第7話
やっとまともに上れる階段を見つけ、二階に上ったたときには、再び強い幻覚が僕の世界を支配し始めていた。
奇妙な人影が廊下にひしめいている。
黒くもやもやとした人型の塊、そしてその曖昧なアウトラインとは対照的に、眼球の造型だけは妙に精密で強調気味だ。
影法師たちは、全員が全員その眼球で僕を見ていた。僕がどう動いても、まるで蟷螂の瞳の様に視線の群れは僕を追跡しつづけた。
その幻覚が表す物に、僕は簡単に思い当たれた。
「他者の視線」
あのイカれた兄の弟、そんな好奇の視線を僕は高等部校舎に入るたびに向けられていた。
大勢の上級生が、ただ舐めるような視線を送るだけ、絡んでくるような人間は一人も居ない。兄が怖いからだ、彼は意味不明な理由でキレ、無意味な暴力の嵐を巻き起こすからだ。
その視線がたまらなく辛かった、自尊心がガリガリと削り取られていく感覚が耐えられなかった。
「何も思わないのかよ、兄貴」
僕の問いかけに、ソファーの上でゲームに夢中になっていた兄はわずらわしそうな視線を一瞬だけ向けた。
「なんだよ、なに言ってんだお前は」
兄は随分とバツが悪そうだった。それもそのはずだ、兄はつい先ほど学校で大きな問題を起こし、それから逃げだしてここにいる。
「何も、思わないのかよ」
兄は学校の制服も脱がず、ヒビの入っためがねを掛けたまま、お気に入りのゲームで気を紛らわせていた。
くしゃくしゃになった制服のシャツが、兄の混乱と怒りと乱暴さを顕しているように思えた。
「俺に、何を、思えって?」
兄はゲームのコントローラを乱暴に投げ捨て、僕に食って掛かってきた。
「なんでそうやって……なんでも直ぐに人事になれるんだよ」
「は? なんだそりゃ?」
兄はへらへらと笑う。だが、そこにはいつものような余裕は無く、あからさまな皮肉と嘲笑に満ちた態度。今思えば、この時兄にも精神的な余裕はなかったのだろう。
「人に、迷惑をかけたんだぞ」
「知らねーよ、あいつらが悪いんだよ」
僕はため息を漏らし俯く。
もう全てが馬鹿らしかった、不快だった、いやでいやで堪らなかった。気が付くと、涙が零れ始めた。
「なに……泣いてんだよ」
理由は僕自身にもわからなかった。
ただただ惨めだった、全てが。
「あのさ、お前な――」兄がいつもの口調で語りだす。大仰で自信に満ちた口調で。「――そんな事を気にしてどうすんだよ。いいか? 大抵の悩みなんざ半年後には笑い話になってんだよ。俺たちガキの悩みなんざぁ、まともに抱えるだけ無駄なんだよ。さっさと忘れちまえ」
その説教は兄の一面をよく表していた。学校の同級生全員を、自分以外の他人をみんな馬鹿にして、自分勝手に生きる傲慢な人間。
だから兄は、僕と違って他人に苦しめられたりはしない。
僕がどんなに周囲の視線に苦しんでも、元凶の兄はケロリとしている。
ふざけるなよ
あれほど僕を追い詰めて。
あれだけ僕を苦しめて。
どうして……
どうしてお前が自殺するんだ。
僕に苦しみを無限に押し付けたお前に、自殺する理由なんてないだろ。
「じゃあ、母さんを追い詰めて殺したことも、笑い話なのか。それでもう忘れてるのか」
僕がそう返した瞬間、兄は逆上した。
目にも留まらぬ速さで僕に飛び掛り、強引に押し倒すと、そのまま馬乗りになり、殴ろうとした。
でも、兄は殴らなかった。
僕の上で、拳を振り上げた体勢のまま、固まっていた。
僕は近くに転がっていたゲームのコントローラーを手に取ると、それで兄の頭部を打った。
兄は獣のような悲鳴と共に転がった。解放された僕は直ぐに兄を上から押さえ込み、何度も何度も殴りつけた。
拳から血が噴出し、カーペットを汚した。
涙は止まらなかった。
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