Dragon-Jack Co. 二代目はでめこちゃん

千葉 琉

第1章 失意の日々

「君の代わりに進級試験を受けた影武者、彼は一体誰なんです?」

 4月。生物遺伝学の最初の講義の後、健司を教壇まで手招きした金枝教授は、他の学生がその場から全員出払うのを見届けてから、そう言った。

「叔父です」

 健司の答えに、金枝は少し驚いたように言った。

「ずいぶん素直に認めましたねえ。むしろ、やっと信じてくれる人がいた! って顔してますけど、まさか気づいたの僕だけ?」

 健司はうなずいた。

 昨年の冬から春にかけて、バイク事故で入院していた健司は、大学2年時の後期試験を受けることができなかった。だからこの春からはもう一度2年をやり直すはずだったが、新年度、大学に行ってみると、なぜか3年への進級手続きが済んでいた。教授や職員の話では健司本人が試験を受け、レポートを提出しているという。

 事故前後の記憶は曖昧だが、見知らぬ土地の病院で3か月余りギブスに包まれながら唸っていたのは確かだ。

 誰が自分に成り済ましたのかはすぐに分かった。そんな悪ふざけを思いつき、しかも実行できるのは、叔父の孝志以外にいない。

「叔父さん――お兄さんのように見えましたが?」

「よく言われます」

 化け物だと、という言葉は飲み込んだ。

「顔はほんとにそっくりでしたね。僕、はじめは、君がドラッグとかそういう類のものでもやってるのかと心配してました」

 普段不愛想な学生が、試験の時だけ楽しそうにしているのが不思議だったそうだ。

「お仕事は何を?」

 車に絵を描くカスタムペイントを生業にしていると健司が答えると、金枝は銀縁眼鏡の奥にある目をむいた。

「専門科目の試験まで、全部パスしてるそうですよ。成績はともかく」

 それは健司も事務職員から聞いていた。レポートもかろうじて進級可能なレベルのものが提出されていたらしく、別の教授には“面白かったよ、続き頼むね!”と満面の笑みで言われた。

「僕の試験の回答も面白かったなあ。採点した後、無性にスモークサーモンが食べたくなってね。買いに走ったくらいです」

 思わず頭を抱えた。あの人、答案用紙に何書いたんだ?

「その様子からすると、これは君のあずかり知らぬところで、叔父さんが好き勝手やった結果、のようですね」

「ええ」

 この替え玉進級については、健司も一応は、事情説明のために大学の事務局に出向いた。

 だが、後期試験を受けたのは自分に成り済ました叔父だと言う学生の主張を、職員はまったく受け入れなかった。そのうち健司が成績の急落を気にするあまり、作り話をしていると言わんばかりの対応を始めたので、健司は、試験期間中に自分が入院していた証拠書類を提出すると申し出た。

 すると職員の態度が少し変化し、今度はやんわりと健司を説得し始めた。一時的に成績が下がったにせよ、留年するよりは進級した方が健司のためになると言う。説得の合間に“証拠の提出は不要”を繰り返したのは、証拠品の検証によって大学側の落ち度――誰一人替え玉に気付かなかったという失態――が発覚する可能性アリ、と察した職員が、何とか事を収めようとしたためだろう。

「まあ、事務の方ではそういう対応をするでしょうねえ」

 健司の話を聞いた金枝は苦笑した。

「君の気が済まないなら、卒業までに単位を余分に取っておきなさい」

 ひとまずうなずいた。本当はもう単位なんてどうでも良かったが、多忙な教授がわざわざ自分の話を聞いてくれたことには感謝していた。

「叔父さんに感謝しないとね」

 それは無理です。健司が心の中で言ったのを聞き取ったかのように、金枝が眼鏡を光らせた。

「君は、留年してるヒマなんかないんですよ?」

 何を言い出すのかと、金枝の言葉の意味を図りかねていたら、

「国生研は知ってますね?」

「はい」

「僕、近いうちにあそこに観賞魚の研究室を開設します。金魚の研究したいんでしょ? だったらさっさと卒業して、国生研にいらっしゃい」

 最後の方は、放り出すような調子で言うと、金枝は片手を上げ、去って行った。

 健司は顔を伏せた。今の言葉を聞いたのが、大学入学直後の自分だったら。

 今から1年と少し前、10年と半年育てた愛魚を亡くした時点で、金魚の研究者になる夢は失せていた。強引な引っ越しに付き合わせて金魚の命を縮めてしまうような男に、金魚の研究者を目指す資格はない。国生研の新設部署で金魚の研究に勤しむのは別の誰かだ。

 もう卒業して大学院に進む必要もないわけで、後で替え玉がばれて退学になったとしても構わなかった。事務局に釈明しに行ったのは、叔父のおかげで留年を免れるのと、それが健司の主導によるものと思われるのが癪だっただけだ。 

 結局、健司はそのまま進級した。そして、落ち込んだ気分のまま夏を迎えた。


* * *

 

 遠くでかすかに祭り囃子の音が聞こえる。

 今日は祭りか。

 8月下旬の夕暮れ、ふと目を覚ました健司は自室のベッドの上で顔をしかめた。

 確かこの辺りの夏祭りは花火大会も兼ねていたと思う。あと1時間もすれば、アパート前の道路を花火見物に向かう客がぞろぞろと行き過ぎることだろう。さらには地に叩きつけるかのような爆発音をうんざりするほど聞かされるわけで、そう思ったら深いため息が漏れた。

 事故の後、このアパートに健司を移したのも、替え玉進級同様、叔父のお節介だ。そういえば、部屋の鍵を渡しながら“花火見るなら、ここは一等地だぞ”と嬉しそうに言っていた。花火に何ら関心のない人間がこの部屋の住人とは皮肉というか、もったいない話だ。

 そして――お節介の極めつけがベッドの脇にある水槽だ。もうでめ太はいないのだから、健司の荷物を移動する際、処分してくれればよかったのだ。だが孝志は空の水槽を運び込んだだけではなく、わざわざ水を入れて濾過装置もエアレーション器材も設置し直していた。

 でめ太が亡くなってまもなく2年。水槽には愛魚の幻だけが泳ぎ続けている。だからなのか、水が減ってくれば何となく足してしまうし、気付いたら機材の調子を気にしている。

「そろそろ、捨てなきゃな……」

 何度口にしたセリフだろう。だが実行に移さぬまま今に到っている。

 水が循環する音から意識を逸らすと、またかすかな祭り囃子が耳に入ってきた。頭を振ってベッドから起き上がる。冷房の効いた部屋でずっと寝ていたせいか体がだるい.

 小さなキッチンに行き、冷蔵庫から最近もっぱら主食にしている野菜ジュースを取り出して飲んでいると、流しのすぐ脇にある玄関ドア越しに人の気配を感じた。また、セールスか何かだろう。

 呼び鈴が鳴ったが、いつも通り居留守を決め込むことにする。

 二度目がまたすぐに鳴った。こっちも気配を殺しているわけではないから、ドアの向こうの相手に健司の在宅は知れているだろうが、関係ない。ベッドに戻ろうとしたら、ぴ、ぽぴぽぴぽぴーんぽん! と今度は妙なリズムが響き渡った。続いて扉をばしばし叩く音。

 勝手にやってろ。ドアに背を向ける。

 その時、

「けんにい……」

 小さな声がした――この声は。

「けん兄、開けて」

「美春か?」

 ドアを開けたら、そこには泣きそうな顔をした浴衣姿の幼い従妹が、一人で立っていた。

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