十三.朱に交われば赤くなる
麟ノ国十瑞将軍グンヘイの屋敷は、こぢんまりとした静かな里には不似合いな、豪華な屋敷の造りをしている。
王族の住まう宮殿に見劣るとはいえ、そこは大層立派なもので、外壁の石は均等な物で積まれ、それには蓮の花や麒麟の彫刻が彫られていた。屋根には石の像が、建物を支える柱は美しい朱色をしており、常に塗り替えられているのか、一切色褪せておらず、艶やかであった。
細かい花の装飾を施された
そんな将軍グンヘイの屋敷は、慌ただしい空気に満ち溢れていた。兵も従者も侍女も、息をつく間もなく走り回っている。
それもそのはず。屋敷に青州の地を治めている麟ノ国第二王子セイウと、そのお供らが屋敷に到着したのだから。
「我が君、麟ノ国第二王子セイウさま。よくいらっしゃいました。こちらです」
恭しく頭を下げる将軍グンヘイの案内の下、平伏する兵や従者、侍女らの列の真ん中をセイウ王子らは歩く。
美しい顔立ちをしたセイウの傍には、忠誠を誓う近衛兵達、その中に麒麟の使いと呼ばれる子どもの姿が見受けられた。子どもは近衛兵チャオヤンの腕の中で、静かに寝息を立てている。
先導するグンヘイは背後を一瞥した。
きめ細かな絹の衣を纏うセイウとは対照的に、粗い目の麻衣を纏った麒麟の使いは、王子の所有物とは思えないほど薄汚れている。
今なら盗めるやもしれない。良い口実を見つけたグンヘイは足を止めて、深くセイウに頭を下げた。
「セイウさま。懐剣の子どもは、我が兵が責を持ってお預かりしましょう。貴殿の大切な兵の御手を汚させるわけにはいきません」
間髪容れずにセイウは返事した。
「将軍グンヘイ。その心遣いには感謝いたします。しかし、貴殿といえど、リーミンを預けるにはいきません。これは国に一つしかない麒麟の懐剣。私は片時も手放したくないのです」
グンヘイが薄汚れていることを指摘すると、すぐに湯殿へ入らせるとのこと。それすらも、セイウは己の兵に任せるというのだから、心中で舌を鳴らしたくなった。
噂通り、セイウは懐剣の子どもに執着している。
一筋縄ではいかないようだ。まったく、厚意に安い感謝を示すくらいなら、さっさと預けてくれたら良いものを。盗む手より、奪い取る手を考えた方が良いやもしれない。
物騒なことを思っていると、それまで深い眠りに就いていた子どもが、弾かれたように目を覚ます。
「リーミンっ!」
チャオヤンの腕から飛び出した子どもは、彼の制止を振り切って懐剣を引き抜くと、迷わずグンヘイに刃を向けた。文字通り、子どもはグンヘイを斬り捨てる勢いであった。
「お待ちなさい。リーミン」
一切の身動きが取れないグンヘイの代わりに、セイウが一声掛ける。その声には興奮と愉しさが宿っていた。
グンヘイの鼻先で懐剣を寸止めした子どもは、少々戸惑ったようにセイウを見上げる。
「リーミン、懐剣を鞘に収めなさい。それは斬ってはなりません」
「斬ってはいけない?」
それはどうして? 子どもは目で訴える。
「お前が賜ったお役について理解はしていますが、いまグンヘイを斬れば、大層なことになります。グンヘイは
すると。あれほど、獰猛な構えをしていた子どもが、素直に懐剣を収めた。
息を吹き返すように、冷たい目に光が宿ると、子どもは緊張の糸が切れたように小さな欠伸を零し始める、それはどこか人間らしい姿であった。
(なんだ、こいつは)
未だに動けないグンヘイは、目の前の子どもを観察する他ない。
懐剣を抜いた時の子どもは、まこと人間に似つかわない姿をしていた。眠っていたにも関わらず、まるで鉄砲玉のような速さでグンヘイの懐に潜り込んでくる、その姿は正直、人間とは思えないもの。
(腕っぷしのある兵士でも、あれほど素早くは動けまい。このガキは化け物か)
忘れかけていた呼吸を取り戻すと、セイウが上機嫌に口角を持ち上げる。
「申し訳ありません、将軍グンヘイ。リーミンは、
だから。お気をつけなさい。お前の肚の底に潜んでいる目論見はすべて、麒麟の使いの前では通用しない――セイウは笑みを深める。グンヘイの悪意に満ちあふれた心は筒抜けとなっていた。
普段であれば、上手く言い回しを考えて、肚の底に潜めている目論見を否定するのだが、それすら考えられずにいる。それほど麒麟の使いは脅威であった。
(主に向けられる、悪意や敵意を見透かす目。心を読むも同じだ)
麒麟の力を授かった子どもに、大きな畏怖の念を抱く。
なるほど、だからセイウをひっくるめた王族が血眼になって探しているのか。
確かに、麒麟の使いがひとりいるだけで戦は勿論、陰から命を脅かす暗殺者がいても、まったく怖くない。腕のある兵や名のある用心棒よりも、心強い存在と言える。
(私が欲しいくらいだ。クンル王に献上するのも、惜しい気がしてきたな)
固唾を呑んでいると、子どもと目が合う。その瞳はどこまでも澄み切っていた。反面、濁りない目はどこまでも見通すことができそうであった。恐ろしい目であった。
(これは慎重に動かなければ)
先導に戻ったグンヘイは、脂のたまった腹に力をこめ、鼻の穴を大きく膨らませた。これしきのことで動じるグンヘイではない。必ずや盗んでみせる。
(俺。何してたんだっけ)
一方、目を覚ましたユンジェはセイウの隣を歩きながら、重たい体を引きずるように歩いていた。
目覚めた前後の記憶はなく、気づいたら憎き第二王子の隣を歩いていた状況なので、何が何だか分からずにいる。
はてさて。自分はどうしてしまったのか。
ぐるりと周囲を見渡すと、回廊で平伏している兵や従僕、侍女が目に映る。
ユンジェは思わず顔を顰めた。なんて居心地の悪い、異様な光景だろう。
(歩くだけで、他人に頭を下げられ続けるなんて……王族はこんな光景を見て楽しいのか?)
生まれてこの方、農民として生きてきたユンジェには、さっぱり良さが分からない光景だ。額を地につけて、いつまでも平伏している人間らに、頭を上げていいよ、と言いたいもの。
そんなことより。
ユンジェは目を横に動かす。うつくしい男が優美に歩いていた。
ティエンよりも男性的で、しかしながら美しい容姿を持つ男。ティエンの腹違いの兄に当たる、麟ノ国第二王子セイウ。ユンジェが最も会いたくなかった男だ。
(……覚悟はしてたけど、やっぱり受け入れたくないな。セイウの下にいるなんて。
ティエンの懐剣でいたいのに。こいつが近くにいるだけで名前を奪われるから)
名前。ユンジェは小さく首を傾げる。
(俺の本当の名前……なんだっけ)
思い出せない。ど忘れするほど、浅い付き合いの名前ではないのに。
あれ、本当の名前はなんだっけ。ユンジェは衣の袖を握り締める、ほんとうに思い出せない。
(また、名前を奪われているのか。セイウに)
だとしたら、このまま傍にいるのは、とてもまずい。
ユンジェの身柄は石造りの客間に移された。
そこも回廊同様に贅沢が散りばめられ、色とりどりの花や大きな壷、飾り幕が一室を華やかにしている。
開放されている窓辺の寝台の傍には、金色の敷物が広げられ、いつでも王族の者が休めるよう腰掛の準備が整えられていた。まさしく王族のための寝室であった。ユンジェが懐剣でなければ、生涯を懸けても入ることができなかった部屋であろう。
しかし。
ユンジェは客間に足を踏み入れるや、石床の濡れた感触に眉を寄せた。目を落とせば、大きな大きな水溜りができているではないか。右に視線を流せば、小壷がひとつ倒れている。あれに中身が入っていたようだ。
けれど、なぜ。従者が失態を犯したとしても、これはあまりに不自然。
小壷の底は平らで安定している。ゆえに簡単には倒れないだろうし、倒したところで、すぐに気付くはずだ。王族が泊まる部屋ならば、なおさら、すぐに片すだろうに。
ユンジェは身を屈め、指で水溜りに触れる。妙にぬるっとしていた。水ではないようだ。
「ん?」
セイウも気づいたのだろう。
長い絹衣の裾が水溜りに浸っている。すでに血で汚れている衣だ。今さら、水溜りに浸ったところで支障はないだろう。裾が浸っている?
親指と人差し指をこすり合わせていたユンジェは、弾かれたように開放されている窓へと走った。先導するグンヘイを飛び越えると、急いで窓を閉めて、側らの飾り幕を引き剥がした。
「水溜まりから離れろっ!」
怒声を張り、ユンジェは擦り硝子を突き破ってくる小石に目を眇めた。
寸時の間もなく、火矢が飛び込んでくる。燃え盛る
素早く飾り幕を広げて、それで薙ぐ。標的を見失った火矢は飾り幕に突き刺さった。
「なっ、なんだ。どうしたんだ」
背後から間の抜けたうろたえる声が聞こえてくる。グンヘイだろう。
振り返れば、状況に混乱し、右往左往している。何をしているのだ、この男。そんなことをしている暇があるのなら、王族を守るためによく考えたらどうだ。
「リーミン。懐剣を抜きなさい。今度は遠慮など不要、王族に逆らえばどうなるか、身をもって思い知らせなさい」
ひとつの命令がユンジェを突き動かした。
懐剣の許可が下りたのであれば、ユンジェはそれを引き抜くまで。迷わず懐剣を抜くと、王族に向けられた悪意を辿って窓の外へと身を投じた。
窓辺から少し離れた
ユンジェは軽い身のこなしで木に登ると、弓を構える輩の前に立ちふさがる。
それは従者の格好をした、若い男であった。逞しい体つきをしているので従者の格好がどうにも似合わない。怪我を負っているのか、首や腕には包帯が巻かれていた。
「くそっ。見つかったか、まだ売られるガキどもを助けてねえのに」
「売られる、ガキ」
弓を構えてくる男の一言が、リーミンとなっていたユンジェの自我を少しだけ取り戻させる。
脳裏に過ぎるのは、みなしごとなった子ども達。サンチェやジェチ、リョンらの顔。
隙を突かれ、顔の真横を矢が通り過ぎる。けれど恐怖心は芽生えず、ただただ男を見つめた。
そして。睨みを飛ばしてくる男に、そっと人差し指を立てる。
訝しげに眉を寄せる男を余所に、ユンジェは
主君の命令に背いた、その現実が重くのしかかってくるが、それでもユンジェはあの男を見逃すべきだと思った。輩のことなんぞ一抹も知らないが、売られる子どもらを探しているのならば……ユンジェがユンジェである、今なら見逃せる。
無礼者を探す振りをして、中庭まで颯爽と駆け抜ける。このままセイウの下から逃げ出せたら、淡い夢を見るも、急に足に力が抜け、その場で崩れてしまった。
(くそ。なんで足が動かなくなるんだよ)
主君に逆らうような行為をしたから? 逃げ出そうとしたから? ユンジェには分からない。
早々に逃げ出すことを諦め、ユンジェは腹に巻いていた荷物を解くと、体を引きずって、それを近くのツツジの茂みに隠した。このまま自分が持っていても、いずれ没収されてしまう。それだけは避けたかった。
「リーミン」
近衛兵のチャオヤンが複数の兵を連れて追ってくる。彼はツツジの茂みの前に座り込むユンジェに、輩について問うた。
「追いついたんだけど、急に足が鉛のように重くなって……賊は塀の向こうに行ったみたいなんだけど」
どうしても足が重たい。走れない。そのせいで輩を逃がしてしまった。どうしよう。
チャオヤンに救いを求めると、彼はひとつ頷いた後、兵士らに辺りを探すよう指示して、ユンジェの身をおぶった。
「麒麟の使いとはいえ、お前は生身の人間。それも未熟な子どもの体だ。一日に何度も、お役を果そうとすれば、麒麟の与える力に耐えられず、体が参ってしまうのだろう。セイウさまにもお伝えしておかなければ。リーミンはあくまで護身剣であることも、釘を刺しておかなければな」
「それはどういう意味?」
逞しい背中に揺られ、揺られながら、ユンジェはチャオヤンに尋ねる。彼は分からないのか、と少しだけ呆れたように眉を下げた。
「リーミン。お前は護身剣。主君の身を守るために存在する。それゆえ、輩を滅するための剣ではない」
「相手を滅すれば、守ることに繋がると思うんだけど」
できることなら、セイウのことは守りたくないけど。喉元まで出掛かった言葉を、どうにか呑み込む。
「一口に剣といっても、おのおの作られた役割がある。たとえば自分の直刀は刃が長く、相手の武器を受け止め、身を斬るのに適している。対照的に懐剣は刃が短く、相手の首を討ち取ることは難しい」
その分、直刀より小さく、小回りが利くので懐に忍ばせておくことが可能だ。いざ襲われても、それで身を守ることができる。
「リーミン、己のお役を肝に命じなさい。お前はセイウさまの身を守るために存在する。誰かを滅するための剣ではない。懐剣として選ばれている以上、自分は決してお前を逃がしはしない。決してな」
振り返るチャオヤンと目が合う。
鋭い眼光を向けてくる彼は、ユンジェの心を見通していた。厄介な相手になりそうだと心の底から思った。
◆◆
客間の入り口に溜まっていた液体は水、ではなく椿油であった。輩は王族が無防備に入ってきたところで火矢を放ち、油に火を点けるつもりだったに違いない。
綿密に計画されていたのだろう。
王族の絹衣の裾が油に浸るよう油の量は多め、客間の窓を開けておき、いつでも火矢を放てるよう、
おおよそ輩はグンヘイの屋敷に奉仕している者だと考えられる。屋敷の構造をよく知る者でなければ、この犯行はしごく難しい。
一端の小僧であるユンジェがそう思うくらいなのだから、当然大人のセイウらも同じことを考えている。
「此度の件は、お前が目論んだことではないのか。麒麟の使い」
なのに、そうではないと異論を唱える者がいた。将軍グンヘイだ。なんとこの男。セイウの下へ戻ったユンジェにあらぬ疑いを掛けてきたのである。
主の下へ戻る間にチャオヤンから半ば強引に湯浴みをさせられ、従者どもに体を磨かれるという、死ぬほど恥ずかしい思いをしたのだが、それはさておき。
将軍グンヘイはユンジェに疑心を向けていた。
曰く、真っ先に異変に気づき、まるでセイウが襲われることを予期していたかのように、いち早く走ったことに違和感があるとのこと。
目論見があったのでは、主君の命を狙ったのでは、なんぞとんだ言い掛かりをつけられたので、ユンジェは呆れを通り越して感心する。
そんなことできたら、とっくにセイウの下から逃げている。
「確かに貴様はセイウさまの懐剣。しかし、
たいへん不自然なこじつけに聞こえるのは、ユンジェの理解力に問題があるせいだろうか。ついつい首を捻ってしまう。
将軍グンヘイは一件を第三王子の差し金だと主張したいようだが、なんというか、強引な言い分にしか聞こえない。
この男は第三王子がユンジェに命じて、第二王子の暗殺に一役買わせた、と結び付けたいのだろうが、やっぱり無理がある。
ユンジェがセイウを守った時点で、すでに暗殺は失敗に終わっているのだから。
「この屋敷に初めて来たから、俺がセイウさまを暗殺するのは難しいと思うよ」
当たり障りのない反論をしてみるが、「下調べをしていたに違いない」と、つよい口調で決めつけられた。隙あらばひっ捕らえる気満々である。
(グンヘイは俺を敵視しているのか? やたら突っかかってくるな)
あらぬ容疑をかけられているユンジェは、熱弁するグンヘイの主張を他人事のように話を聞いていた。
下手をすれば、牢に放られる事態なのだが、的外れな言い掛かりのおかげさまで、まったく危機感を抱かずに済んでいる。
尤も、牢に放られた方が気持ちとしては楽ではあるが。
(俺が農民のガキだから、強引に主張が通せるとでも思ってるのか? だとしても、まずセイウを納得させないと、主張も無意味だと思うんだけど)
グンヘイの傍では、ユンジェの髪を結い終わった侍女らが、頭に
二人がかりで鏡越しにユンジェの姿に目を配り、うつくしくなったことを確認していた。また贅沢な格好をさせられてしまった。股が分かれていない絹衣は動きにくくて仕方がない。
「磨き終えたのならば、リーミンをこちらへ連れて来なさい」
一声によって侍女らが深々と頭を下げた。
彼女らは命じられた通り、磨き終えたユンジェをセイウの下へ連れて行くと、敷物の上で片膝を立てる王族の前で膝を折らせた。
「やっと、うつくしくなりましたね。やはり、私の懐剣はこうでなければ」
平伏するユンジェの頭を上げさせ、セイウは己の髪を人差し指に絡めた。
貧相な顔立ちは相変わらずだ、なんぞと落胆されたことについては、ほっとけ、と悪態をついてやりたい。ユンジェは舌打ちを鳴らしたくなった。
「セイウさま。まだ麒麟の使いの容疑が晴れておりませぬ。お傍に置くのは、たいへん危険でございます。いま一度、わたくしめにその子どもを預けては頂けないでしょうか?」
敷物の向こうで片膝をつく将軍グンヘイを一瞥するも、セイウの興味は懐剣に注がれている。
ユンジェの手を取り、爪を確認するや、「磨き足りませんよ」と、言って侍女を呼びつけた。
それが終わると、セイウはようやっとグンヘイに返事する。
「将軍グンヘイ。私にまこと忠誠心があり、我が身を案ずるのであれば、リーミンを見張る許可を下ろしましょう。その心がまことならば」
「なんと! セイウさま。僭越ながら、我が心を疑われるのは遺憾にございます。なにゆえ、そのようなことを」
「
懐剣の子どもに疑心を向ける理由は分からないでもない。
されど、屋敷の所有者に疑心を向けてしまうのも、ごくごく自然な話ではないか。セイウは柔らかな口調で詰問した。
鼻の穴を膨らませ、鼻息を荒くするグンヘイの姿に、ユンジェは少しだけ笑いそうになってしまう。
セイウの味方をするつもりはないが、みなしごの子らを想うと、グンヘイの面喰った顔にいい気味だと思ってならない。
「また仮にリーミンが暗殺を企てたとしても、私の前では通用しないでしょう。グンヘイ、これを私の前で持ってみなさい」
セイウが己の懐剣をチャオヤンに渡し、それを持ってみせろ、とグンヘイに命ずる。
言われた通り、懐剣を抜くため、それを右の手で受け取ったグンヘイは野太い悲鳴を上げた。懐剣に触れた右手は軽い火傷を負っていた。皮膚が真っ赤になっている。
何が何だか分からず、目を白黒させているグンヘイの様子に、セイウが細く笑う。
「懐剣は護身剣。麒麟の加護により持ち主に悪意や邪な心があれば、守護の力がいかんなく発揮し、その者を拒絶します。リーミン、私の懐剣を拾ってきなさい」
自分で拾って来れば良いのに。
内心、文句垂れながら、ユンジェは爪を磨いてくれる侍女に声を掛けて、グンヘイの前に転がっているセイウの懐剣を拾いに腰を上げた。
(俺のことも拒絶してくれないかな)
抱く願いもむなしく、セイウの懐剣はユンジェの手におとなしく収まる。
それだけではない。これを持つだけで、体中の血潮が猛り、強い使命感に駆られた。反面、心が冷たくなっていくのを感じる。頭の中はセイウを守ることで一杯いっぱいになった。それ以外、何も考えられなくなっていく。
セイウの懐剣を大切に胸に抱え、主君の下へ戻る。
本来は持ち主に返さなければならないそれを当たり前のように自分の帯に差し、慈しむように鞘を撫でた。が、同じく帯にたばさんでいるティエンの懐剣を目にすると、ようやっと我に返る。自分はいま、なにを。
「ご覧になりましたか、セイウさま! あの子どもは懐剣を貴殿に返さず、我が物にしましたぞ! それに邪な心があるのではありませんか?」
自分が懐剣に拒絶されたことなど棚に上げ、ここぞとユンジェの行いを責め立てるグンヘイの声はセイウに届いていない。
彼は青褪めるユンジェの様子に嘲笑すると、「邪魔ですね」と言って、ティエンの懐剣を指さした。
「これのせいで、お前は選ぶべき所有者を迷ってしまっている」
ユンジェは俯き、無言でかぶりを横に振った。
違う。迷ってなんかいない。自分はティエンの懐剣でいたい。その一心だ。セイウの懐剣になりたいなんぞ、つま先も思ったことがない。
「リーミン、私の目を見なさい」
顎を掬ってくるセイウと目を合わせられる。吸い込まれそうな瑠璃の瞳が、得体の知れぬ畏れを抱かせた。
「主従の儀を交わした、お前の体には私の血が宿っている。抗えない主君の血が、その身に流れている。ピンインはお前と主従の儀を交わしていない。お前にピンインの血は宿っていない。であれば、誰に従うべきか」
形の良い唇が、ユンジェの耳元で囁いた。
「よく考え、部屋の物を使って私の手から逃げてしまったことのある賢いお前なら、うつくしいお前なら、この意味が分かりますね? リーミン」
分かったのなら、第三王子の懐剣を差し出せ、とセイウ。
まこと忌々しい第三王子の懐剣をユンジェの手から離させるには、所有者であるティエンを討たなければならないものの、使えないよう封じることは可能だ。
セイウはユンジェの心を試すべく、以前のように懐剣を取り上げる形で懐剣を封じるのではなく、ユンジェの意思でそれを差し出すよう促した。
それは命令他ならなかった
(差し出す……ティエンの懐剣を)
差し出せば、第二王子の懐剣リーミンに成り下がり、差し出さなければ、第三王子の懐剣ユンジェのまま。
差し出してはいけないことくらい、頭では分かっている。けれど。
「さあ。リーミン」
やさしく、けれど鋭い言葉に
逆らえるわけなかった。いまのユンジェの体内には、セイウの血が流れているのだから。
「分かりましたか? グンヘイ。見ての通り、リーミンは私には逆らえない」
セイウは兵士にティエンの懐剣を紐で縛らせると、立てた膝に麒麟の使いを凭れさせる。抵抗もないまま、膝に凭れる子どもの髪を指で弄り、彼は満足気に笑声をもらす。
「麒麟の使いは麒麟に使命を与えられ、その身に懐剣と同じ加護を宿しています。暗殺など到底、無謀な話。殺意を抱く前に、自刃して果てることでしょう」
万が一にも暗殺は不可能だ。
言い切ったセイウは、鼻の穴を膨らませている将軍グンヘイに、早いところ真犯人をひっ捕らえてくるよう命じた。天の次に位の高い王族を狙ったのだ。これは許されない物騒沙汰。捕まえられなければ、後釜を考えなければならない、と静かに脅した。
さすがのグンヘイも、追及の口を止め、必ず捕らえてくる、と頭を深く下げた。左遷させる危険を感じたのだろう。でっぷりした腹を揺らしながら、客間を後にした。
「宜しかったのですか?」
頃合いを見計らい、近衛兵のチャオヤンがセイウに耳打ちする。
「貴殿からリーミンを奪おうとしていたみたいですが」
「麒麟の使いを欲したのでしょう。じつに頭の悪いやり方でしたね。醜いものです」
「切り捨てても良いのでは?」
でなければ、セイウにどのような不幸が降りかかってくるか。
惜しみない憂慮を向けるチャオヤンに返事をしたのは、膝に凭れるユンジェであった。子どもはうつろな目で、けれど強い意志を宿しながら、大丈夫だと言う。
「主君に寄ってくる醜いものは、ぜんぶ、ぜんぶ、俺が切り捨てるから。そのために、俺はここにいるんだから。なにより、俺はグンヘイが嫌いだ。汚い」
第二王子セイウ一行の早馬がグンヘイの下に来ても、彼はすぐには動かなかった。懐剣の子どもを見つけ出すことに躍起になっていた。ユンジェは一部始終を見ていたという。
あれは罪深い行いだ。下僕のすることではない、と子どもは肩を竦めた。
「どうしても、あれを斬ってはいけないの? 貴方が望むなら俺は迷わず切るよ」
主君には常に美しいものだけを。それがセイウの願いなら、自分はそのための道を切り開く。ユンジェはうわ言のように呟いた。
先ほどまでセイウに見せていた、強気な姿勢はどこへやら。
(これも主従の儀によるものか。美醜を口にするのは、
それが愉快でならない。
ぜひ、この姿を愚弟に見せつけてやりたいものだ。国に一つしかない懐剣を、心ごと奪ってやったのだから。
「リーミン。お前の昔の名前を憶えていますか?」
問うと、子どもはひとつ唸り、正直に返事した。
「ごめんなさい。まったく憶えていません。それは、いまの俺に必要な名前ですか?」
「いいえ。忘れたのなら、それで良いのです。むしろ、すべて忘れてしまいなさい。リーミン、お前は私の
リーミン以前の記憶など一切不要だ。
「お前はお前のお役を果たしなさい。このセイウのために」
はい。素直に返事する子どもの腹の虫が鳴る。美しくない音ではあるが、これは懐剣でも人間。十分に食事をさせ、睡眠を取らせなければ折れてしまいかねない。
チャオヤンの一報では、先ほど賊を追い駆ける際、動けなくなったそうだから、使いどころは見極める必要性がある。あくまで、この子どもは懐剣。所有者を守るための剣であって、敵を滅する剣ではない。
(それでも、つい滅する美しい姿が見たくなる。私の悪い癖だな)
セイウはユンジェの髪を口元に運び、冷たく頬を緩めた。
その傍では麒麟の使いが主君の膝に凭れ、しきりにセイウの懐剣を撫でていた。鞘に触れる指先は、麒麟の加護が宿った
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