第4話 フィーが目を覚ました時の話
フィーを家に連れて帰ったポポは、薪をくべ火を起こし、小さな暖炉に火をつけた。
それから、どろどろに汚れきったフィーを着替えさせるために服を脱がしたポポは、フィーの体を見て驚いた。なぜなら、フィーの体は普通に暮らしているだけでは決してつくことのないような傷跡がたくさんついていたからだ。鞭で打たれたような傷、何かで刺されたような傷、切られたような傷――それらが合わさって重なり合い、まるで模様のようになっていた。小さな足の裏にはいくつもの血豆とそれが潰れたような跡があり、ガラスや小石で切ったような跡もたくさんあった。爪は割れてそこに砂利が入り込み、化膿して炎症を起こしていた。掌だって同じようなものだった。その両方が凍傷をして真っ黒に染まり、殆ど血の通っていない蝋人形のようになっていた。
ポポはフィーの体を綺麗に拭いてさっぱりとした衣を着せ、暖かい毛布に包んでベッドの上に寝かせた。両手足には薬を塗り、包帯を巻いて、更に蒸したタオルを巻いて少しでも血が通うよう努力をした。
長い間どこまで続くのかわからない道を歩き、雪の山で埋もれたフィーの体力は極限状態まですり減っていた。
ポポの家につき一晩明けた日の朝に、栄養の不足し疲労ばかりが溜まったフィーが高熱を出したのは仕方のないことだったのかもしれない。
ポポは、流れ出るフィーの汗を拭い両手足に薬を塗って包帯を代え、死にもの狂いで小さな体を温めた。看病をするその姿は、神に祈るその動作によく似ていた。
熱だけでなく、時にフィーは悲鳴のような声を上げ、あまりの苦しさに嗚咽を零し、涙さえ流した。
小さな手足に巻かれた包帯を解き薬を塗り暖炉に薪をくべている時、ポポは何度も、もう駄目なのではないかと思った。目の前にある傷だらけの小さな体は、悪魔的ともいえるような巨大な苦痛に耐えきれずにこのまま天に召されてしまうのではないかと何度も思った。けれどそれとは対照的に、「この子は必死に生きようとしている」という意識も存在していた。その思いは、小さな唇が苦痛で歪み、真っ黒であった手足の指に徐々に赤みがさしていく中で、どんどん大きくなっていった。
ポポの献身的な看病とフィーの驚異的な生命力で、フィーの体は少しずつ少しずつ良い方向に進んでいった。
四日目の朝、悪魔に取りつかれているようであったフィーの呻きと悲鳴は止まった。
五日目の朝涙は止まり、悲鳴の代わりに安らかともいえる寝息をするようになった。
六日目の朝には熱が下がり、白い頬にもほんのりとした薄紅が差し込んでいた。
フィーが目を覚ましたのは、ポポの家に来て七日目の朝だった。
悪夢から帰還をしたフィーがまず最初に耳にしたのは、ぴちりぴちりという小さな鳥の囀りだった。それからさんさんと降り注ぐ太陽。あれほど天から降り積もっていたたくさんの雪は、いつの間にか暖かい光に代わっていたのだ。
フィーは自分が知らない家に寝かされていることと、いつの間にか自分の服が着替えさせられていること、そして両手足の治療がされていることに驚いた。自分は先ほど、あの悪夢ともいえるかのような夢から覚めたはずなのに――夢のまた夢、自分はまだ夢の中にいるのだろうかと、ベッドの上に座り込んだまま自分で自分に問いかける。
それから、包帯がぐるぐるに巻かれた両手を叩き合わせて骨の髄まで振動が響きわたったことでこれが現実であると確信をした。
きょろきょろと注意深く部屋一帯を見渡して、フィーはゆっくりとベッドから降りた。
その部屋は対して広いものではなかったけれど、決して狭いものではなかった。古ぼけた木机と小さな箪笥、何年使っているのかわからないような傷だらけの本棚の中には、絵本や図鑑、かと思えば文字や数字ばかりが書かれた難しい本や色々なものが並んでいた。フィーはそのうちの一冊を抜き取り、すぐに戻した。難しい異国の文字ばかりで、全く読めなかったからだ。最もそれ以前に、フィーは殆ど文字を読むことも書くこともできなかったわけなのだけれど。
それから意味もなく机の引き出しを開けて、ふらふらと窓際に近寄ってぴかぴかと光る雪景色に感嘆した。はぁ、と息を吐きかけると、窓ガラスの表面に薄ら白い靄が付いた。それを拭うようにして手を触れると、包帯で覆われた指先にひんやりとした温度がつたわって、ぶるりと体を震わせた。傷だらけで血まみれで、寒さで真っ黒になっていたはずの指先が綺麗になっているということに気が付いたのはその時だった。
そういえば、外はあんなにも寒かったのにこの部屋はとても暖かい。どうしてだろうと思っていると、後ろからかちゃり、という扉を開ける音が聞こえて、フィーは体を強張らせた。
そこにいたのは、優しげな風貌をした小柄な老人だった。
年齢でいうと七十代前後という所か。真白い髪と真っ白い髭、皺だらけの肌もやけに白くて、そのくせ目だけがやけに黒い。背は小さいけれどその分骨が太いらしく、顔を支える首も水の入った洗面器を持つ指さえも関節の節々がしっかりとしていた。
明るいブラウンのセーターを着込んだその人は、ベッドの脇にあるサイドデスクに水の揺れる洗面器を置くと、まるで太陽のような優しい笑みをフィーに向けた。
「おお、熱は下がったのか坊よ。もう体調は大丈夫か?」
老人の口から飛び出た言葉に、フィーは赤い瞳をきょとんとさせた。なにせ、老人の言葉はフィーが今まで聞いたことのないくらいに訛りがとてもひどかったのだ。
老人は、飛び跳ねたバッタのようにして背中をぴったりと壁に張り付かせているフィーの元に近寄ると、その灰色の髪を撫で上げて、筋張った掌で小さな額を軽く覆った。
「ああ、もう大丈夫そうだな。熱も下がってる。手足の凍傷もでえぶ良くなっているな」
老人はそういって包帯塗れの手を取って、癒すようにして両手の間で撫で上げた。
フィーは驚き半分警戒心半分の状態で、自分の両手を手に取る老人のことを眺めていた。 老人は、フィーの回復状態に満足をしたのかニコニコという笑みを浮かべ、手に取っていた両手をゆっくり下した。
「坊、腹は減っていねぇか?」
あまりに強く訛りの入った老人の問いかけに、思わず首を傾げる、フィー。
「腹は減っていねえか? と聞いたんだ。もう、何日も食べでいなかっぺから、ぺこぺこだろう」
腹に手を当て、「お腹が空いていること」をジェスチャーで現す老人。フィーは壁に背中をべったりとくっつけたまま少しだけ考えて、自分でも腹に両手を置いた。瞬間、ぐぅ、という内臓がこじれるような音がまるで獣のようにして響き渡った。
フィーはそれがとても恥ずかしくて情けなくて堪らなくて、両手で腹を抑えたままむっつりと下を向き奥歯を噛んだ。
老人は、かはははは、という竹の割れるかのような軽快な笑いをすると、
「それだけ元気に腹が鳴ればもう大丈夫だな。こっちにこい。なにか栄養のある、うめえものを食べさせてやろう」
そういってくいくい、と手招きをする老人に、フィーは両手で腹を抑えたままじっ、と訝しげな視線を向けた。
フィーはとてもとても警戒心の強い、それでいてとても注意深い子供だった。
フィーの周りにいる大人たちは、いい顔や優しい顔をしていてもいつだってフィーやその周りの子供たちに対して辛い仕打ちをしてきたし、一度たりとも優しくしてくれたことなどなかったからだ。甘いお菓子をやると言われて海の外に売られていった子供もいるし、幸せな暮らしを約束させられ里子に出された仲間だって煙突掃除夫としてこき使われて、過労死をした子供もいた。
まだ幼いフィーにとって、大人は「大人であるだけ」ですでにもう敵であり「警戒をする」対象だった。
人の良さそうな老人は、じっ、と自身を睨み続ける赤い瞳に、何を感じ取ったのだろう。
諭すような笑みを浮かべると、少しだけフィーとの距離を縮めて、再び灰色の頭を撫でた。
「こらこら、そんな顔をするもんじゃねえ」
老人の訛りはとてもひどくて正直何をいっているのかフィーにはあまりよく聞き取ることができなかったが、それでも老人の声はとても優しく暖かかった。
「こっちにおいで。シチューを温めてあげよう」
老人はそういって、フィーの髪から手を離した。老人の姿が遠くなり、扉の向こうにぱたりと消えた。
フィーは背中を壁にぺったり張り付かせたまま、撫でられた額に手をやった。触れられた場所から不自然に熱が籠り、そこから全身に回っていった。 フィーは暫くの間その状態でじっ、と固まっていたのだけれど、この気丈な少年も、残念ながら空腹という名の悪魔に勝つことはできなかった。
ぐるるるるる、と腹の中に住む猛獣が唸り声をたてたことを合図にして、フィーはゆっくりと動き出した。扉の横に並ぶようにして置かれている箪笥の上に黒いウサギのぬいぐるみが置かれていると気が付いたのは、ドアノブに手を掛けたときだった。フィーはそれを手に取り、長い耳を弄ぶようにして揺らしてから、ゆっくり戻した。
ポポの跡を追うようにして扉を開けると、そこにあったのはリビングだった。リビング、というほど広さがあるとは思えない。ただ、長方形のテーブルが一つと木でできた椅子が四つ。お皿やグラスがたくさん納められた食器棚と、干し葡萄やクルミが納められた食糧棚があった。テーブルの向こうにあるガス台の上では黄色い鍋がコトコトという煮えるような音を立てていた。野菜同士が煮えるような、なんとも言えない美味しそうな甘いにおいがしている。
きょろきょろと辺りを見回すが、優しげな老人の姿はどこにもない。どうしようもない不安を覚えたフィーは、意味もなくあっちへ行きこっちへ行き狭い部屋を移動して観察をした。
火の上でコトコトを音を立てる「何か」に興味を抱き、そっ、と手を伸ばしてみるのだが、あと数センチで鍋の縁に手が届くという瞬間に小さなフィーの体は「こら」という諫めるような声と共にひょい、と軽く抱き上げられた。
「何をしているんだ、この悪戯小僧。危ねえだろう」
ポポはフィーを片手で抱えたまま、火を弱くしてコトコト揺れる蓋を取った。鍋の中では、おいしそうなクリーム色のシチューがほかほかと煮えていた。ポポは横に置いてあった銀色のお玉でくるくるとシチューをかき回すと、腕の中でかちこちに固まっているフィーに語りかけた。
「ほら、うまそうによく煮えているだろう」
「……」
「腹が減りすぎて我慢できながったのか? 全く、仕方のねえガキだ」
フィーはなにも言わなかった。いや、正確には何も言うことができなかったのだ。なにせフィーは、今まで一度たりとも――頭や腕を掴まれて、引きずられたことは何度もあるが――このように抱きかかえられたことはなかったのだ。
ポポは、ばたばた暴れて逃げ出すこともできずただただ呆然と赤い瞳を白黒させるフィーを抱えたまま椅子を引いて、その上にそっと座らせた。
どうしてこのようなことになっているのか全く状況が分かっていないフィーは、ただただされるがままにじっとしていた。
ポポは、灰色の頭をしたこの子供が大人しくしていることを確認すると、食器棚から二枚のお皿を取り出した。そこに、鍋の中で音を立てていたシチューをよそり、銀のスプーンと共にフォーの前に差し出した。そしてパン。
「ほら、食え。腹が減っているんだろう」
フィーは目の前に突如出されたごちそうに驚いた。なにせフィーが今まで食べてきたものと言えば、かさかさのパンや殆ど削りかすのような野菜の切れ端ばかりが入った、水ばかりのスープなのだ。それさえも食べられることが珍しい、むしろ食べられないことの方が多かったのに。
それがどうだ。今目の前にあるものと言えば、大きく切られた野菜がごろごろ浮かぶ、とろりとしたクリーム色のシチュー。フィーの両手拳を合わせたくらいの大きさがあるパンはぴかぴかてかてかとしていて、まるで宝石のようにも見えた。
パンとシチューなんてもの、ポポにとっては有り合わせの材料で作った粗食以外の何者でもなかったのだけれど、フィーにとっては夢の中でしか見たことがない、とんでもないごちそうだった。
フィーは戸惑った。フィーはとてもお腹が空いていて、今目の前にあるものはとてもとてもおいしそうで、食べたくて食べたくてたまらないのに、これを食べでもいいのだろうか。これを食べたことで、怒られたり叩かれたり、それ以上のひどい目にあったりしないだろうか。
赤い瞳の中に期待と不安と抱き、目の前にあるごちそうと皺だらけの老人の顔を見比べた。
ポポは、灰色の子供が両足を揃えて拳を握り、じっ、と何かに耐えていることを察すると、皿の縁を持ちフィーの手元に近づけた。
「ほれ、食え」
「……」
「毒なんか入ってねえから。沢山食え、うめえぞ」
優しげな老人の言葉。フィーは皺ばかりが寄った老人の顔と目の前のテーブルを何度も何度も見比べて、恐る恐るスプーンを手に取った。銀のスプーンは小さなフィーの手にはまだまだとても大きくて、「持っている」というよりも「スプーンがぶら下がっている」ようだった。
シチューの中身を観察するかのようにしてかき混ぜて、確認をするようにして口に持って行った。
ほかほかのシチューは、口に含んだ瞬間とんでもない高さの熱を放った。
スプーンごとシチューを頬張ったフィーが、赤い目を見開いてびくんと体を痙攣させた瞬間に、ポポは大急ぎで水と凍りを持ってきた。
「お前にはちっと熱すぎたかもしんねえなぁ。よぐ覚まさねえと危ねえぞ」 フィーは真っ赤になってしまった舌を冷やし、氷を舐めて、それからスプーンを手に取った。
今度はスプーンに取ったら取った分、息を吹きかけキチンを覚ます。湯気が少なくなったことを確認して、恐る恐る口の中に運んで行った。
わかりやすい変化だとポポは思った。
それまでずっと緊張をした面持ちを保っていた子供の顔に赤みがさし、不安と警戒できつく吊り上っていた眉尻がだるんと下がったのだ。
シチューの虜になったフィーは息をつく間もなく食べ進めて、あっという間に皿を空にした。それこそ、皿の底を舐めつくしそうな勢いだった。最後の一滴まですべて啜り食べきったと気が付いたとき、フィーはあからさまに落胆をした表情を作った。
未練垂らしそうにスプーンをしゃぶるフィーに苦笑をすると、ポポは空になった皿の中に、新しくシチューを注ぎいれた。それをフィーの正面に差し出すと、落胆をした瞳に一気に喜びの色が宿った。それでもすぐに手を出さないのは、子供の警戒心の高さのせいなのだろう。
じっ、とスプーンを咥えたままポポとシチューを見つめる子供。
「おかわりは沢山あるから大丈夫だ。たくさん食え」
ポポがそうやって促したことで、フィーは漸くスプーンを舐めることをやめた。舐め続けられてぴかぴかになってしまったスプーンは黄色のシチューの中に沈み、人参やジャガイモを拾い上げて、忙しなくフィーの口に運んで行った。
「ま、色々あるだろうけどな」
ポポはどっこいしょ、とフィーの前に座り込んだ。
「お前、一体どうしてこんなところさ来たんだ? こんな大きな傷ばかり作って。どこから来たんだ?」
語りかけるかのようなポポの問いかけ。フィーは口へ運ぶスプーンをほんの数秒空中で止め、それからまた動き始めた。
言うことなど何もないというような子供の動作に、ポポはひょいと頬杖を突いた。
「ま、言いたくねえなら言わなくてもいい。いる場所がねえのなら、いつまでだってここにいてもいいんだからな」
ポポはそういって、すでに空になってしまったシチューの皿を手に取った。まだまだたっぷりと残っている鍋の中から、溢れるくらいに注ぎ込み、再びフィーに差し出した。
「坊、名前はなんていうんだ?」
味を噛みしめるようにしてスプーンを口に突っ込んでいたフィーは、目の前にいる老人と差し出されたシチューの皿を見比べていくらか迷うような動作を取った。
それから言った。
「フィー」
「フィー?」
おうむ返しの確認に、フィーはこくんと頷いた。
「俺の名前は、“
淡々とした子供の言葉に、ポポはすべてを悟りそれから言葉を失った。
灰色の髪と赤い瞳を持った出来損ないの子供は、ただただ一生懸命にシチューを頬張っている。
ポポは、じっと目の前の子供を眺めつづけた。それこそ、たっぷり入っていたはずのシチューの中身がなくなって、小さな子供が未練垂らしくまたしてもスプーンを舐めだすその時まで。
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