第9話
戦禍で記憶をなくしたのは僕だけじゃない。
大勢の人間が、当時の記憶が曖昧になっている。
その原因は「汚れた炎」による意識障害だけでは無いと思う。
人間は、そういう風にできているんだ。
自分の心に強い感情を呼び起こす過去を「笑い話」として、矮小化して忘却していく機構が人間の脳には備わっているんだと、僕は思っている。
そうしないと、人間は生きていくことができない。過去の価値を低く評価しなければ、積み重なっていく自身の履歴に現在が押し潰されてしまう。
だから僕の、この過去を求める旅は、全てが間違っているように、全てが無意味なようにも思えた。
「そうだよ、無意味だ。最初からわかっていた事だろ」
自嘲気味にそうつぶやくと、僕は再び立ち上がる。維持機器が退避勧告を音声で発してきたが、気にも止めなかった。
記憶が回復しつつある、そんな手ごたえがあった。このまま進めば、兄の最期の日に何があったかを思い出せるのではないか、そんな期待もあった。
先ほどの天使の言葉、それについては考えないことにした。頭が狂った時に幻視した存在の発言なんて、まともに取り合うだけアホくさい。
「だいたい……天使なんているわけないだろ」
教室を出て、廃墟と化した校舎の廊下にでる。この階は一段と崩壊が進んでおり、ところどころ大きな穴まで開いている。
危なかった、下手に幻覚状態のまま歩いてたら死んでいたかもしれない。
僕は慎重に足場を確認しながら、歩を進める。
「死ぬのは怖いか?」
母の墓参りの日、兄は僕にそう尋ねた。
酷く日差しの強い日だった、暑さとセミの鳴き声と弱い風の音だけが世界に流れていた。
「兄貴は、怖くないのかよ?」
僕の問いかけに、兄貴は笑う。
「昔は怖くなかったよ。死がなんだかわからなかったから――」
そう言うと兄は母の墓石に水を大量にかけた。
「――母さんが死んだ時、やっと死の意味がわかった」
僕も倒れた花筒を手に取り、洗い始める。水の冷たさが非常に心地よかった。
「それは遅すぎだよ兄貴」
「ほんとだよな」
兄が雑巾を僕に差し出す。僕はそれを受け取って二人で墓石をこすり始める。
「俺は自分が死ぬのが怖くなかったから、死が嫌いじゃなかった――」
墓石をはさんで、兄の言葉が聴こえる。
「――でも、大事な人が死んで始めて死が怖くなった、嫌になった」
兄の表情は見えない、ただ雑巾のガシガシという音だけが聞こえてくる。
僕は黙って兄の言葉を聞いてた。
「同様に暴力も、嫌いになった。それが死に近い物だと思うとな。自分の大事な人にそれを向けられなくなったし、向けられるのが許せなくなった」
いまさらかよ、という突っ込みが飛び出そうになったが、僕はそれを飲み込む・
それよりももっと気になる事があったからだ。
「兄貴、この前のケンカの時に殴らなかったのは、それが理由なの?」
兄は何も答えず、その表情もまた見えなかった。
「馬鹿が、そんなくだらない出来事、さっさと忘れろ」
今の記憶……ずっと忘れていた。
そういえば、そんな事があったような気がする。でも、何時の出来事だったか詳細は思い出せない。
完全に、忘れていた記憶だ。
汚れた炎の力か、「記憶の片隅」だとか「忘れかけてた」とかそんな次元ではない、脳のなからから消滅したはずの思い出さえ鮮明に蘇りつつある。
「凄い、これなら、きっと」
僕は懸命に廊下を進む、そしてついに、屋上へとつながる階段を見つけ出した。
その階段の前には、また別の天使が立ちふさがっていた。
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