3 昼休みの廊下は危険がいっぱい

 昼休みの廊下はとかく人が多い。ルキが左手の白いのを隠そうとサナギのすぐ後ろに立つので、天敵と呼んでも過言ではない幼馴染みと結果的に並んで歩く羽目に。

 もちろん廊下の幅を最大限利用して、目一杯距離は空けてある。サナギの理不尽な攻撃に備えてだが、ルキの刀の間合いに入らないようにという意味合いもあった。その刀さえなければ、サナギには防波堤として是が非でも俺の隣に立っていてほしかったんだが。


『嘘つけ。離れてるのは、このねーちゃんとの身長差を比べられたくねーからだろ』


 まあ、その可能性もないとは言い切れない。


『俺の目分量によると、かなりいい勝負と見たね』


 マジかよ? くっそーカルシウムだカルシウム。授業終わったら牛乳飲みまくってやる。


「追一、どうすんのよあんた」

「へ?」

「このまま一生取り憑かれっぱなしでいいわけ? 具合とか悪くないの?」


 悪い。悪いに決まってる。最悪の気分だ。


『おいおい人を悪霊みたく言うなよ』


 お前のどこが人なんだ。とにかく、ここは早急に手を打ってもらうしかあるまい。


「頼む、サナギ。おはらいしてくれ」

「どうしよっかなぁ」サナギは口の端を吊り上げて、「あんた昔からあたしの除霊話、全っ然本気にしてなかったよね。インチキだのイカサマだのいかがわしいだの」

「そう言わずにさ、お前しかいないんだよ。こういうの得意だろ」

「得意ってどういう意味よ。それにね、あたしは人助けのためにやってんだからね」

「俺は人じゃないってのかよ!」

『人でなしだ、お前もこいつも』

「ま、悪行の報いってやつね。暫くそうやって頭冷やしたら?」

「勘弁してくれよぉ」

「……ごめんなさいです、山田さん」


 久方振りにルキが口を開き、そして俺に頭を下げた。今にも消え入りそうなはかない声色。


「ルキが、この刀を離せないばっかりに……自分の手なのに」

「いいのいいの、ルキちゃんが謝ることないよ。あなた被害者なんだから」

「そっちもお前のお祓いでどうにかならんのか」


 サナギは大仰に天を仰いで嘆息した。


「無理よ。そもそも、ルキちゃんの刀は霊が憑依してるわけじゃないんだもの」


 そうなのか? 意外な事実だ。


「霊の仕業じゃないのか」

「寺島先生に頼まれてこの刀よぉーく見てみたけど、なんか妙なのよね。霊力はすっごい感じるんだけど、意思が宿ってる感じじゃないの」

「意思が、ない?」

「うん。意思を持たない、単なる霊力の塊。あんたに恨みがあるとかじゃなくて、自動追尾みたいな感じだと思う。そんなの祓ったことないし、祓い方も判らないよ」

「うーん」


 俺は歩きながら顎に手を当て、足許に眼を向けた。


「ちょっと追一、危ない!」


 切迫したサナギの声。視界の右隅から得体の知れない物体がぬっと躍り出る。それが長テーブルを教室の外に運び出す男子生徒の背中だと判ったときには、既に俺の体は接触を避けるための、横方向への移動を終えていた。


「あ、悪い」


 こっちの様子に気づいた生徒が、慌てて立ち止まり振り返る。


「おう、平気だ。俺じゃなかったらぶつかってたけどな」

「間一髪ね」


 一部始終を見ていたサナギが鼻から息を吐く。


「日頃から注意力は散漫なくせに、咄嗟とっさによけるときの身ごなしだけは達人クラスよね、あんたって」


 だが、サナギの軽口に応じるだけの暇は俺にはなかった。躱した拍子に思わず刀の間合いに踏み込んでいた俺の脇をえぐるように、ルキの左腕が……布で覆われた白刃が、空を裂きつつ水平に滑り出していたからだ。


「うわっ!」


 これは、無理だ。

 達人が故に判ることもある。こいつは、よけきれない……!

 俺は反射的にガードした両腕もろとも、およそ少女の腕から繰り出されたとは思えない凄まじい刀の勢いに、呆気なく吹き飛ばされた。


「追一!」


 無様に横滑りした俺の体は、廊下の壁に背中をしたたかに打ちつけてやっと止まった。


「ぐがッ!」


 ケガの功名と言うべきか、おかげでどうにか刀の届かない範囲に脱出できた。

 腕をさすりさすり上半身だけ起き上がる。どっちの腕も骨の髄までしびれている。衝撃を和らげるために自分から同じ方向に飛び込んでいなかったら、何よりあの刀に厚手の布が巻いてなかったら……今頃になって、背筋がゾクリとあわ立った。油断も隙もあったもんじゃないな、こりゃ。


「ごめんなさい、ごめんなさいですぅ……」


 一方のルキはというと、もはや左手のそれを隠す気力もないらしく、何事かと眼を向ける数人の生徒たちの前で、膝を突いてシクシク泣き出してしまった。


「あちゃー……ちょっとこれ、思った以上に深刻ね」


 俺とルキを交互に見比べ、どうしたものかといったていでサナギが呟いた。


「聞きしに勝る剣術だわ。剣道歴ゼロのルキちゃんが、有段者どころか剣豪クラスの腕前になっちゃうなんてね。ちょっとあたしの手には負えないかも」


 そんな殺生な。


「放課後やってみるわ、あんたの除霊」

『この女まで俺を背後霊扱いかよ。神様候補だぞ俺は。失敬な』


 お前は喋るな。やっとその気になってくれたんだ。


「ありがたい。助かるぜ」

「それにしても追一、あんた、とことんその刀に嫌われてるのね。相当ひどいことしたんじゃないの? あんたが忘れてるだけで」

「日本刀いじめなんて誰がするかよ」


 何はともあれ、次に俺たちが為すべきことは、いよいよ数を増していく野次馬連中を追い散らして、可憐な剣士を保健室まで無事に送り届けることだった。

 ベッド空いてたら、少し横になろうかな。背中も痛むし。


『たまには勉強しろよ。学生の本分は勉学に励むことだろーが』


 何様だよ。いくら座学を重ねたところで、この痛みは収まらないぞ。


『何を大袈裟な。いくら俺が痛覚を共有してないからって、針小棒大はよろしくねーぞ』


 クソッ、ほんと腹立つわこいつ。


「なあサナギ、一生のお願いだ。こいつおっぱらってくれ。今までの態度は謝るから」

「な、何よ急に。気持ち悪い」

「金なら出す。三千円までなら」

「うるさいね。いいから行くよ……さっ、行こっルキちゃん。もう大丈夫だからね」


 なおもしゃくり上げるルキを促し、サナギが瞬時に声音を変える。電話に出たときだけ驚異の早替わりを見せる、実家の母親のよそ行きボイスを思い出した。


「は……はいです」

『三千円で俺を売る気か。随分安く見られたもんだな』


 大奮発だっつーの。


『実家に戻ったらおふくろに小遣い貰っとけよ』


 ったく、いい加減にしろ。

 先を行く二人に続き、気を取り直して保健室へ向かう。やれやれだ。今日は厄日だ。来るんじゃなかった。先が思いやられる。夏休み終了のショックを遥かに凌駕りょうがする不幸の連続に、俺の心は否応いやおうなしに底知れぬ深淵へと落ち込んでいった。


『心配すんなって。思ってるほど深くねーから。お前の器なんざ底が知れてら』


 深淵へ落ちることもままならず、俺は耳を塞いで叫び出したい衝動に駆られた。それを行動に移せないのが、俺の理知的というか小心者の所以ゆえんなのだろうけど。

 窓の外に立つ、メトロノーム型の時計台をふと見上げてみる。

 休み明け初日の昼休みは、まだその半分ほどしか経過していなかった。

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