九.みなしごたち
上手い話には必ず、裏がある。
これは昔々、物売りをする心得として
だから、甘い言葉を簡単に信じるな。上手い話の裏側は理不尽の集まりなのだから。そう、口酸っぱく言われたものだ。
強く教えられていたのに、このザマはなんだ。
ユンジェは深いため息をつき、ジャグムの実を剥く手を止めた。
後ろを一瞥すれば、幼子が懸命にジャグムの実を洗っている。そっと目を引くと、向こうのたき火で鍋に水を入れている幼子数人。桶の水を零してしまう幼子もいたが、泣きそうな気持ちを抑え、ふたたび洞窟の奥にある湧泉へと向かった。
出入り口では、ユンジェを追い剥ぎしようとした少年らが、たき火のための薪を作っている。
ここは森の一角にある、大きな洞窟の中。追い剥ぎ少年らの
(なんで俺はここで、ジャグムの実を剥いてるんだよ)
振り出しに戻ってしまったところ、少年らが目指すべき泉の場所を知っていると言うので、お詫びも兼ねて案内してもらったら、これ、である。
彼らはユンジェを
要するにタダでは教えない、というのだ。
当然、ユンジェは頭にきた。少年らのせいで迷子になったのだから、そこは慈悲を持って案内するべきではないか。
寧ろ、
当初、断る気でいたユンジェだが、洞窟で待っていた幼い子ども達がサンチェらの帰りに気づくや、嬉しそうに駆け寄り、「おかえり」と「お腹すいた」を口々に言った。
また、ユンジェを興味津々に見つめ、「こんにちは」と言って歓迎してくる。
そんな幼子達の腹の虫を聞いてしまったものだから、ユンジェはつい情に流されてしまった。縁もゆかりもない者達なので、さっさと立ち去れば良いと頭で分かっていても、無邪気に見つめられると非道にもなれない。
しかも。この幼子達の目を見ていると思うのだ。
「新しいお兄ちゃん。剥けた実はお鍋に入れて大丈夫?」
「ああ、いいよ。重たいから、ちょっとずつ持って行けよ」
うんうんと頷く幼子が衣を広げ、剥いたジャグムの実を鍋に持っていく。重たいのか、足をよろめかせているが、一生懸命だ。
その姿にユンジェは遠目を作った。
(妙にティエンと重なっちまうんだよなぁ。なら、あいつはちっちぇガキ達と同じってことだよな)
何をするにも初めてで不器用、それでもって一生懸命。
出来れば褒めてくれと、恥も外聞もなく言ってくるティエンと、ここにいる幼子らがどうしても重なる。放っておけない理由のひとつだ。
おおよそ、ここにいる子ども達は孤児なのだろう。
周りに大人の姿はなく、代わりを務めているのが、追い剥ぎ少年ら三人だとみた。その証拠に重労働は、彼らが率先してやっていた。
現在、野ウサギを捌いているようだ。サンチェとジェチの二人がかりで作業にあたっている。
その覚束ない手つきと、険しい表情に目を細めると、剥きかけのジャグムの実を置き、彼らの下へ向かう。
「ジェチ。しっかり、松明を持ってろ。手元が見えねえ」
「そんなこと言われても。僕はもう、吐きそうだ」
「ばか。捌いている俺の方が、お前よりずっとつらいって」
ぐちゃ、ぐちゅ、その音を聞く度にジェチの顔色が悪くなっている。
ユンジェは松明を持っている彼に場所を代わるよう告げ、サンチェの持っていた刃物を取り上げると、手早く野ウサギを捌き始める。
ひどい捌き方だ。皮も剥いでいなければ、臓器の抜き方もなっていない。
「次、野ウサギを捌く時はまず、血抜きをして皮を剥げよ。ウサギの毛皮は綺麗に剥がせば高く売れるし、物々交換にすごく使える」
足先に刃を入れ、丁寧に皮を剥いでいく。乱雑に捌いたせいで、皮が所々血で汚れていたが、そこの部分の毛は削ぎ落せば、そこそこ高く売れるだろう。
水桶に刃物を入れ、軽く血を落とすと、布で拭き、今度は臓器抜きを始める。
「お前、手慣れているな。上手いし早い。狩人の子どもか?」
「ただの農民だよ。けど、狩りをして食いつないぐことも多かったから、こういう作業には慣れているんだ」
「そうか。どうりで。あっ、ジェチ。吐きそうなら、外で吐いて来いよ」
青い顔をしているジェチは、何度も頷き、洞窟の外へと消えていく。間もなく嘔吐く声が聞こえた。彼は獣の血を見ることに、不快感を抱く人間のようだ。出逢った頃のティエンを思い出す。
対照的にサンチェは辛抱できる型なのか、ユンジェの作業を熱心に見つめている。
その姿を見つけた幼子らが興味本位で近づいて来ると、彼は来ては駄目だと声音を張った。幼子にとっても彼は頭的存在のようで注意されると、おとなしく従い、持ち場へと戻っていく。
「べつに見せても良かったんじゃねーの?」
ユンジェは物心ついた頃から、捌くところを見てきた。最初こそ恐ろしい光景に見えるだろうが、すぐに慣れることだろう。
生きるために食べるとは、そういうことだ。
「泣くのが目に見えているんだ。チビひとりが泣くと、それに感化されて、他の奴等まで泣き出す。今日はあやし上手のトンファが寝込んでいるし、見せない方が俺達の楽にもつながる。年長は俺合わせて三人しかいねーし」
「だからって。追い剥ぎしようとした俺を人手として数えるなんて、お前、ずいぶんと良い性格しているな。俺は先を急いでいるのに」
「誰もタダで教える、なんて言ってないだろう? お前もタダで教えろ、なんて言ってないし」
「追い剥ぎに対する罪悪感はねーのかよ」
「まあまあ。コソ泥呼ばわりされた仲じゃん、俺達」
それは、そっちが勝手に巻き込んでくれただけの話ではないか。じろりと睨むが、サンチェはひひっと笑うだけ。まんまとしてやられた気分だ。
ウサギを捌き終えると、ユンジェは肉の半分を鍋に放り、もう半分は塩漬けにする。
幸い、洞窟には必要最低限のものが揃っており、その中に塩が入っていた。
サンチェはそれを、なぜ塩漬けにするのか知らないようで、たいへん不思議そうな顔をしていた。保存食を知らないようだ。食い物に困ったことがないのだろう。
ユンジェは湯がいたジャグムの実を木の棒で潰し、湯を注いで粥状にすると、それにウサギの肉と塩を入れた。
甘しょっぱいジャグム粥は、ティエンと二人暮らしをしていた頃、よく食べていたもので、腹持ちも良く、二人の大好物でもある。
腹を空かせた幼子らに配ると、それはそれは美味そうに粥を頬張っていた。
よほど空腹だったのだろう。ウサギの肉は取り合いとなっていた。
また、サンチェらにも好評で、森に
確かにジャグムの実は食べ方を知らないと、毒の実になりうる。しかし、食べ方さえ気をつければ、美味しい食材となる。知識の有無で、こんなにも差があるのだから、常々無知とは怖いものだ。
「毒の実が食べられることが分かって良かった。これで、少しは食い物不足も解消される。この洞窟には、食い盛りのチビが四人もいるからな」
サンチェは、嬉しそうに食事をしている幼子らを愛おしそうに見つめた。
粥を平らげた幼子らは、我先におかわりをしようと鍋に群がっていた。それを止めるため、ジェチが腰を上げる。
「あれはお前の兄弟か?」
「いや。知らねーガキども。共通しているのは、椿ノ油小町の生き残りってことか」
椿ノ油小町。
それは、ユンジェの脳裏にしかと残っている。そうか、ここにいる子ども達はみな、椿ノ油小町の子どもなのか。大人達がいないのも納得ができる。
「少し前に、椿ノ油小町を通ったよ。町は亡んでいた」
間を置き、サンチェは答える。
「あの町は、将軍グンヘイの手によって亡ぼされた。ガキの俺には、なんでグンヘイが町を亡ぼしたのかは分からねえ。ただ、あいつのせいで町の人間は死んだ」
「戦があったと聞いたけど」
「戦? そんな優しいもんじゃねーよ。あそこの人間は、訳も分からず押しかけてきたグンヘイの兵によって虐殺されたんだ」
元々ここにいる子ども達の大半は商人の子ども。朝昼は学び舎で過ごし、それが終わると友と遊び、夜は家族と過ごす日々を送っていた。
サンチェ自身も似通った生活を送っていた。
父親が町の警備兵だったこともあり、度々剣の稽古を強いられていたが、それをのぞけば平々凡々な生活を過ごしていた。
あの日々は楽しかった。学びが嫌で、友と朝からサボる日もあれば、剣の稽古から逃げ、町を歩き回ることもあった。今思うと、本当に幸せな時間だった。
そんな日々が崩れた、悪夢の夜。
将軍グンヘイの兵が、寝静まった椿ノ油小町に夜襲を掛けた。
問答無用で家の扉を壊され、兵が押し入り、町人らは襲われた。時に火薬筒を投げられ、家を壊された。
逃げ惑う町人の多くは捕らえれ、中には斬り殺されるものもいた。
家族と逃げていたサンチェは、捕らえられ、大人達と別々にされる。子ども達は集められ、次から次に荷台に乗せられた。
対照的に捕らえられた大人達は、町の外れにある椿農園に集められ、納屋に閉じ込められた。
そして、納屋に名産となっている椿油をたっぷりと掛けると、四方から松明を放った。その後、大人達がどうなったなんて言わずとも分かるだろう。納屋にはサンチェの両親もおり、揃って非業の死を遂げたという。
捕らえられた子どもらは、訳も分からず親を殺され、頼りを失った。兵の会話を盗み聞き、どこか遠くへ売られることを知った。
連行される道すがら、ふたたび戦が起こった。
どこぞと知らぬ賊が、グンヘイの兵を襲ったのである。逃げる隙ができたことで、子ども達は荷台から下り、散り散りになりながら逃げ回った。ただただ売られることが怖かった。
サンチェもその一人だった。友や見知らぬ子どもらと逃げ惑い、やっとのことで兵達を撒いた。それで事が終われば幸せであった。
しかし、現実は残酷であった。逃げ切った子どもらに待っていたのは、自給自足の生活だったのだから。
「家も服もない。食い物も水もない。こんなこと初めてだった」
子どもらと町に辿り着いても、大人達は汚い物を見るような目で見るばかり。誰も助けてくれず、寧ろ町の品が下がるという理由で、追い出されてしまった。
そこで世の厳しさを知ったサンチェは、どうにか暮らせそうな洞窟を見つけ、毎日のように生活物資を求めた。
町に忍び込み、金を持っていそうな大人から銭を盗んだ。
出店があれば、そこにある物を手早く懐に隠し、襲えそうな人間は次から次へと襲った。
そうして、今の生活があるのだと彼は教えてくれる。
「転々としている内に、一緒に暮らすガキも減っていったよ。最初は十いた数も、今じゃ四人。みな、過酷な生活に堪えられず、風邪をこじらせて病死しちまった」
年長の数も減った。
暮らし始めた当初は、五人いた年長も盗みに失敗し、一人は兵に撲殺、一人は斬り殺された。しかも前者は少女、サンチェの一つ上の姉だったそうだ。
「気立ての良い姉さんだった。腹空かせたガキどものために、どうしても菓子を食べさせたくて盗みを働いたんだが……ヘマしちまって」
生々しい話だ。ユンジェは哀れみの気持ちを抱いてしまう。
「向こうにいるジェチも、妹を二人失っている。一人は病死、一人は逃げる時に生き別れた。生き延びてくれていると良い、なんてあいつは口癖のように言っているけど」
「子どもだけで生きるってのは、すごく難しいからな。俺も
ユンジェは、たらればを考える。
ティエンに出逢わず、独りで畑仕事をしていたら、きっとこんな過酷な旅は強いられなかっただろう。古くはあったが、雨風凌げる家もあり、今ほど食べ物にも困らなかっただろう。命を脅かされる心配もなかっただろう。
けれど、彼と出逢わないことで、ずっと独りで生活していかなければいけないのであれば、ユンジェは迷わず、この過酷な旅を選ぶ。
それだけ独りはつらい。
それは子どもにとって、空腹時よりも、理不尽に罵られる時間より、ずっと、ずっと、地獄だ。
過酷でも、やっぱり誰かと時間を共にする方が良い。ああ、なぜだろう、無性にティエンの顔が見たくなってきた。彼は元気だろうか。
「お前は青州のどこらへんの人間なんだ?」
「俺は紅州の人間だよ。笙ノ町の近くの森に暮らしていたんだけど、兵士が火を放ったから、今はもう森も町はない。ついでに追われている身だ」
サンチェが同情の眼を向けてくる。
「お前も家なしか。けど、俺らより強く生きる術を知ってそうだな。ウサギも綺麗に捌けていたし、肉を塩で揉んでたのも、保存食だって言うし」
「農民は強くなきゃ飢えて、野垂れ死ぬしかないんだよ。俺の方こそ、こんな暮らしの中、塩漬けを知らないことに驚いたんだけど。お前、今まで保存食を口にしたことないのか?」
「口にしたことはあるかもしれねーけど……町が亡ぶまで飯はいつも、母さんが作ってくれたからな」
なるほど。ユンジェは合の手を入れる。
要するに、ティエンのように、誰かにしてもらっている生活を送っていたのか。それならば納得できる。
「もうひとつ、お前はなんで
「俺の兄さんと再会するためだよ。血は繋がっていないけど、俺にとってそいつは兄さんも同然。その兄さんとはぐれちまって」
「でも。
「それは、どういう意味だ?」
サンチェは、まず霞ノ里について教えてくれる。
そこは、かつて
しかし、将軍グンヘイの武力により、今は泉共々里も統治され、
無許可に入れば、謀反者と見なされ、厳しく罰せられるそうだ。
サンチェは霞ノ里の者ではないが、盗みを働くために、最近よく里へ足を運んでいる。
そこで見せしめ処刑を目にし、大人達の会話を盗み聞いて、事情を知ったそうだ。まさか、自分の町を襲った元凶がこの里と泉を統治しているなんて。
腸が煮えくり返りそうになったと同時に、恐怖心を抱いたという。
将軍グンヘイに見つかれば、また子どもを捕らえるために兵を放つのでは? それが気が気ではないそうだ。
だったら、
また身も隠しやすいので、簡単に離れることはできないとのこと。
閑話休題。
かつて、泉を守護していた
まったくもってその通りだが、ユンジェはどうしても、
しかし困った。思ったより、ややこしい話になっている。
「
「ど真ん中」
「真ん中?」
「ああ。
ますます厄介な話だ。
将軍グンヘイといえば、ティエン達が怒れていたほど、ひどい大人で愚図と聞いている。
さらに第二王子セイウの配下の者であり、王族と直結の繋がりを持つ者。麒麟の使いのユンジェにとって不都合極まりない存在だ。
極力、見つからないよう、隠れながら泉に近づきたいが、グンヘイが統治している里の中にあるなら、それも難しい。
(おおよそ、グンヘイも里にいるだろうしな)
せめて、彼の居場所だけでも掴んでおきたい。ユンジェはサンチェに、将軍グンヘイは里のどこに住まいを設けているのかを尋ねる。
「普段は
「真上? それって
「そういうこと」
間の抜けた声が出てしまった。
「そこ、聖域だろ? そんな罰当たりなことして良いのか?」
さすがのセイウも、聖域に屋敷を建てる行為は我慢ならないだろうに。
「詳しいことは分からないけど、グンヘイは二つ屋敷を持っていて、一つはでっかい屋敷を里の入り口に建てている。客が来たらそこで応対しているみたいだ。崖にある屋敷は、離れ家なのか、とても小さいんだ」
小さい。
目立たないように造っていると考えて良いのならば、グンヘイはセイウや他の王族に黙って、離れ屋敷を建てたと推測できる。
でも、なぜ。
大小関係なしに屋敷を建てれば、いずれ、それはばれる。屋敷は到底隠せるものではない。隠し通せる自信でもあるのか? あのセイウ相手に。
(いや、それとも。セイウが敢えて目を瞑っているか)
ぞくり、と背筋が凍る。セイウのことを考えるのは、もうやめにしよう。あっという間に、リーミンになりそうだ。
とにもかくにも。次の目的地は決まった。
そのためにも。
「サンチェ。
「銅貨五枚で手を打ってやっても……冗談だって。さすがにトンファのことや、飯まで作ってもらったし、そこまで要求しねえから、刃物は仕舞え」
へらっと笑うサンチェに、目を細めつつ、ユンジェは抜きかけの懐剣を鞘に戻す。
「ユンジェって怖い奴だな。すぐ暴力に走る」
「不思議だな。サンチェ相手だと、我慢が利かなくなるんだ。普段の俺は、何をされても怒らないし、聞き流すんだけど」
「……聞いた俺は、それを喜んで良いのか?」
複雑そうな顔を作るサンチェに、ユンジェは心中で舌を出しておく。
本当に不思議な話、サンチェ相手だと、思うよりも先に行動が出てしまう。じつは、それだけ、根に持っているのかもしれない。襲ってきたことや、嵌めてきたことに。
「チビども。このお兄ちゃんは短気だから、話し掛ける時はご機嫌取りしてからにするんだぞ。怒ると刃物を振り回してくるぞ」
向こうにいる幼い子ども達に、いたらんことを言うサンチェも同じ気持ちなのかもしれない。
顔を引きつらせるユンジェに赤い舌を出し、サンチェは「
◆◆
闇夜が深まり、幼子らが寝静まる。
洞窟の奥の隅で外衣をかぶり、腹痛で寝込んでいるトンファに引っ付いて眠っている姿は可愛いものの、表情は少しさみしそうだ。
まだ親恋しい年なのだから、さみしい、と思っても仕方がないだろう。
十で
(ガキ達は暗いところが怖いのか? やたら蝋燭の火が焚いてある)
点々と灯っている蝋燭の数の多さには目を瞠ってしまう。いくら子ども達のためだとはいえ、勿体ないとは思わないのだろうか?
さて。そんなユンジェは、たき火の前で小道具を作っていた。
サンチェ達に襲われ、使ってしまった目つぶしや草縄や草紐を補給するため、洞窟にある物をいくつか頂いて、物を拵える。塩や布を貰ったので、砂だけの目つぶしや、草の縄や紐よりもずっと良い道具が作れそうだ。
布を裂いて、しっかりと捩じり、紐を編んでいると、真横から湯気だった器を差し出された。
顔を上げれば、気の優しい面持ちをしているジェチが差し入れだと言って、それをくれる。器の中身はハチミツ湯だそうだ。
「いいのか? もらっても。ハチミツなんて貴重だろう?」
「君にできる、精一杯のお詫び。受け取ってもらえると、僕も嬉しいよ」
ユンジェに対して初めてお礼とお詫びを言ったのも、ジェチだった。
感謝やお詫びを言える人間は、とても礼儀正しい。だから、ジェチは礼儀正しい人間なのだろう。
ユンジェは笑顔で器を受け取る。隣に座っても良いか、と聞かれたので、大丈夫だと返事する。そうして、彼とハチミツ湯を飲みながら、静かにたき火で暖をとった。
「サンチェは?」
「洞窟の側の木の下で、松明棒を振り回しているよ」
つまるところ、稽古をしているらしい。そういえば、警備兵の息子で剣を習わされていた、とか言っていたような気がする。
「一応、ここの
確かに。ユンジェが三人に襲われた中でも、彼は格段に強く足も速かった。それだけ、稽古を積まされていたのだろう。一対一だと正直、勝てる気がしない。
「ユンジェは紐を編んでいるの?」
「そうだよ、よく分かったな」
「形を見ればなんとなく分かるよ。ユンジェは手先が器用だね。それに知識も豊富だから、驚くよ。僕も学び舎では頭が良かった方なんだけど……今はちっとも役立たないや」
苦い顔で笑うジェチは、文字や数の計算ができても、何も役立たないと肩を落とす。
しかし。ユンジェは必ず、役立つ日が来ると励ました。
ユンジェはそれらができないせいで、何度も悔しい思いをしている。損な目に遭っている。
今だって少しの文字と数の計算はできるものの、この程度の知識で物売りをしても、頭の回る商人に言い包められるだろう。それくらい学びは大切なのだ。
ユンジェは生まれてずっと、畑仕事ばかりしてきた。
なので、学び舎というものに通ったことがない。暮らしに余裕があれば通ってみたかった。そう、何度も思った。
「たぶんさ。生きる術と学びの知識ってのは、両方持っておかなきゃいけないと思うんだ。片っ方だけじゃ、俺やジェチみたいに苦しい思いをすることになる」
だから。学んだことは学んだこととして、大切にしていて良い、とユンジェは考えている。ティエンだって国の政や計算はできても、生きる術は何も持っていなかった。
そんな彼が今では両方の知識を兼ね備え、あそこまで成長している。やっぱりどちらも大切で、どちらも持っておくべきものなのだ。
ジェチに言うと、彼は笑いながら相づちを打ってくれた。同調してくれたようだ。
「ねえ、ユンジェ。ひとつ、僕からお願いごとを聞いてほしいんだ。それの編み方を教えてよ」
「それって……紐の編み方か?」
「うん。僕の腰紐がもう切れそうでさ。自分で作り直せたら楽じゃない?」
「それはべつに構わないけど」
「もちろん、タダとは言わないよ。僕が唯一、持っている生きる術を教えてあげる。ユンジェ、疑問に思わない? こんな暮らしなのに、洞窟の奥を見ると、蝋燭の火があっちこっちに点いているの」
それはユンジェも疑問に思っていた。蝋燭は安価なものではない。いくら盗んだとしても、数に限りがあるだろう。
「あれは、僕がハゼの実から作っているんだ」
「ジェチ、蝋燭を作れるのか?」
目を輝かせるユンジェに、ジェチは何度も頷いた。
「うん。この森にはハゼの木があるから、その実を採ってね。ハゼの実に含まれる油脂は、蝋燭の成分と同じなんだ。その作り方をユンジェに教えるよ。誰にでも簡単にできるし、ユンジェは旅をしているんでしょ? 絶対に役に立つと思うんだけど」
ジェチは椿油屋の息子だったそうだ。
椿油のことは当然、他の油のことにも詳しいのだという。蝋燭の作り方を教える代わりに、紐の編み方を教えてほしい、と頼んでくる彼の交渉を断るばかはいない。
ユンジェは喜んで交渉を成立させた。
彼の言う通り、蝋燭を自分で作れるようになれば、銭の節制にもなり、過酷な旅にもゆとりが出てくる。これ以上にない、最高の交渉だった。
ジェチはかたい皮を持つハゼの実をユンジェに見せると、木の特徴を細かく教えてくれた。
その後、実を潰して布に包むと鍋で蒸す。さらにそれを、小鍋で熱して不要な物を取り除き、湯呑みなどの器に移して固まらせれば、蝋燭の出来上がりだ。
「蒸したハゼの実を絞ると、もう油が出てくるんだけど、それは使えるから」
「固まらせる前なのに?」
「うん。十分、油として使えるよ。たき火や松明の火の点きが悪かったら、これで補える。ただ、食用としては使うのは難しいけどね」
手際よく布を絞るジェチの知識は、聞いていて本当に面白い。彼は単に蝋燭の作り方を教えるだけでなく、絞った油の用途も教えてくれるのだから。
また、学び舎で頭が良かった、という話は本当らしく、ジェチはユンジェに分かるよう、教え方を工夫した。
数があまり分からないユンジェのために、分量の話をする時はまとめた数を言うのではなく、十の数を三つ、五の数を二つ、という具合に表してくれた。
さらに、ジェチは作業の工程は声に出させた。
「口に出したら、頭に刷り込まれるんだ。本に書いてあることを覚える時、僕はよく声に出していたよ。人間って見ても、すぐに忘れるから、見る以外のことでも記憶しないとね」
そう言って彼は木の器に、絞ったハゼの油脂を注いだ。
こうして、二人はたき火の前で蝋燭の作り方を、紐の編み方を教え合う。ジェチはティエン並みに手先が不器用だったが、取り組む姿勢も彼と同じくらい熱心だったので、すぐに上達するだろうと思った。
作業をしながら、たくさんの世間話をした。
年齢から家族構成、お互いの生活、己の身の回りにいる人間の話。平和な話題を和気あいあいと語った。同性同年と話すのは、じつはこれが初めてだった。
「誰かを襲って、盗みを働くなんて本当はしたくないんだ。不誠実だって分かっているから」
ジェチは現在の暮らしに、心を痛めているようだった。
他人から物を奪って暮らしている日々に後ろめたさがある様子。両親や学び舎から、それをやっては天に裁かれる、と教わったからこそ、心苦しいのだと、彼は吐露した。
盗みを働いたせいで、
それでも、それをしなくては食べていけない。誰も助けてくれない。綺麗ごとなんて言っていられない。いつも気持ちは板挟みだという。
「やってはいけない。そう教わったことは死ぬまで、やらないと思っていたのに。大人になったら、家を継ぐものだとばかり思っていたのに、当たり前の明日が壊れる日がくるなんて思いもしなかったよ」
ユンジェは相づちを打つ。痛いほど気持ちは分かる。
「明日が壊れたと思ったら、知らない土地で家なし。二人の妹とも生き別れになるし。本当に参るよ。大人は無条件で助けてくれるものだと思ったら、案外冷たいしさ」
やや上擦る声をユンジェは聞き流す。それが優しさだと知っていたから。
「こんな目に遭っても、まだ生きようとする、しぶとい自分には驚くよ。本当はとっくに心折れて絶望しているのに。ううん、これはちょっと違うかな。ただ、死ぬことの方が生きることよりも、ずっと怖い。だから、必死に生きてる」
でも、これは正しい選択なのだろうか。ジェチにはよく分からないという。彼は本当に礼儀正しく、良識ある人間なのだろう。
ユンジェも、話を聞くだけでは判断が難しい。
そこで自分に置き換えて考えてみる。ジェチよりもずっと悪いことをしているユンジェは、この選択を正しいとは思っていない。きっと人殺しをしてまで生き続けることは、間違いなのだろう。
それでもユンジェは生きる。ティエンとの約束を守るために。
「正しくても、間違っても、ジェチは簡単に死ねないんじゃねーの?」
「え?」
「だって。サンチェ達が許してくれなさそうじゃんか。年長が減ったら、ガキの世話がもっと大変になるって騒ぐんじゃねーの?」
弱々しい笑みが返ってきた。
想像ができたのだろう。彼はサンチェが絶対に許してくれなさそうだ、と言って肩を竦めた。曰く、誰よりも身内を大切にする男らしいので、下手なことをしたら扱かれるとのこと。
だったら。扱かれないためにも生きなければ。
いまはそれを理由にしても良いではないか。
そう言って励ますと、「脅された生き方だよ」と、ジェチがおどけてみせる。元気が出たようで良かった。
その時であった。
洞窟の外で稽古をしていたサンチェが、険しいかんばせで中に入ってくる。
何か遭ったのか。
彼に尋ねると、「近くに大人がいる」と、言ってたき火の前に片膝ついた。
「話し声が聞こえてくるんだ。どうも、将軍グンヘイの兵っぽい。盗みを働いている子どもを探している」
「僕達はこの辺じゃ有名な盗っ人だからね。昼間は兵士のお金を盗んだし、ついに動いたか」
「ああ。けど、話を聞いていると、グンヘイは以前のように子どもを片っ端から集めているみたいなんだ。あと、なにかを探しているみたいだったな。麒麟の使いがなんたら」
ユンジェは思わず立ち上がってしまう。
サンチェとジェチが声を掛けてくるが、耳に入って来ない。
急いで洞窟の外へ出ると、よく耳をすませて東西南北、森の音を拾う。
聞こえる。
夜風が木々をすり抜ける音。虫や森カエルの鳴く声。草木の囁きを邪魔する、人間の声。野太い男の声がひとつ、ふたつ、みっつ……会話は聞こえてこないが、大きめに声を出しているようだ。
夜の森はとても音が響く。そのため距離を測ることは難しいが、サンチェの言う通り、そう遠くない場所に大人がいるようだ。
(麒麟の使いが近くにいることが、グンヘイにばれた。思ったより早かったな)
リャンテ王子と青州兵に出くわした時点で、いずれグンヘイの耳に己の存在は知らされるだろうと予想はしていたものの、まさか、子どもを片っ端から集めているとは。
どうする。
幼子がいる洞窟にユンジェがいたら、子ども達が危ぶまれる。
あの子達のためにも一刻も早く離れるべきだろう。かといって、ひとりで外をうろつき回っても、発見された際、まだ近くに子どもがいるのではないか、と探される可能性がある。
さらに夜の森は動きづらい。よく地形を把握しておかなければ危険だ。
下手な判断を下すと命取りになる。考えろ、どうすればいいか、よく考えろ。
「ユンジェ。支度しろ」
闇夜を睨んで思案に耽っていると、サンチェから声を掛けられた。振り返ると、彼も身支度を整えている。一体何を。
「お前、
それだけでサンチェの考えが読めた。
この男はユンジェと二人で大人達の目を集め、オトリになろうとしているのだ。
そうすることで、
「ユンジェの足の速さは、昼間見せてもらった。二人で走れば、たぶん撒けるだろう。ジェチ、お前はトンファとガキ達を頼む。もし、ここが見つかりそうになったら迷わず、洞窟から離れろ。そして、大人達がいなくなるまで身を隠しておくんだ」
「サンチェ。僕も行くよ」
「だめだ。お前は俺ほど足が速くない。それに不調のトンファひとりで、ガキ達を任せるのは酷だろう? 大丈夫、そんな顔をしなくてもジェチは頭が回るから、俺は何も心配してねーぜ」
浮かない顔を作るジェチに笑いかけるサンチェは、絶対に大人と戦うな。徹底的に逃げろ。それが自分達の勝てる唯一の方法だと、何度も言い聞かせていた。
正しい考えだとユンジェは思った。
子どもの自分達は逆立ちしたって大人に勝てない。逃げてこそ子どもの自分達が勝てる、一番の方法だと思う。
ユンジェはお手製の目つぶしを腰に下げると、残りの荷物は布に包んだ。
その際、ジェチにハゼの実の入った小袋と蝋燭を渡されたので、それも一緒に包み、しっかりと腰に巻いた。帯に懐剣を差すと、サンチェに準備ができたことを告げる。
「よし。行くぞ。ジェチ、後は頼むな」
「分かった。気をつけてねサンチェ。それからユンジェ」
彼はユンジェを見つめ、そして笑顔を見せて、右の手を差し出した。
「今夜はありがとう。君と話せて楽しかった。できることなら、もっとユンジェと話してみたかったよ。何が好きなのか、どんなことに興味があるのか、得意なことは何なのか。たくさん話せば、きっと良い友達になれたと思う。ううん、少しは友達になれたかな。君を襲った賊だけど」
「ジェチ……ばかだな。ごめんを言ってくれた時点で俺は許しているよ」
ユンジェはジェチと握手を交わすと、「トンファにもよろしくな」と言葉を送った。
彼は嬉しそうに頷き、「ユンジェが無事お兄さんと会えますように」と、心からの気持ちを送った。
とても、とても惜しく思う。
ユンジェも、もっとジェチとたくさん話して、彼のことを知りたかった。友達のことを知りたかった。
松明を持って洞窟を後にしたユンジェは、サンチェと夜の森を走る。
彼はある程度、森の地形を把握しているようで、辺りが暗くとも、その地形と星を確認して、方向を定めていた。
「まずは大人の数を把握することだな。そんなに数はいねーと思うんだけど。コソ泥のガキ相手を捕まえるだけだし」
サンチェが予想を立てるが、ユンジェは「多いと思う」と返した。
理由を尋ねられると、顔を顰めてしまう。
「俺が王族の探しているガキだから。将軍グンヘイが動いたのは、たぶん俺のせいだ」
「よく分からねーけど、グンヘイは前からガキを集めていたから、今さら動いたところで俺は誰のせいにもしねーよ。責めるなら、グンヘイ自身を責めるね」
そう言ってくれると、ユンジェも心が軽くなる。
サンチェが大人達の姿を見つけたので、揃って松明をちらつかせた。
鎧を纏った人間はやはり青州の兵士、しかもグンヘイの兵のようで、「子どもがいたぞ」と声音を張っていた。
二人は急いで走る。少しでも洞窟から大人達を遠ざけるために。
「数を把握する前に、見つかったけど、これからどうするんだよ」
ユンジェの問いに、サンチェは軽く舌を出した。
「これから考える。数は走りながら把握する。だから、死に物狂いで走れよ」
「行き当たりばったりで大丈夫かよ」
「なんとかなる。いや、なんとかさせる」
「むちゃくちゃだ。ほんとうに大丈夫かよ」
夜が深まる森の中、ふたりの長い追いかけっこが始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます