第26話今だけは③
ここで、二点取れなくては僕たちの負けである。僕の打席は一人以上が出塁することが条件となる。
そして、勝利への最低条件は、この回に二点入れて裏の相手チームの攻撃をゼロ点にすることだ。
ただ、次の相手の攻撃には工藤、秋山に回る。ゼロ点で抑える仮定はいささか楽観的過ぎるだろうか。
だが、ここまでのバント作戦はただ四球を貰うためだけではない。散々走らせて足腰に来てるはずだ。
ここで、何とか叩ければ勝機はあるはずだ。
「………心地いい?」
その背後からかけられた言葉の主は、確認するまでもない。深会先輩だ。
僕は、あえて振り返らない。
そう、この気持ちに名前を付けるとしたらそれだ。
心地いいのだ。
好きなことで自分より大きな壁を頭と体をフルに駆使して打倒しようとする。その
つまり完全な自己満足の世界。
このぬるま湯はさぞかし心地いいことだろう。
でも、そろそろ僕はこのぬるま湯から上がらなくてはならないのかもしれない。そういう時期が来たんだ。明確にこの時期が決まっているわけではない。一生来ない人もいるだろう。それが一番だが、そんな幸せ者は数えるほどだろう。
他人には逃げにしか見えないかも知れない。
でも、不器用極まりない僕はこうやって進んでいくしかない。次のやりたい事が薄っすらとでも見えてる分、僕はまだ幸せな方だ。
僕は、工藤の方を真っ直ぐと見つめる。
今はまだ後ろを振り返らない。
彼女は意外に寂しがりやだから、拗ねているかもしれない。
ただ、今はまだここを優先させてください。
あっさりとツーアウトを取ったかと思えば、僕の前の打者をあっさり歩かせてしまう。
これは、僕に対する招待状という解釈で合っているんだろう。
そう、あくまで招待状だ。挑戦状ではない。挑戦しなくてはならないのは僕だからだ。彼らはその舞台に招待してくれただけにすぎない。
僕は、その招待を受け、ゆっくりと重くなった足を引きずり打席に向かう。ちらりと伊勢も視界の端にとらえる。こちらに視線を向けているのは分かったが、あえてこちらから視線は合わせない。
さぁ、せっかくの招待だが足の具合を考えると、そんなに長々とはいられそうにない。
しかし、目は口程に物を言うとは、よく言ったもので、工藤の目は爛々と輝いて捕食者のようである。
僕は、さしずめ少しばかり抵抗してきた物珍しい小動物といったところだろう。
でも、工藤も肩で息をし始めている。バント作戦での球数を多く投げさせたのは、少しは効果があったようだ。
ピリピリとした雰囲気を感じ取ったのか、さすがに秋山もこの場面では僕に話しかけてきたりしない。
工藤が振りかぶる。
一球目、胸元に重そうな球が走り向ける。
ストライク。
油断なんて微塵もしてないのにバットを振る事すら難しい球だな。
二球目、外低めいっぱいにうねりを上げるストレートが決まる。
僕はそれを不格好に振りをして空振る。
四球なんて微塵も期待できない絶望。
足を庇いながらでは勝負にもならない。
「頑張れーー‼」
バックネットの方から何の工夫もない声援が、聞きなれた大声に乗って響く。全く一番集中しなければならないんだから、静かに見守っててほしいものである。
それに、頑張っている人には頑張れは禁句だって知らないのかね。おかげで、もっと頑張らなきゃいけなくなる。
もう、足は庇わない。一スイングにすべてを乗せる。
工藤が僕にとどめを刺すために振りかぶる。
それと同時に、僕は全体重を右足に乗せる。
美しさすら感じさせるピッチングフォームが始動する。
バットのグリップが工藤の方に向く。
放たれる。
迎え撃つ。
僕の両手に、確かなずっしりとした質量を感じた。
ボールがバットに当たった。最後の最後まで目を離せない。
絶対に力負けなんてしてやるものか、僕は最後の力を出し切る勢いでバットを振り抜いた。
その場に僕は尻餅をつく。
打球は……三遊間の方へ向かって……
「抜けてーーー‼」
抜けた‼
伊勢の叫びが通じたかは、さておいてもヒットだ。
じゃあ次は、次は……次は一塁まで走らなくてはいけない。
「くっ」
何とか、かろうじで足に力を込め、立ち上がった僕には、一塁までがはるか先に見えた。
出し切ったのだ。笑い話にもならない。
でも、それでも、まだだ。
散々周りに迷惑をかけまくった僕はここで終わることは許されない。僕は一塁ベースに向かう。
「レフトー! ファースト間に合うぞ!」
秋山が大声で叫ぶ。レフトは、まさかバッターが全然進んでもいないなんて思っていなかったようでもたつく。
動け、向かえ、進め、走れ、頭から目一杯の信号を足に送る。
あと半分、レフトから中継にボールが届く。
慌てて右足を前に踏み出した。
「あっ」
躓きバランスを崩し転倒する。
ボールは、無情にも一塁手のグローブの中に納まる。
ゲームセットだ。
試合の終了に周りがざわめきだす。
そう、試合は終了した。
でも、笹箱敬馬のけじめはまだ終わってないのだ。せめて一塁ベースに届くまでは、終われない。でも、もう立ち上げれない。それでも進む。進まなくてはいけない。
周りのざわめきの質が変わる。ドン引きだろう。僕だって自分自身にドン引きだ。
でも、今だけは、これだけは何としてもやり遂げなくてはならないんだ。
あと、一メートル。
みじめでも、恥ずかしくてもこれ以上自分から逃げたくない。
口から土の味がする。
怪我をしてから、なかなか立ち上がらなかった僕には、お似合いの味だ。
地べたがお似合いの僕が、前を向けばそこには一塁手とは別の影が二つもあった。
じっとこちらを見つめる深会先輩、半泣きの伊勢。全く気が付かなかった。
彼女たちは決して手を貸そうとはしない。
ありがたい。
その気持ちに最後のひと踏ん張りをする。一塁ベースに手が届く。
そこには拍手などない。
感動など一ミリもない。
ここにいるほとんどの人が、意味が分からないだろう。
当たり前だ。ほとんど意味なんてないんだから。
泥まみれの汚らしい僕に、白魚のような手が伸びる。思わず躊躇してしまうが手を出して起き上がらせてもらう。
「どう? 諦められた? 次に進めそう? 何かわかった?」
「ははっ」
いきなりの核心に、僕は思わず乾いた笑みがこぼれる。
正直に今の感想を言うならすごく悔しい。爽快感なんて皆無だ。いろいろ手を尽くしたのに勝てなくて 悔しい。バットに当てるのすら困難で、レベルの差がはっきりとあって悔しい。点差以上の実力差を感じて悔しい。
これでは、質の悪いギャンブルだ。次こそは、次こそはと思ってしまって、終わりが見えなくなる。大人は、この感情にどうやって折り合いをつけているのか、その答えが深会先輩と僕が今回求めている答えだ。
僕は、彼女に答えを提供しなくてはいけない。僕は、この試合で掴んだ何かを言葉にしなくてはならない。
必死に脳内から使えそうな言葉を探す。
ヒントを求め周囲を見渡す。そこで、僕はやっと気付けた。
「………そうか」
正確には、あの試合の中には答えはない。答えは全てを出し切ってズタボロの僕だから見える景色だ。
何かに気づいた僕に対して、深会先輩は急かすことなく次の言葉を待ってくれる。
「……ペースダウンですよ」
「「は?」」
初めて深会先輩と伊勢の感情が重なった。ちょっと感動。
「大人は、子供に比べて長い時間がありますからね。常に全力じゃバテちゃいます。ゆっくりでいいんです。喜びも悔しさもゆっくり噛みしめて生きていけばいいんです」
とても、高校生で至る境地じゃないだろうけど、今の試合を全力でやり切った僕だからわかったことだ。どうせ、僕から野球を切る話すことなんてできない。なら、上手く付きあっていくには、これしかないと思う。
周りはみんなが全力で頑張っている。きっと、短い高校生活を立ち止まっている暇などないのだろう。残念だけど、僕はここでペースダウンだ。
これを諦めと呼ぶ人もいるだろう。それでもいい。
諦めとは可能性をつぶすことではない。
他の未来を描くためには必要なことなんだと思う。
こんな簡単なことに気が付くのに随分な時間がたった気がするが、結果オーライかな。
僕は、そっと深会先輩の顔を覗く。
僕の高校生活は、彼女やその周りの愉快な人たちと、まったり過ごさせてもらおう。
「この答えは、深会先輩には当てはまりそうになくて申し訳ないです」
時間の概念的には、この答えでは深会先輩は大人にはなれないだろう。
「……いいのよ。笹箱君が答えを自力で見つけられたことを私は誇りに思うわ」
深会先輩はあまり気にした様子もなく、さらりと言ってくれる。
「あんたがあの試合を通じて、そういった答えを出したんなら、私はもう文句ないわ」
と文句たらたらな顔で伊勢は言ってくれる。
深会先輩は相変わらず伊勢を華麗にスルーして、会話を続ける。
「さぁ、笹箱君が大人の階段を一つ上がった事と正式入部を祝って部室に赤飯をモリモリと用意してるのだけれど、病院が先かしら?」
「ははっ、なんか色々ツッコみたいですけどお腹空いたんで赤飯でも食べながらにします」
この日の僕はあんまりにも疲れ果てて、玄関で寝てしまい家族の誰に起こされても起きなかったそうだ。
ちなみに、ソフトボールの結果は秋山たちのいるクラスの優勝だった。
まぁ、どうでもいいけどね。
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