。地を深く穿って焼き付くせば済む」

「……蛇の気は、とても深くにまで染みいっているのです。この地を支える支柱にまで達する程に……」

「それがなんだというのだ。支柱を穿てばいいだけだろう」

「それでは、人が」

 サァリはそれだけ言うと、疲れはてたかのように視線を落とした。

 ネレイが手を離すと、少女はまた頭を男の膝に落とす。そうして深い疲労に溜息をつく少女は、まだ本来の彼女を失っていないようにも思えた。それが見る者の希望に過ぎずとも、彼女は兄神に直接の是を唱えなかったのだ。



 そしてならば―――― この状況を打開する為の道は他にない。

 シシュは意を決すると、サァリに向かって手を差し出した。

「サァリーディ、こっちに来い」

 一歩踏み込もうとする試みに、少女は目だけでシシュを一瞥する。しかしそれ以上は動く力がないのか、彼女はネレイにもたれかかったままだ。

 ヴァスが緊張の目を投げかけてくる。けれどシシュは巫の少女から視線を逸らさなかった。もう一度、強く呼ぶ。

「サァリーディ、来るんだ。大丈夫だから」

 ―――― もしこの状況を覆せるのなら、それは同じ神である彼女の力無しにはあり得ない。

 神としては未熟だとはいえ、彼女がこちらにつくなら五分以上にまでもっていけるはずだ。それ以上に、彼女自身が兄神の支配下から抜け出せないのならば、抗う意味が減じてしまう。シシュはネレイがここに来てから、神としての彼女に会っていないことに気づいていた。



 サァリは意思のない目で青年を見ている。

 だがそれはひどく不安げな、寄る辺ないものにもまた思えた。その目を見ていないネレイが、微笑んで少女の肩を叩く。

「あのようなものがお前を留めるのなら、自ら薙いでみればいい。そうすれば本当に意味のあるものかどうか分かるだろう」

 ぎょっとするような指示に、サァリはややあって頷いた。気だるげに体を起こす。白い素足が三和土に下ろされ、よろめきながらも少女は立ち上がった。

 ゆっくりと門の方へ歩いてこようとする彼女を見て、ヴァスは小声で問う。

「どうするんです。正気には見えませんよ」

「とりあえず月白の敷地内から出す」

 月白内が男の領域であることはもはや明らかだ。前回逃げてきた彼女も、月白から出てようやく普段の彼女に戻った。

 ならばまずそれを試してみなければならない。シシュは覚束ない足取りで近づいてくる少女を待つ。

 だがサァリは玄関と門の半ば、倒れ伏した男の傍で不意に歩みを止めてしまった。彼女は首だけを傾けて、じっと男の背を見下ろす。そこにどのような表情が浮かんだかは、顔にかかる銀髪に隠れて見えなかった。見えたものは顔を上げ二人に向き直る人形のような彼女だけだ。

 サァリは右手を上げ、その指先を二人へと向ける。ヴァスが緊張に表情を硬化させた。

「不味いですよ……。下がった方がいいのでは?」

「いや……」


 少女の目には意思が窺えない。

 だがそれは完全に男の支配下に置かれているというわけでもないだろう。シシュは今彼女を占めているものが何か、分かるような気がした。ネレイに不審を覚え始めた時も、あの夜彼のもとに逃げてきた時も、サァリはずっと不安そうだったのだ。

 だからここで引くことは出来ない。それをしては彼女は新たな不安を抱えるだけだ。

 シシュは、いつかトーマが言っていたことを思い出す。

 あの男は己の母と妹について触れ、『神としての側面を拒絶するな』と言ったのだ。それがこのような事態を含んでのことなのか今となっては分からないが、息を潜めている彼女のもう一つの側面がここに現れているのなら、引いてしまうわけにはいかなかった。

 シシュは少女に差し出した手を、もう一度示す。

「サァリーディ」


 ―――― 月白の女が客たる男に返すものが誓約というなら、客が女に返すものは何か。

 花街の常識をシシュは知らない。アイリーデのそれもだ。だから自分が彼女に返すとしたら、それは誠実だろうと思っている。


 シシュは思うことを慎重に言葉にした。

「巫はちゃんと巫だ。分かってる。そのままで大丈夫だ。不安に思う必要はない」

 少女の青い目が微かに見開かれる。シシュはその目に迷子に似た色を見て頷いた。

「分かっている。……逃げるつもりはない」

 正面から向かい合う時間にシシュは、不思議と緊張を感じなかった。

 それは正気を失っているように見える少女が、紛れもなく彼女自身であると分かっているからだろう。初めてその正体を知った時とは違う。今は彼も幾許か彼女の本質を知っている。

 知っていて、それでも「平気だ」と思うのだ。



 サァリは長い睫毛を下ろして目を伏せた。二人に向かって上げていた手を下ろす。小さな唇が震えて言葉を刻んだ。

「シシュ」

 ―――― その呟きを切っ掛けに、ネレイが立ち上がる。

 刀を抜く男を見て、ヴァスが抜いた剣を手に駆け出した。

 サァリは動けない。シシュはその手を取ろうと少女に向かって走った。

 だが二人より早く、ネレイが少女のもとへと到達する。そうして彼女を捕らえようとした男は、しかしサァリに触れる直前で大きく跳び下がった。今まで伏せて動かなかった男が、素早く起き上がりネレイの足を狙って刀を払ったのだ。

「早く行け」

 敷石に片膝をついたままのアイドは、片手でサァリの背を押す。前へよろめくサァリをシシュが肩に抱え上げた。シシュはそのままアイドの腕も掴む。

「一旦退くぞ!」

 アイドに向かって刀を振るおうとするネレイに、ヴァスが牽制の剣を突き込む。

 だがその時、月白の玄関では金の狼がゆっくり体を起こし始めていた。それを見たシシュは、アイドを引きずって門の外に出ようとする。しかし男は負傷しているらしく、長身の体は滑らかに動かない。


 ―――― このままでは金の狼に捕まる方が早い。

 シシュがヴァスを呼びかけた時、背後から現れたトズがアイドをひょいと担ぎ上げた。それだけに留まらず、ミディリドスの男はヴァスと切り結んでいるネレイに向けて、細笛の吹き矢を吹く。即効性の薬が塗られていたのか、よろめくネレイの鳩尾を蹴りつけるとヴァスは踵を返した。一行は後ろを見ずに走り出す。


 そうしてトズの先導で月白から離れた空き家に辿りついた時、シシュは金色の狼がついてきていないことを確認し、激しく脱力してその玄関先に座り込んだのだ。

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