第20話先輩の金言

 インターホンから返事はなかった。


 ガチャン―


 代わりにドアの開錠音が、だだっ広い廊下にやけに大きく響いた気がした。僕はドアノブを軽く引く。部屋の真ん中には、いつもの定位置に深会先輩が腰掛けている。(と言うことは、このドアは遠隔操作で開けれるってことだろうか?)だけど今日は本を読んでない。その代わり、いつも本に注がれている視線は、今、僕の方に注がれている。

「害獣駆除、お疲れ様。何か私のご相談かしら?」

「……外の会話聞こえてました?」

「さぁ、どうだったかしら。あっこれは別にボケてきて忘れたとかじゃないから。アルツハイマーじゃないから、仮にアルツハイマーだったとしても若年性だから。ほら私、若者だから」

 適当に、はぐらかしているが、深会先輩は視線を僕から外さない。

 彼女の瞳から発せられる力はとても強い。

 またしばらく謎の沈黙が続く。この空気に耐えられるものはそうはいないと思う。そもそも大抵の冴えない男は、美人と長い間(五秒)目を合わせ続けることはできない。


 もちろん、僕は耐えられないので、何か話さなくてはと会話の糸口を探していると、最初に口を開いたのは深会先輩の方だった。

「ここ最近、あなたの事ばかり考えていたの」

「えっ」

 それって、告白とかいう素敵イベントの前振りですか?

「どうしたら、あなたの抱えている悩みをスパスパっと解決できるのかと、ここ一週間七割くらいそれを考えていたわ」

 あー、そっちね。

「そんな大げさですよ」

「ちなみに残りの三割は、どうにかしてアマと茜を共倒れにできないかということよ」

「結構な割合ですね。それ」

 これは、多分本気だ。

「ほら、私って安楽椅子探偵気質だから何もしなくても小さな情報から一つの答えにたどり着けちゃうのよ。例えば、今の笹箱君の状況とか。笹箱君の情報は五分ごとに私の息のかかった者に随時更新してもらっていたから」

「そりゃ、探偵じゃなくても椅子に座ったままでわかりますよね⁉」

 えっ、もしかしてあんなシーンやそんなシーンまで近くで誰かが見てたの⁉ 超恥ずかしくなってきた。

「ちなみにアマとの言い争いのシーンは、鈴原が実況だったから。見てみる? 『青春ナウ』とか送ってきてるんだけど」

「あのババア‼」

「そんなに簡単に女性をババアなどと呼称するものではないわ。これはごくごく一般的な世論だけれども、ババアなんて呼称されるべき真の年齢は七十を過ぎたあたりからではないかしら? 勿論私は違うのだけれども、女性の中には年齢の話題には過敏に反応する人もいるのだし、笹箱君にもその辺を配慮できる、素敵な男性になってほしいものだわ」

 深会先輩の年齢に対するいつもの長口上も耳に全く入らず、鈴原先生へのヘイト値がぐんぐん上がっていく。

 あいつ、そのまま職員室から生徒を送り出した出来る先生風な感じ醸し出してたのに、ひょこひょこついてきてんじゃないか‼ 野次馬根性丸出しじゃん‼ 最悪だよ。

「ちなみに、あいつこの部の形だけだけど顧問だから、この部のOGだし、丁度、茜の二つ上だからあの二人面識あるわよ」

「さらっと、色々情報を流し込まれて僕もうパンクしそうです」

 整理すると鈴原先生は深会先輩の手先で、この部の顧問で、この部のОGで、変態の先輩ってことか、全部欲しくもない鈴原先生関係の情報ばかりだった。

「まぁ、とにかく私は、あなたのことを何でも知ってるぞってことよ」

 そうか、何でも知られちゃったか

「じゃあー」

「まったく迷惑な連中よね」

「えっ?」

 『じゃあ、僕はどうしたらいいと思いますか?』と聞こうと思ったのだが、それは深会先輩の言葉で塗りつぶされた。

「だって、そうでしょう? 人がせっかく深く深くに埋めたお気に入りのおもちゃを、今更掘り返してきて『これはお前の大切なものだろ?』って言ってるのよ。そんなこと言われなくても本人が一番わかってるわよ。そんなこと言える神経がしれないわ。その人がどんな思いでそれを埋めたかも知らないで、本当に大切なおもちゃだからこそ、もうそれで今までのように遊べないと思ったから、その人は深く深くに埋めたのにね」

「………………………」

 僕は、何も言えなくなった。

「世の中にはね、『諦めるのは簡単だ』『諦めるのはいつでもできる』『諦めたらそこで試合終了ですよ』とか諦めるという言葉に否定的な言葉が多いわよね。でも、諦めるということは、必ずしも悪いことではないの。本当に好きなものを、諦めるのはとても難しいし、諦めずにいつまでも引きずってたら、次には進めない、諦めたら、それが次の試合開始の合図になるかもしれない」

「………………………」

 言葉が出ない。

「私は、決して諦めることを否定はしない。それは、誰にでもできることではないし、誰だってしたくてしてるんじゃないわ。もちろん、諦めなくて済むのが一番に決まってるんだから。なにより、好きなものを諦めるのは死ぬほど悔しい」

「………………………」

 何を言っていいかわからない。

「だからこそ、私は笹箱君が野球を諦めたことには、それだけの苦悩と覚悟があってのことだと思うから、何も言わないでおこうという結論にたどり着いたわ。それは立派なことで、賢いことで誰に避難されることではないわ」

「………………………」

 何も言う必要が無いほど、この人は、分かっている。

「でも、笹箱君の周りは私ほどあなたに優しくないわ。いや、優しさのつもりなんでしょうけど、これ以上ないほど酷なことをしている。無理よね。目の前で掘り返された宝物を前に、手を触れないことなんて」

「………………………はい」

 言いたいことは、全部言われてしまった。あと僕にできるのは、消え入りそうな小さな返事を返すことくらいだ。

「そうだわ。今回のテーマをそろそろ決めようと思っていたのよ。どうする? 笹箱君」

 伊勢の乱入やらで、あれからまともに話し合った記憶がないので、どうしようもこうしようもないんだけどね。

「そうですね」

 なので、僕の独断で決定してもよかろうか。


「諦めきれないモノを前にした時の大人の対応ってのは、どうですか?」


 その時、確かに深会先輩は笑った気がしたんだ。

 『気がした』というのは僕が今まで見てきたどの笑顔よりも美しかったので、本当にそれが笑顔と呼んでいいものか自信がなかったからだ。歯が浮きそうなのは分かっている。

 深会先輩のまっすぐ透き通った瞳が、僕を捉えて離さない。

 ただですら、その綺麗な瞳に見つめられて動かないのに、次に彼女の桜色の小さく整った形の艶やかな唇から洩れた言葉が、僕の身動きをさらに拘束する。


「私を大人にしてね」


 言葉に詰まるとはこのことだ。

 今の彼女を、僕は形容するすべを知らない。今、彼女はどんな思いで、その言葉を紡いだのだろう。考えてみれば、今、僕の抱えている問題なんて、それこそ、この世にはありふれていて、その中でも贅沢な方に入る部類の悩みかもしれない。


 では、彼女の悩みはどうだ?


 この世界で、彼女と同じ悩みを抱えた人間なんているのか? 彼女のような年月、同じ悩みを抱え続けた人間がどの程度いる? 僕は、今もしかするととても失礼なことをしているのではないだろうか? 明日、食べるものもままならない友達に、好きなおもちゃが買ってもらえないんだと相談する子供のような、下手をすればその場で殴られてもおかしくないようなことを僕はしてないか? 

なのに、彼女は笑っていた。自分の大切なテーマを最後は僕に一任した。彼女は僕の悩みに対して真剣に取り合ってくれた。ならば僕も真剣に取り合おう、彼女の悩みと、そして自分の悩みに。

 そこまでくれば、ここで発しなくてはならない言葉は一つだ。

 男らしく、はっきりと、彼女と自分の芯まで届く。


「はいっ‼」


 NOと言えない日本人は、これに限る。

「いい返事ね。ただ私の耳はそんなに遠くないから」

 若干台無しにされたが、それも彼女なりの照れ隠しかもしれない。

「さぁ、ベッドの準備でもしましょうか。前戯は何分欲しい?」

 照れ隠しだよね? この後、本当に部室にベッドが運び込まれたのは言うまでもある。

 最後、ベッドが運び込まれて、慌てて部室を出ようとしたとき

「無理はしないでね、あなたは、うちのかわいい部員なんだから」

「………………………」

 全く、僕は入学早々良い先輩に恵まれたものである。

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