「制服で走ろう!マラソン大会」参戦記

走るサルトル

プロローグ ──やっとかめクリニック朝会

 「明けましておめでとうございます。」


 緊張感のない声が後ろのほうから聞こえた。言葉自体は、場に即した全く違和感のないものであったが、その声を発したのが、赴任して以来数年間、全く発言をしたことがなかったクリニックの所長だということに気が付いて、意外に思ったスタッフ約20名は一斉に振り返った。


 まだまだ正月気分が抜けないスタッが参加していた朝会が、新年のスタートであるにも関わらず、事務的に恐ろしいほどスムーズな流れで通常通りに終わろうとしていた時であった。

 平成の時代も終わろうとしていたある年の正月明け、名古屋市南区にある「やっとかめクリニック」の仕事始めは1月4日の金曜日であった。その日の定例朝会から全ては始まったのである。


 『名ばかり所長』さんだとばかり思ってたけど、彼も仕事始めの挨拶くらいはできるってところみせたいわけ? ていうか、所長が発言するってことは何か一大事でもあったの? そんなことよりさっさと仕事にかかりたいんですけど ──などと考えているのが一斉に振り返ったスタッフの白けた表情からはありありと読み取れた。


 クリニックの所長を務める医師の猿渡亨サルワタリ トオルは、年が明けたにも関わらず去年まで同様に貧弱な無精ひげを口の周りやあごに生やしている。コケかカビを連想させる。注目を集めてしまったことなど全く気にかけていないように見えるのは彼が大物なのか、それともそれと気が付かないほど鈍いのか。寝ぐせで左右不対象に跳ねている自分の髪形にも気が付いているのかいないのか、そんなことにも全てに関心がないかのように、表情を全く変えずに発言を続けた。


「私たちのクリニックは『患者さんの職場や生活、生き様のリアルを知ること、』をモットーに、『その中で患者さんの立場に立って、病気だけでなく、患者さん全体を観て診て看て関わっていこう』ということを大切にして、プロフェッショナリズムを発揮した医療活動をやっているわけです。でしょ?でしたよね?」と、事務長の顔を見た。


 自信なさそうな感じに見えちゃいますけど・・・そこは自信もって言って欲しかったところなんだけどなぁ ──突然、所長から話をふられて、スタッフ全員からの視線が自分に集まってしまったことに気付いた事務長のまりあは、動揺を悟られないように、間髪を入れず、必要以上に大きくうなずいた、つもりだった。


 何となく良いこと言ってるような気はするけど何が言いたいの? 意味不明なんですけどぉ ──看護師ナースの細井美代子は話の展開が読めずに口をとがらせていた。


「ところで、我々の念願であった『第1回制服で走ろう!マラソン大会』の開催がいよいよ今年の5月に実現できることになりました」と、さらに発言が続いたところで、平和に終わろうとしていた朝会は、若干ざわついた雰囲気になってきた。


 我々って誰の念願やねん! てかその物言いからすると所長もその大会に一枚かんでるってこと? だとしても私たちには関係ないじゃん! いったい何の話ですか、「制服で走ろう!マラソン大会」って何じゃそりゃ ──細井美代子は、完全に混乱してしまい、次々に湧き出してくる疑問を心の中で呟いた、いや実際に呟いていたかもしれない。おそらく参加していたスタッフも皆同じ思いであったに違いない。


「この大会は、参加するランナーが全員、日ごろ仕事で着ている制服をそれぞれのユニフォームにして、フルマラソンの42.195kmをみんなで走りきろう、という世界初の画期的な大会です」と、誇らしげに宣言したわりには、すぐに「世界初というのは、まあ、たぶんなんですけど」ボソボソとと呟いた。

「とにかくこのマラソン大会は、様々な仕事をする人たちがスポーツを通して理解を深め合おうという崇高な趣旨の、愛と平和のマラソン大会なのです」と、しゃべる所長の声は、いつもの彼と違って、ちょっとだけ力が入っていた。とはいえ、無精ひげに寝ぐせヘアなので説得力には疑問が残る。


 へえ、そうなんですね ──新卒で就職してまだ2年目、クリニック最年少の事務職員、大井川真琴は話を聞いて、一瞬は感動してしまったものの、

 ご立派な趣旨は分かりましたけど、だから何? クリニックとどういう関係があるんですか? ──すぐに当然な疑問を抱いた。彼女は、素直で性格もとっても良いのだが、それでいて冷静な考え方もできる貴重な人材なのである。


「そんなわけで、我がクリニックのモットーにぴったりなこの大会には是非ともクリニックを挙げて参加したいと考えています。『多職種協働』の理念と実践が重視される昨今、できれば全職員、とはいかなくても全職種参加を原則に参加を募りたいと思いますがいかがでしょうか。」

 何かこじつけっぽい気がしないでもありませんが ──大井川真琴は思った。

 私、マラソンなんて無理だし関係ないもんね。無理無理、無理の2乗! ──細井美代子は完全に反対派だ。


 ざわつきは本格化して、朝会はかなり不穏な雰囲気になってきた。所長はスタッフの反応や場の空気に臆することもなく、さらに問題発言を続けた。最近のニュースの国会中継でよく見る、野党議員の質問内容など無視して何食わぬ顔で飄々と自説を答弁するあの総理大臣のように。


「とりあえず明日は土曜日なので、午後は多くのスタッフは基本フリーだと思いますから、さっそく練習会&参加選手選抜を行おうと考えます。勤務でない職員は全員ジャージと運動靴で集合してください。」

 えっ マジっすかぁ 勘弁してくださいよ~ ──参加しているスタッフ全員の気持ちだった。

「とはいえボランティアでは申し訳ないので練習会参加は勤務扱いとしようと思います。OKですよね?事務長さん」

 ダメだと言ってください、事務長、お願いします! ──スタッフの懇願するような視線が事務長に集中したが、

「了解しました」と、事務長ははさらりと答えた。

「師長さんどうですか?」 所長が師長に話を振った。

 看護師長はダメだと言ってくれますよね、お願いしますよ! ──スタッフ一同の祈るような視線が今度は看護師長に集中した。

「仕方ないわ、なんとかやりくりして協力しますわ」と、その声も風貌も貫禄たっぷりの須藤看護師長が答えたので、不穏な雰囲気になっていた朝会の場は一気に収束方向に向かった。


「じゃあ、そういうことで今年もよろしくお願いします。」

 所長は、何事もなかったかのように会の終了を告げた。


 「ふん、地獄へ落ちろ!」 ―これまで醒めた目で成り行きを見ていた看護師ナースタマちゃんが心の中でつぶやいた。

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