六.遭遇
麟ノ国第二王子セイウはその日、まこと不思議な胸騒ぎを覚えていた。
それは起床し、朝餉や湯殿を済ませても拭うことができず、昼餉の刻になると、胸騒ぎは強くなった。
何かの前兆であろうか。今宵は己を溺愛する母が宮殿に来るので、それの応接をしなければならないのだが。
あまりにも胸騒ぎが拭えないため、セイウは近衛兵のチャオヤンに使いを頼み、顔なじみの姥呪術師を呼びつける。
もしかすると、この胸騒ぎは己の体調による異変や、身の回りの不幸事の前触れやもしれない。
せっかく麒麟の使いを見つけ出し、これからという時に、病や不幸事に巻き込まれたくはなかった。セイウは一刻も早く懐剣を我が物にし、宮殿に飾りたいのである。
事情を聴いた呪術師は一室に御香を焚くと、敷布の上にセイウを座らせた。
そして、彼の前に獣の歯や爪、折れ曲がった鉄棒。石同士がくっ付き、時に反発し合う
鼻につく御香に顔を顰めながら呪術師の返答を待っていると、姥はひとつ頷き、このようなことを言ってくる。
「セイウさま。貴方様の胸騒ぎは、おおよそセイウさまと、麒麟の使いが関わっているものと思われます」
「使いが関わっている? リーミンが近くにいるのでしょうか?」
「いいえ。おそらくは使いが麒麟より神託を賜り、主君である貴方様に進言しているのか。もしくは導こうとしているのではないかと。麒麟の使いは、主君を守る者。そして次なる王座へ導く者。たとえ主君と離れていようとも、そのお役は果たすことでしょう」
それが胸騒ぎの正体だと姥は言う。
「セイウさま。
萎れた手が磁石を差し出す。言われるがまま、それを右手で握ると、目を閉じるよう指示された。良いと言うまで、目を開けてはならないとのこと。
「この老婆の声に、まっさらな御心で耳を傾けて下さいませ」
御香の匂いが強くなる。新たに焚かれたのだろうか。また、ジジッと顔の近くで火の音も聞こえた。それは燭台に刺さった蝋燭のものだと分かる。
「麒麟の使いはセイウさまの下僕。主君である貴方様を導くため、声なき声を届けておられまする。さあ、まっさらな御心でお聞きくださいませ。いま、貴方様の御心には映っておりますか?」
呪術師が鈴を鳴らし、目を開けて良いと告げる。
そろりと、瞼を持ち上げたセイウの頭に一つの情景が浮かんだ。前触れもなかった。しかしながら、それは強い思いとして心に反映する。
「天降(あまり)ノ泉。リーミンは、そこに必ずや姿を現す」
腰を上げたセイウは興奮する。
これは出たらめではなく、確信であった。血眼になって探している懐剣の居所が、こうも簡単に割り出せるとは思いもしなかった。主従の関係だからこそできる芸当なのだろう。
「さすがですね。青州一の呪術師と謳われるだけあります」
恭しく頭を下げる呪術師は、セイウに物事が上手くいくよう、こんな助言をした。
「セイウさま。凶星が二つ、貴方様に迫っておりますのでお気を付けくださいませ。それは謂わずも、御兄弟でございましょう。とりわけ赤き凶星は、闇に見え隠れしております」
赤き凶星。おおよそリャンテのことだろう。
少しばかり冷静を取り戻したセイウは、腰を下ろすと、傍にいるチャオヤンに視線を投げた。
「あれは、青州で度々戦をしているようですね」
「はい。リャンテさまは、リーミンの捜索兵を尾行し、虎視眈々と強奪の機会を狙っているようです。とはいえ、そろそろ目立つ行動は控えることでしょう」
チャオヤンの言う通りだ。
戦はクンル王の耳に入るため、傍若無人に戦をすれば、その行動を怪しみ始めることだろう。父王はあれにセイウの監視を命じているのだから。
また、我が母にも戦の件は耳に入る。
あまり酷いようであれば、正妃に留意の竹簡を出すはずだ。正妃にも面子があるので、事を聞けば直ちに白州へ帰還するよう命じるはず。リャンテがそれを聞くかどうかは、別の話であるが。
「いま、リャンテは
「一部の白州兵を青州に置き、自身は蓮ノ都で休まれているそうです。表向きは」
語尾を強調するチャオヤンに笑いそうになる。なるほど、裏では活発的に動いているのか。
「首を討てずに、申し訳なく思います。セイウさま」
「良いのですチャオヤン。あの蛮人を簡単に討てるのであれば、私も苦労はしていませんよ。さて、どうしましょうか」
竹簡を出せば、すぐに兵を手配することだろう。否、愚者なグンヘイがそのような気遣いを見せるはずがない。どうせ、振りをして終わることだろう。
あれの悪評はよく耳にしている。
青州に至らん戦を起こして損害を出している男だということも、傍にいるチャオヤンを筆頭に、兵達から忌み嫌われている将軍であることも、十二分に把握している。
それでも、セイウは
無論、それは腕を認めているわけではない。父親が優れた将軍だったから、というわけでもない。
『愚か者』だから
(グンヘイがリーミンを捕らえたところで、私のところに連れて来るかどうか)
一思案したセイウは、きゅっと口角をつり上げると、チャオヤンに命じた。
「将軍グンヘイに竹簡を出します。早馬の準備を」
麟ノ国第一王子リャンテは馬に跨り、少数の兵を率いて蓮ノ都を発っていた。
その格好は色褪せた麻衣と身軽、どこからどう見ても王族には見えない。下手をすれば平民以下の賊を彷彿させる格好であった。
ゆえに率いる兵達はリャンテの格好を気遣い、もっと良い衣を着てくれるよう懇願した。
正妃の子息が平民の格好どころか、賊のような格好をするなんて、リャンテ自身の面子に関わる。そう言いたげな顔をしている。
「王子、せめて鎧だけでも」
進言してくる兵達を疎ましそうに見やり、リャンテはこれで良いのだと鼻を鳴らした。
「セイウの野郎が俺達の動きを見張っているんだ。これくれぇしねーとな」
表向き、派手に戦をしたのだ。あれは注意深くリャンテの動きを見張ることだろう。
それだけではない。父王も、水面下で監視をしろと命じたのに、なぜ派手に戦をしているのか、疑問を抱いているはずだ。
注意深くなる人間達ほど、視野が狭くなる。これは絶好の機会であった。
誰が想像しようか、第一王子が小汚い賊に成り済ますなど。
(本当は椿ノ油小町で、懐剣の足取りを追う予定だったんだが)
青州兵は、なかなか骨のある者達ばかり集っていた。それゆえ、戦に熱中してしまい、懐剣の子どもを見逃してしまったのである。
惜しいことをしたと思う反面、また奪う機会はいくらでもあるだろう。リャンテは楽観的なことを考える。
「これからどこへ?」
隣を走る近衛兵のソウハに尋ねられ、リャンテは口端を赤い舌で舐めた。
「麒麟の使いと言えば麒麟だ。俺は青州で最も麒麟とゆかりある土地に、竹簡を出しておいた。今から、そこを任されている将軍の下へ向かう。なんとなく、そこへ行けば懐剣の手掛かりが掴めそうな気がしてな」
そう。十瑞将軍の愚息。虎の威を借る、ろくでなし将軍グンヘイの下へ。
◆◆
かつて、ここまで頭を悩ませる事態があっただろうか。
ユンジェは四人分の皮袋に、冷たい川の水を入れると、駆け足でみなの下へ戻る。
本日の野宿場所は雨風凌げる岩穴。
そこは硬い石や砂利、蛇なんかが多いため、あまり寝床に適しておらず、雨の日以外は利用しない所なのだが、今日は晴れても岩穴でなければならない理由があった。
まだ真上にある太陽を浴びながら、岩穴に戻ったユンジェはたき火の加減を確かめた後、寝込んでいるティエンに声を掛けた。
「ティエン。水を汲んできたぞ。飲めそうか?」
両膝をついて、顔を覗き込むと、真っ赤な顔をしたティエンが乾いた唇を動かした。
耳を近付けると、水が欲しいと返事している。皮袋を口元に運んでやると、力を振り絞ってそれを飲んだ。ティエンはいま、高熱に魘されている。
それだけならまだ良い。問題はもう二人、病人がいることだ。
「カグム。水、飲めそうか?」
「ああ、なんとか。そこに置いててくれ。自分で飲むよ」
体を起こそうとするカグムが、まったく動けていないので、優しく手を貸してやる。
彼は申し訳なさそうに眉を下げ、皮袋の水を飲んでいた。始終、気だるそうであった。
「ハオ。水は?」
「声掛けてくんじゃねーよ。頭いてぇ」
気が立っているハオにため息をつき、黙って皮袋の飲み口を差し出す。
何も要らないと意地を張る彼だが、そう時間も置かず、観念してユンジェに世話された。動けないのは明白であった。
「はあ。参ったなぁ。ティエンさまだけでなく、俺やハオまで高熱を出すなんて」
カグムのぐったりとした声が、昼間の岩穴に響く。
勿論、その台詞を言いたいのは誰でもないユンジェである。
まさか、だいの大人が揃いも揃って高熱で倒れるだなんて、ああ、夢にも思わなかった。ティエンはともかく、兵士のカグムやハオは体躯も良く、剣の腕もあるので、ちょっとやそっとじゃ倒れないと思っていたのに。
おかげでユンジェは、今朝から水汲みだの、薪集めだの、病人食だの、てんてこ舞いである。
ちなみに、これの原因はすでに分かっている。
「
ユンジェは片手鍋の中で沸騰している粥を覗き込み、木の匙で中身をよくかき混ぜる。うん、程よく蕩けている。食べごろだろう。
「ここ数日。雨が続いたり、土砂で道が塞がったり、やたら賊に襲われたり……散々な目に遭ったのも麒麟の導きによるものだと思うんだけど」
粥に一つまみの塩を入れて、病人達に粥ができたことを知らせる。誰ひとり、食べたいと言わなかったので、ユンジェの分のみ昼餉を用意する。
話は麒麟の夢を見た日まで遡る。
神託を賜ったユンジェは、所有者に
これまでも麒麟が夢に現れ、ユンジェに何かしらのことを伝えてきたので、今回もそれに従うべきだと考えたのである。
けれども。ティエンを筆頭に、みなから
なぜなら最近、
そうでなくとも
赴けば、必然的に青州兵と鉢合わせになり、セイウ王子らに捕らえられてしまう。
その時のユンジェは、反対されてしまったのでは、どうしようもないな、で終わっていた。自分は神託を賜っただけの身分。旅路の変更を貫き通す立場ではない。指揮を取っているカグムが駄目と言えば、引き下がるしかないのである。
片隅で麒麟の言うことを聞かなくても良いのだろうか、と懸念を抱いたが、みなの意見に従った。
するとどうだ。
宿を発ってから、やたら不幸な目に遭う。
最初は土砂降りの雨に襲われた。通り雨ならまだしも、数日も雨が降ったので、岩場で野宿する羽目になった。
その次は雨による土砂崩れだ。通りたい細道が、土砂で塞がれてしまい、大回りする羽目になった。
その頃からティエンの体調が崩れ、発熱してしまう。誰もが雨によるものだと思っていたのだが、間もなくハオの体調も崩れ始めた。
揃いも揃って風邪だろうか。
心配していた矢先、賊に襲われ、一行は逃げ回る羽目になる。追い詰められた際は、どうにかカグムが剣を振るって、それらを斬り倒したものの、ユンジェは彼の蒼白な顔色に気付き、急いで休めそうな場所を探し回った。
それがこの岩穴だ。
此処はある程度平らで、蛇や毒虫がおらず、風通しが良いのでたき火も焚ける。さらに場所が『岩穴』なので、獣や敵襲を受ける場所が限定できる。病人らを休ませるには最適の場所であった。
ただ、カグムに場所を見つけたと知らせる頃には、彼も倒れてしまったので、ユンジェは一人で大人を運ばなければならなくなった。あの時は泣きそうであった。
粥を口に入れていると、ハオが呻いた。
「こんなにしんどい熱は、ガキの頃以来だぜ。死にそう」
「俺もだ。戦でさえ、こんなに苦しい思いをした覚えはないぞ」
動けなくなるほどの熱に悩まされるなんて。カグムは嘆いた。
「カヅミ草の煮汁を飲んでも駄目か?」
以前、ユンジェが高熱を出した時に、ティエンが摘んでくれたカヅミ草の煮汁を三人に飲ませている。
あれのおかげで命拾いしているので、てっきり熱を下げてくれると思ったのだが。
「飲んですぐに効くもんじゃねーよ。くそ、なんでお前だけ、元気なんだ」
じろっとハオが睨んでくる。八つ当たりも良いところだ。
「たぶん、俺にはお役があるからだと思うよ。
あっという間に粥を平らげたユンジェは、ティエンの枕元に移動すると、うんうんと唸っている彼の腹を叩いてやる。
これをしてやると、彼は落ち着きを取り戻すことが多い。
(みんなの言いたいことは分かっている。俺だって危ないことはしたくない。でも、麒麟は、確かに天降ノ泉で待っていると俺に伝えてきた。それを無視することが、俺にはできない)
これも麒麟の使いだから、だろうか。
(ティエンは王座を拒んでいるのに。俺もそれは分かっているのに)
ぬるくなった布をふたたび濡らし、かたく絞ってティエンの汗ばんだ額を拭ってやる。麒麟の神託は、天の意思。これに逆らうことは、きっと許されない。
(次なる王の訪れを……王位継承権を持つ王族らの訪れを、麒麟は待っている)
第一王子リャンテや第二王子セイウの顔が脳裏に過ぎる。前者はともかく、後者には顔が割られている。再会すれば、ユンジェは下僕としてセイウに平伏するだろう。
「ゆん、じぇ」
「どうしたティエン。水か?」
熱い吐息をつくティエンは、手を握ってほしいと頼んできた。
体が弱ると、心寂しくなるのだろう。その気持ちは痛いほどわかるので、ユンジェはいいよ、と言って、柔らかな手を握った。
「所詮、人間は天の生き物に逆らえないわけか。
指揮を取るカグムが、重いため息をついた。大人が三人とも高熱を出すなんて、麒麟の怒りに触れたとしか考えられないとのこと。
「もしくは、呪われた王子の呪いかもしれねーな。あーあ、笑えねえ」
「その本人も熱に魘されているだろうが……勘弁してくれよ」
ハオが泣き言を連ねる。とても、つらい熱なのだろう。
野宿時の熱は本当に苦しいと知っているユンジェは、つい哀れみの気持ちを抱いてしまう。何もしてやれない自分が歯がゆい。
(三人の熱が下がるまで、何事もないと良いけど)
ユンジェはティエンの頭を撫でやり、彼が寝つくまで腹を叩いてやった。
願いは届かず、事件は明け方に起きる。
それは川で洗い物をしていた時のことだ。夜通し大人達の看病をしていたユンジェは、汚れた水と布を洗うべく、ひとり川のほとりにいた。
三人の熱は下がらず、依然寝込んだままであるが、昨日の昼に比べ、落ち着きを取り戻している。
この調子であれば、明日には微熱になっていることだろう。
今は三人とも、岩穴で深い眠りに就いているので、ユンジェもこれが終わり次第、仮眠を取るつもりであった。
なのに。ぞわり、ぞわりと悪寒を感じたことで、欠伸をしていたユンジェの表情がこわばってしまう。
心臓を鷲掴みするような恐怖を感じる。
本能が警鐘を鳴らすので、絞っていた布を握り締め、周囲を見渡した。この感覚は所有者に危機迫る時のもの。何が来るのだ。何が。
状況を把握する間もなく、背後の藪から人間が飛び出す。それらは逃げ惑う
藪の向こうから賊を探す声が聞こえてくる。
寸時、藪から馬が飛び出すや、それらを青龍刀が斬りつけた。瞬きをする間もなかった。
「なんだ。歯ごたえのねえ野郎どもだな」
乗り手が退屈そうに欠伸を噛みしめ、青龍刀に付着した血を布で拭う。
ユンジェは息を詰めた。
みすぼらしい格好をした乗り手は、一見卑賤の身分に思えるが、この目は誤魔化せない。簪で留めた赤茶の長髪、広い肩幅、眉目秀麗な容姿。なにより、好戦的な切れ長の眼はユンジェを畏れさせる。
(なんで、こんなところにいるんだ)
麟ノ国第一王子リャンテ。
悪漢どもは彼の手により、慈悲もなく事切れてしまう。弱かったことが非常に不満だったようで、「そっちから仕掛けてきたくせに」と、彼は舌打ちを鳴らした。
リャンテと目が合う。
体を強張らせるユンジェとは対照的に、彼は面白そうな玩具を見つけたと目を細める。一層、身を小さくしてしまった。リャンテには顔を知られていないものの、下手に関わりたくない。
「ガキ、とんだところを見ちまったな。命惜しけりゃ金目の物を置いて行けよ」
一気に恐怖が混乱に変わる。なぜ王族の男が、追い剥ぎのような振る舞いをしているのだろうか。路銀が足りなくなったわけでもあるまいし。
落ち着け。よく考えろ。見たところ、相手はきっと暇つぶしをしたいのだろう。
こういう型は、自分の想像を上回る展開を望むことが多い。本当に金目の物を狙っているのならば、有無言わさず青龍刀を振り下ろしている。子ども相手に、わざわざ言ってきたということは、ユンジェという子どもを弄び、玩具にしたいのだ。
仮に相手の要求を呑んで、金目の物を置いたとしても、思い通りに終わって不満足となり、ユンジェに青龍刀を振り下ろすことだろう。
そこで、しごく無知な振る舞いでリャンテに尋ねた。
「あんた。賊じゃないのに、どうして金目の物を狙うの? お金には困っていないだろ?」
それとは違うだろう、と事切れている悪漢どもを指さす。
「ほお。なぜ、俺が賊じゃないと思う?」
予想外の展開が好きなのだろう。彼は楽しげに問うた。
それはリャンテが王族の人間だから、なんぞと言えば、一気に相手は冷めてしまうことだろう。みすぼらしい格好をしているのだから、王族の身分は触れられたくないと思われる。
だからこそ、口調は小生意気なもので振る舞う。ここで恭しい態度を取れば、ユンジェが王族であることを気付いていることがばれてしまう。
ユンジェはまじまじとリャンテを見つめ、そっと纏っている外衣を指さす。
「その外衣、追い剥ぎが着るにはとても目立つよ」
また、リャンテの頭を指さし、象の簪は贅沢品の象徴だと教える。それを髪に挿せるのは、商人や薬師、地主といった金持ちばかり。金のない者達は、せいぜい木の簪に留まると主張する。
「あんた、一見みすぼらしい格好をしているけど、本当はお金持ちなんだろう? 簪だけじゃない。掛けている刺繍の頭陀袋や、つぎはぎ、穴のない麻衣。擦り切れていない上等な革靴は、平民じゃないことを教えてくれているよ」
どれも平民が纏うにしては綺麗すぎる。もっと、ぼろぼろになっていてもおかしくないのに。
革靴や刺繍の頭陀袋など、揃えることすら平民は苦労する。
それをやってのけているリャンテは金持ちだと告げた。奇襲を当然としている賊にしては目立つ格好をしているので、お金持ちが正体を隠しているように思えると、ユンジェは答える。
「なにより、本当の賊は今すぐ俺を斬り捨てるか、もしくは売るために捕まえるはずだよ。ここらへんの賊は、食い物を得るために襲う奴等が殆どだから」
数日の間、何度も賊に襲われたユンジェなので、ここの賊の特色は心得ているつもりである。
奇襲を仕掛けてくる賊の殆どは悪意がある、というより、生きるために襲う者達ばかり。リャンテはそれに当てはまらないので、賊には見えない。
努めて冷静に返事すると、リャンテが興味あり気にユンジェを見つめ、意味深長に笑った。
「ガキ、身分は?」
「農民。でも、今は持ち家も畑もないから、農民とは言えないや。なんて言うだろう」
田畑も畑仕事もしていない農民を農民と言えるわけもない。
ユンジェは改めて今の自分の身分は何だろう、と考える。如いて言えば、旅人だろうか。旅人は身分に入るものなのだろうか。知識の乏しいユンジェは、うんっと首を傾げてしまう。
結局、よく分からないと答えた。農民だが畑仕事も何もしていない旨を伝え、今は家なしであることをリャンテに伝える。
すると。彼は面白おかしそうに口角を持ち上げて、上等な頭陀袋に手を入れた。間もなくユンジェに向かって、一枚の硬貨を投げられる。
「農民のくせにひと目、身なりを目にしただけで、俺の身分をそこまで見ることができるなんざ、貴様はとても面白い目を持っているな。俺は貴様みてぇな、頭の回るガキは嫌いじゃねえ」
反射的に硬貨を受け取ったユンジェは、両手の平を広げ、目を瞠ってしまう。
そこには金色に輝く硬貨。金貨だ。大金だ。これ一枚で一ヶ月分の食事は賄える。いや、もっとかもしれない。
「俺を満足させた褒美だ。受け取っておけ」
草深い藪から数匹の馬が現れる。
どうやらリャンテの付き人らのようで、手綱を引くや、リャンテの無事を確認してきた。おおよそ白州兵であろう、その者達は事切れている悪漢どもを一瞥すると、リャンテに先へ急ごうと進言している。目と鼻の先に、青州兵がいるらしい。
「リャンテさま。青州兵が我々の動きを嗅ぎまわっているようです」
直ちに退散しなければ厄介事になる。付き人のソウハが険しい顔を作った。ユンジェに目もくれないのは余裕がない証拠だろう。
「ほう。セイウの野郎、宮殿に引きこもっているわりに視野が広いな。もう、俺達の動きを掴みやがったか。わざわざ、みすぼらしい格好をしたっつーのに。ちと、あいつを見くびっていたな」
リャンテは敵数を尋ね、隙あらば『賊』として返り討ちにしてやろうと笑みを深める。たいへん好戦的な男は、少しでも長く剣を振るいたいようだ。
しかし。ソウハに目的を忘れないように、と注意されたことで、王子の機嫌が下がってしまう。どうやら自分の思ったように動きたい、我儘男らしく、口煩く言われたくない性格のようだ。
とはいえ、癇癪を起こすほど愚かな男でもないらしい。舌打ちを鳴らすと、馬の手綱を引いて方向転換する。その態度が進言を受け入れたと示していた。
(いや、ちょっと待て。いま、青州兵って言ったか? まずいじゃんか!)
金貨を握ったまま、ユンジェは見る見る青ざめていく。
青州兵が近くにいる? 冗談ではない。いま、大人達は揃いも揃って高熱に魘されているのだ。見つかれば最後、ティエンらは捕まり牢獄行き。ユンジェはセイウの宮殿行き。飾られてしまう!
藪の向こうから
進めと、囲めと、挟めと聞こえてくる声は、本当に近い。リャンテが馬の腹を蹴り、兵に号令を掛けるのと、追っ手兵の襲撃はほぼ同時であった。
ああ、朝っぱらから、とんでもないことになった。なんてものを引き連れてくるのだ。
ユンジェは青州の騎馬兵を目にするや、洗ったばかりの布に手を伸ばし、ふたたび川の水に浸した。
今のユンジェの持ち物は、リャンテに貰った金貨と、帯に差した懐剣と、病人達に使用した布のみ。道具の大部分は岩穴の中だ。岩穴には病人の大人達がいるので、下手に戻ることはできない。
さらに言えば、懐剣を使うことも選ばなければ。リャンテらにティエンの懐剣であることがばれてしまえば、それこそ騒動だ。
(いや、ばれるのも時間の問題か)
騎馬兵がユンジェの顔を知っていれば、一巻の終わりだ。どうか、自分の顔を知らない兵達でありますように。
リャンテの仲間だと思われたのだろう。ユンジェの背中目掛け、騎馬兵の剣が振り下ろされる。
かろうじて、その場を退いたユンジェは、濡れた布を川から引き上げ、力の限り、兵の小手を叩く。濡れた布は乾いた布で叩くより、数増しの威力を持つ。りっぱな
叩かれた痛みに耐え兼ね、兵が剣を落とした。
急いでユンジェはそれを掴み、他方から向かってくる騎馬兵に向かってぶん投げると、大きく息を吸い、川に身を投げた。
命綱もなしに流れのある川に飛び込む行為は、とても危険だ。川の急流や藻に足を取られることもあれば、その水位の深さに溺れ死んでしまうこともある。
それでもユンジェは、そこへ飛び込むことを選んだ。少しで周囲の目から姿を晦ましたかった。
故意に頭まで深く潜り川に流される。
たくさんの水を飲みながら、どうにか岸に這いあがると、遠くにリャンテらと青州兵らが見えた。撒けただろうか。
と、青州兵らが指笛を吹き合い、数人がリャンテ達から身を引いた。
それらは追うべき相手に背を向けると一斉に方向を変え、川の流れに沿って馬を走らせる。慌ただしい空気は考えるまでもない。ばれたのだ。
ユンジェはふたたび川に入り、対向側の岸を目指して泳ぐ。
少しでも、この場から遠ざからなければ。
病人達がいる岩穴と川の距離は目の鼻先。もしも、彼らが騒動を聞きつけでもしたら。岩穴ではたき火を焚いている。小さな火種ですら、居場所を突き止められる可能性がある。ユンジェがやらねばならないのは、追っ手の青州兵らを遠ざけ、撒いて、病人達を守ることだ。
とはいえ、水を吸った衣で泳ぐのは至難の業。鉛のように重く、自由に手足が動かない。
さらに川幅が広いため、正直渡り切れる自信がない。気を抜くと力尽きて、溺れてしまいそうだ。
(もう、すこし)
震える手を伸ばし、やっとの思いで岸付近に生えている
しかし。ここで力尽きては捕まってしまう。
それだけではない。懐剣の所有者が危機に晒されてしまう。
高熱に魘されているティエンの顔が脳裏に過ぎったユンジェは、決死の思いで
縄を作る原理で葦を束ねると力を振り絞って、岸に這いあがった。人間の重みに葦がぎしぎしと軋むが、どうにかユンジェが岸に上がるまで持ってくれる。千切れなくて良かった。
「子どもがそっちの岸に渡ったぞ。捕らえろ」
心の臓が凍った。
顔を上げると、三人の騎馬兵が迫っている。こちら側の岸にもいたのか。おおよそ、リャンテらを遠方から討つつもりだったのだろう。みな、弓を構えていた。
内、一人が向かい側の岸から放たれた矢に首を射られ、悲鳴を上げながら落馬する。
驚き振り返ると、向こう岸でリャンテが短弓を構え、口角を持ち上げていた。青州兵の包囲をくぐり抜け、ここまで追いついて来た様子。なんて奴だ。
「走れ農民のガキ。援護してやる」
援護。助けてくれるというのか、あの男。
(何を肚のうちに隠しているんだ。ティエンの兄さん)
だが、うろたえている場合ではない。ユンジェとて捕まるのはごめんである。
残りの騎馬兵から逃げるため、がくがくと震えている足に鞭を打った。
青州兵はユンジェの足元や、向こう岸のリャンテに矢を放つ。
怖いもの知らずの第一王子は己に向かってくる矢を避けもせず、己の脇をすり抜けた頃合いを見計らって、矢を放ち返す。
さすが戦場に赴く血気盛んな王子。ティエン並に、いやそれ以上に腕が良く、三本目にして敵の頬を射た。
一本の矢が両頬を貫く光景は、中々に地獄図。その兵の顔を直視する勇気が出なかったユンジェは、思わず目を逸らしてしまう。
落馬の音を合図に足を止める。
倒れる兵を一瞥した後、向こう岸にいるリャンテに目を向けた。第一王子は背中に朝日を浴びているため、逆光で顔が見えない。いま、どんな顔をしてユンジェを見ているのだろうか。
いやいや、ぼさっとしている場合ではない。これは絶好の機会だ。
一方、見送ったリャンテは楽しげに口端を舐め、ゆるり短弓を下ろす。子どもの顔はしかと憶えた。
(青州兵がちっぽけな農民のガキを追うなんざ、理由は一つしかねえ。が、俺の身分に『見て見ぬ振り』をしたガキに免じて、俺も見て見ぬ振りをしてやるさ)
それに、ここで簡単に手に入れても面白くない。
やはり奪い合う中で、我が物にする快感がなければ。血のない奪略など興ざめもいいところだ。せっかく三兄弟、程よい争いが始まっているのだから、もっと盛り上がってもらいたいもの。
なにより。
「手に入れる前に、懐剣のまことの姿とやらを拝まないとな。俺に相応しい懐剣であることを願っているぜ、リーミン」
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