八.傷
「麟ノ国第三王子ピンインさま。ずいぶんと、手間を掛けさせましたね。楽しい放浪の旅はもう仕舞いですよ」
馬を引いて待つ、謀反兵カグムの開口一番の言葉はこれであった。ある程度、分かっていたが、やはりと言うべきか、なんというべきか、自分達はすっかり謀反兵に警戒されている。
(ま、二回もカグム達を出し抜いたんだ。仕方がないよな)
ユンジェは背後にいる兵二人を見やり、柳葉刀を突きつけられる現実に軽いため息をついてしまう。農民のユンジェはともかく、王族のティエンにその振る舞いは無礼に当たるのではないだろうか。
(数はカグムやハオを合わせて四人。馬も四頭。織ノ町で撒いた時と同じか)
もう少し、数がいても良さそうなのだが、なにか理由でもあるのだろうか。ティエンの居所が分かった時点で、分散させていた仲間を集めると思っていたのに。
さて。ティエンは不機嫌そうに眉を顰め、腕を組んだまま、一向に口を開こうとしない。
声を掛けてくるカグムを疎ましそうに一瞥して、顔を背けるばかり。まるで拗ねた子どものように、あさっての方角を睨んでいる。
この不機嫌に平然としているのはカグムと、ユンジェくらいなものだ。
他の者は王族の扱いに不慣れなのか、やや気まずそうな顔を作っている。どうも王族の怒りを買うことは平民にとって、しごく恐ろしいらしい。
こんなことで一々彼を恐れていたら、身が持たないと思うのだが。
ティエンの様子に、カグムがしかと釘を刺す。
「王子、三度目はございません。どのようなことをお考えなのか存じませんが、もしまた我々を出し抜こうものなら」
強い衝撃が胸の内から突き上げた。
ユンジェは素早く左の手で懐剣を抜くと、ティエンの体を突き飛ばし、太極刀をそれで受け止める。甲高い音が天に舞い上がった。
「ユンジェ!」
「やっぱり来たな。懐剣」
意味深長に笑うカグムは、ティエンを一瞥する。
次の行動を読んだユンジェは、彼を蹴り押すと、彼に向けられた柳葉刀達を受け流し、それらを真上に弾いた。瞬きする間もなかった。
けれど。カグムの太極刀が標的を変え、敵意そのものがユンジェに向けられる。
その瞬間、ユンジェは我に返り、あっけなく前乗りとなった。その身を受け止められ、左の腕を捻られるや、刃を首に当てられる。ああ、負けたのか、と冷静な自分がいた。
「カグムっ……貴様」
短剣を抜くティエンに、カグムは「これも申し上げましたよね」と、強調する。
「我々の申し出に応じなければ、手荒い真似をすると。ユンジェは私が預かります。これは貴方の護身剣、懐剣はあくまで災いから所有者を護る物。『持ち主』に≪敵意≫や≪殺意≫を向けなければ、なんの力も持たない子どもです」
いとも容易く人質にできる旨を、懇切丁寧に説明するカグムは知っていたのだろうか。ユンジェと懐剣の関係性を。
だったら、お節介な男である。わざわざユンジェの弱点をティエンに教えるのだから。言わなければ、いざという時に利用できただろうに。
(お前、わざとティエンを怒らせてばっかだな。嫌われるようなことばっかり)
ユンジェは脱力し、両の膝を崩す。
刃が首の薄皮を切ったが、それの恐怖よりも眩暈が強い。息が苦しい。吐き気も少々。肩も痛い。背後にいるカグムの、前にいるティエンの、焦った声が遠い。
「ふざけんなカグム、お前はクソガキを死なせたいのかっ!」
横からカグムの体を蹴り飛ばす男がひとり。ハオである。
彼はユンジェの体を受け止めるや、「重傷って意味を知っているか!」と怒鳴り散らし、怪我人をその場に寝かせ、首で脈をはかると、手早く衣の帯を緩め始める。
「少し脅す程度って言っていただろうが。なに、クソガキを激しく動かしてやがる! せっかく助けたガキを、てめぇは殺す気か!」
「あー……悪い。手加減はしたつもりなんだが」
カグムが決まり悪そうに太極刀を鞘に収める。
「手加減だぁ? あれのどこが手加減だ! いいか、こいつは出血で死に掛けていたんだぞ! 弱り切っているんだぞ!」
本当ならひと月は体を休ませて、療養に当てなければいけないところを、七日余りで移動させている。圧倒的に血が足りていないのに、こんな無茶をさせれば、だいの大人だって倒れる。ハオは阿呆だとカグムを罵り、二度とするな、といきり立っていた。
彼はどうも感情的になりやすい男のようだ。ユンジェが初めて会った時も、ハオはとても怒っていた。
頭に血がのぼると、ユンジェに駆け寄って来たティエンにすら、「動かすな」と大声を出す。完全に王族という肩書を忘れているようだ。
「お前ら、揃いも揃って怪我人をなんだと思ってやがる。くそっ、癪だがこいつを診たのは俺だ。完治するまでは俺の指示に従ってもらうぞ。クソガキ、お前もお前だ。なに激しく動いてやがる。今のお前は走る行為も危ないっつーのに」
「……そうさせたのは、カグムなんだけど」
「喧しいっ! お前はもう動くな。今日は立つことも禁止だ」
なんで自分まで怒られているのだろうか。ユンジェは吐き気と堪えながら、理不尽だと嘆きたくなった。
「足りなくなったユンジェの血は、どうすればいい? もう戻らないのか?」
ティエンが青ざめた顔で質問をする。それこそユンジェよりも、血の気のない面を作っているので、こっちが心配してしまう。
彼は戻らないわけないだろうと、悪態をつき、ユンジェに水を飲ませた。
「血を作るもんを食わせるしかねーよ」
「それを食せばユンジェは、元気になるのか?」
「まあ、時間は掛かるだろうがな。近頃じゃ、他人の血や動物の血、尿を体に入れるってのがあるみてーだけど、対象者はみんな死亡しているらしい。おぞましいったらありゃしねえ……ですよね。怖いですよね」
ようやく話し相手がティエンと分かったのだろう。ハオの口調がしどろもどろになる。彼は己の無礼な振る舞いに、冷や汗を流していた。
しかし、ティエンは態度よりも、血を作る食べ物の方が気になって仕方がないらしい。嫌悪している兵士相手に一体、それは何があるのだと追究していた。
ハオの言う通り、ユンジェの体は本人でも分かっていなかったほど、弱り切っているらしい。
そのせいなのか、馬で移動している間は眠りこけていることが多かった。せっかく初めて馬に乗ったというのに、景色を見る元気がない。とにかく気だるいのひと言に尽きる。
懸命に目をこじ開けていると、同乗するカグムに寝ていて良いと言われた。
「悪かったなユンジェ。お前を試して。怖い思いをさせた」
カグムは世話を焼いてくれる優しい男である。その一方で心意が読めない男でもある。ティエンの友で、彼を裏切った近衛兵。
心寂しい時に優しくしてくれた恩があるため、ユンジェはどうしても嫌いになれずにいる。
今だって、こうして真摯に謝るのだから、本当にずるいと思う。
「いいよ。カグムは俺の弱点を、ティエンに教えようとしただけだろう? やり方は酷かったけどさ。俺、あいつに言ってなかったから……使命以外のことで懐剣を抜いても、ただの役立たずって」
「おいおい、ユンジェ。何を勘違いしているんだ。お前はピンインさまをおとなしくさせる一番の道具。だから脅した。それだけだよ。言っただろう? お前は俺が預かると」
ユンジェは力なく笑い、そっと目を細める。
「知った弱点は普通、仲間内だけに知らせるだろう? なのに、カグムはそれをしなかった。俺やティエンが知ったら、当然策を打つって分かっているくせに」
カグムはわざとらしく顔を顰めると、舌打ちを一つ鳴らし、もう寝ろ、と強制してきた。図星だったようだ。
「ひとつだけ。なんで、俺の弱点が分かったの?」
「ユンジェの動きは何度も見てきたからな。お前はいつも自身の護りを疎かにして、ピンインさまを優先していたから、おおよその検討をつけた」
そして、さっき確信を得た。彼は控えめに自分を見つめ、こんなことを指摘してくる。
「ユンジェ、あんな戦い方をしていると、お前いつか死ぬぞ」
そんなことを言われても、ユンジェだって死にたくないし、痛いのは大嫌いだ。
けれども、使命を前にすると、頭よりも先に体が動いてしまう。よく考える行為も、ティエンを守るがため。
「その時の俺は、ちょっとおかしいんだ。恐怖を忘れる……護身剣、だからかな」
「恐怖を忘れる?」
聞き返してくるカグムに、寝息を立てるユンジェはもう何も答えなかった。
◆◆
野宿の場所は日中の間に決められる。それは勿論、夜になれば視界が利かなくなる上、周囲に何があるか把握できないからだ。
川があれば、水の確保ができる。横穴があれば、太陽の光と松明で中の安全を確認できる。もし、そこが安全なら雨風が凌げる。凶暴な獣の住処だと分かれば、素早く他の場所を探せる。
人里から離れた山や森林は、事細かな注意が必要だ。明日を無事に迎えたいのであれば、日中に目途をつけるべきだろう。
当然、カグム達はそれを心得ている。
川を見つけると、早々に野宿の準備を始めた。本当は夜中も馬で駆けたいようだが、生憎怪我人がいる。麒麟の使いを死なせるわけにはいかないと判断し、今日の移動は終わりとなった。
その頃にはユンジェも目を覚まし、少しだけ元気を取り戻していた。悩ましい眩暈も消えていたので、馬から降りると、さっそくティエンに川へ行こうと誘う。
「水汲みついでに、魚がいるか探してみようぜ。獲れたら今日の晩飯になるしさ」
彼から返事を貰う前に、「ふざけるな!」と頭ごなしにハオが怒鳴りつけてきた。
「てめえ、今日は動くなっつただろうが。川ぁ? もし、そこに落ちたら、体温が下がる上に、傷口に菌が入るかもしねーだろうが!」
なら川は諦めて森にしよう。ユンジェはたき火の枝を拾いに、森へ行こうとティエンに提案する。一層、ハオに怒鳴られてしまった。
「俺はおとなしく座ってろって言ってるんだよ! しかも王子に下々の仕事をさせようとするなんざ、どういう神経をしてやがる!」
そんなこと言われても、ユンジェはティエンといつも二人で野宿の準備をしていた。悪気があったわけではないのだが。
「気にするな、ユンジェ。お前が元気になったら、また一緒に魚を獲ろう。それまでは私が水汲みや枝を拾ってくるから」
「ぴ、ピンインさま。お願いですからそれは、我々にっ……」
ティエンがじろりとハオを鋭く睨み、彼を黙らせると、己の着ていた外衣をユンジェの肩に掛けた。
「お前はあたたかくして休んでおくんだ。無理をしてはいけない」
大丈夫なのに。大袈裟だと不貞腐れると、「ユンジェ」と、名を呼ぶ彼の笑みが深くなった。
美しい笑顔には、たいへん凄みがある。とんとん、と無言で地面を指さす彼に何度も頷き、ユンジェはおとなしく、たき火の側で腰を下ろした。ティエンがとても怖い。
(絶対にカグム達がいるせいだ。馬もハオと一緒だったしな)
兵士不信の彼にとって、兵との二人乗りはさぞつらいものであったことだろう。
しかし、気のせいだろうか。同乗していたハオの方が、やや疲労の顔を見せているような。不機嫌に当てられたのかもしれない。詮索するだけ野暮だろう。
「今晩はユンジェに、血の作る物を食べさせてやるからな。少し、待っていておくれ」
くしゃりと頭を撫でられる。川の方に向かう彼は、魚でも獲るつもりなのだろうか。ついて行きたいが、駄々を捏ねたところで、凄まれてしまうだけだろう。
ティエンの後をシュントウと呼ばれた兵が追って行く。念のため、カグムが見張りを付けたようだ。
本当はユンジェと共におとなしくして欲しいようだが、ある程度、好き勝手にさせた方が、王子も言うことを聞くと兵達も学んだらしい。
退屈となったユンジェは、たき火用の枝を手に取り、何気なく真っ二つに折る。その音を聞き、そっと顔を顰めた。他の枝も確かめるが、折れた音が鈍い。
「カグム。この枝じゃ、燃えにくいよ。火のつきが悪いと思うぜ? それに、このたき火の組み方……」
乱雑に組んであるたき火と向かい合い、手早く直していく。どうして、直す必要があるのだと、ライソウという青年に尋ねられたので、ユンジェは丁寧に説明をした。おおよそ彼が準備したのだろう。
「たき火を組む時は、下に小枝や葉っぱ、上に太い枝、にしていかないと燃えにくいんだ」
火というものは下より上の方が、温度も高いので、燃やすのに時間の掛かる太い枝を上に置く方が、燃え広がりやすく、火の持続時間も長い。
「蝋燭の火を指で揉み消す時、下側を抓んで消すだろう? あれは下の方が、火の温度が低いからできること。たき火も、火の温度を考えて組むもんなんだ」
ついでに枝を真っ二つに折り、これが湿気ている枝であることをライソウに教える。たき火に使う枝は乾いたものを使うのが鉄則。なのに、この枝は湿気ている。火を熾しても、燃え広がることが難しい。
たき火の枝を拾う時は、枝を折って、ぱきっと乾いた音が出るかどうかを確認することが大切だと、ユンジェは語った。
それを後ろで静聴していたカグムが、感心したように相槌を打つ。
「へえ。ユンジェ、詳しいな。たき火の組み方は知っていたが、その理由は知らなかったよ」
「冬は薪を売って生活していたからね。たき火も毎日のようにしていたし。それに、
すると。話を聞いたカグムがライソウに向かって、こんなことを言う。
「ライソウ、ついでにユンジェから火のつけ方も習った方がいいんじゃないか? お前だけだぞ、この中で火打ち石が使えないの。貴重品の
困ったように吐息をつくカグムに、ライソウは「あれは面倒で」と、苦笑い交じりに言い訳を述べる。ユンジェは
「ティエンだって、火打ち石を使えるのに」
ライソウは血相を変えた。王族ができるわけがない。信じられないと言われてしまうが、嘘はついていない。ティエンは一人で火を熾せる。
そこでユンジェは本当であることを証明するため、戻って来たティエンに、たき火の話をして火をつけてくれるよう頼む。
事情を知った彼は頭陀袋から火打ち石を取り出すと、打ち金でそれを叩き、手際よく火種を飛ばした。
あっという間に火を熾したティエンは、その出来栄えに、たいへん満足気であった。一方、カグムは固まっているライソウに肩を竦め、ちくりと言う。
「ピンインさまが火打ち石を使えて、下々のお前が使えない。流石にまずいんじゃないか。確かにお前は人の貴族出身だから、
どうやら火打ち石は身分の低い者が使う代物らしい。そういえば、ティエンも最初は火打ち石に戸惑っていたような気がする。
(まあ、ティエンの場合、火を扱うこと自体はじめてだったみたいだけど。それより)
ユンジェは貴族に詳しくないので、つい気になることを口にする。
「人の貴族って? 貴族は人じゃないのか?」
カグムが笑い、そうじゃないと手を振る。
「階級の呼び名だよ。『天地人』って言葉になぞらえ、上から天、地、人の貴族と呼んでいるんだ。簡単に言えば、貴族の中で偉い順を決めているんだよ」
さらに細かく言うと、同貴族の中で大中小と分かれているそうだ。ユンジェは言葉を反芻する。忘れないようにしなければ。
さて。戻って来たティエンはご機嫌であった。川で大物を獲ったようだ。腰に下げていた布紐を解き、それを素手で持って見せびらかしてくる。
「どうだユンジェ。これは私が今まで捕まえた中でも、飛び切りの獲物だと思うぞ」
ユンジェは目を輝かせたが、なぜであろう、カグム達は静まり返っていた。
「すごいなティエン! そんなでっかいカエル、よく見つけられたな!」
そうだろう。そうだろう。ティエンは顔ほどある、大きなカエルを嬉しそうに見つめた。
カエルの中には、食用になる種類もいる。
ティエンが獲ってきたのはまさにそれで、旅に出る前はよく二人で獲って、飢えを凌いでいた。カエルは鶏に似た風味をしており、大変美味である。ユンジェは舌なめずりをした。
「川にいたのか? それ」
「ああ、岩の間に潜んでいたところを捕まえたんだ。こんなに丸々太ったカエルなんだから、食べる部分も多い。肉を食べると、血が増えるそうだぞ」
はやく元気になってほしいティエンは、ユンジェにもう何匹か捕まえてくると告げ、今晩の食事を楽しみにしておいてくれ、と微笑んだ。
彼の優しさに、くすぐったい気持ちを抱くユンジェだが、様子を見守るカグムはげんなりと肩を落とし、ハオに苦言する。王族が素手でカエルを捕まえたばかりか、それで料理をする、と発言したことに思うことがあるようだ。
「ハオ、お前……王子に余計なことを教えやがって。ピンインさまは王族なんだぞ」
「いや俺は! 血を作る食い物には肉もありますよ、と教えただけで、カエルとは一言も言ってねーよ! あれは平民の食い物っ、誰がどう見てもクソガキのせいだろうが! 見張りにシュントウをつけたんだろ? なんで止めなかった!」
どうやらカエルは、王族が触れて良いものではないらしい。口にすることも、良くは思われないようだ。鶏のような味がして美味しいのに、とユンジェは不思議がる。
「おっ、ユンジェ。こんなところに、コガネムシがいる。ほら」
ティエンがカエル片手にコガネムシを捕まえると、ハオが青ざめた顔で息を呑む。
「カグム。麒麟の加護を受けている王子が、虫を素手で捕まえてるんだけどっ……あれはまずいぞ」
「……ピンインさま。虫はお捨てになり、カエルはカグムにお渡し下さい」
謀反兵にとって、ティエンは王子でいてもらわなければ困る存在。
王族の品位を下げるわけにはいかないと判断したカグムが、それをこちらに渡すよう促す。カエルは下々で処理し、ユンジェに食べさせると告げたが、それを聞くや仲間内から非難の声が上がった。
「カグムてめえ、言うだけ言って俺達に任せるつもりだろうが! 分かってるんだぞ!」
ハオに図星を突かれたカグムはたっぷり間を置き、「ユンジェがする」と、言って視線を横に流す。
どうやら彼らは獣の処理をしたことがないようだ。狩りの経験もないようなので、食い物はいつも町で買っていたのだろう。食べるものに困ったこともないのだろう。
しかし。貧しい農民と暮らしていたティエンは、それを経験している。ゆえに獲物は手放さず、生きているコガネムシをハオ達に投げつけると、ぱっくり口を開けて伸びているカエルを、カグムの目の前に突きつけた。
ぎょっと驚いて身を引く彼に、ティエンは鼻で笑う。
「これに触れられもしないとは、意気地のないことで」
カエルを布紐に結び直すと、彼はもう一度、川に行って来ると言って歩き出した。ユンジェは逞しくなったティエンに目で笑い、深いため息をつくカグムを見上げる。
「頼もしくなっただろう? ティエン」
「やんちゃすぎるくらいだ、俺の知っている、か弱い王子はどこへやら。あの気丈夫さと小生意気さは、お前に似ている気がするよ」
つい笑いを噛み締めてしまう。それは光栄だ。
ティエンはとても働いた。ユンジェが動けない分、率先して水汲みや枝拾いをし、血になりそうな獣を狩って夕餉としてこしらえた。
一方で、ユンジェの面倒を率先して看てくれた。食事、着替え、寝る時は傷が痛まないよう、頭陀袋を空っぽにして、それを敷いてくれた。
下々の仕事は王子のすべきことではない。
兵達は幾度も止めに入ったが、彼は頑なに拒み、兵の手を突っぱねた。自分で出来ることは、自分でしたいようだ。
けれど、あんまり働き過ぎると、ひ弱な彼は倒れてしまうのでは。いくら逞しくなったとはいえ、彼の体力なんぞ高が知れている。
「ティエン。ごめんな、俺の分まで働かせて。疲れてないか?」
「ユンジェ、お前は怪我を治すことだけに専念するんだ。大丈夫、お前のことは私が必ず守る。寝ているお前に、兵なんぞ近づかせない」
ちなみに。カグム達と初めて過ごす一夜は、たいへんな騒動に見舞われた。ティエンの兵士不信が全面的に出て、自分に近づく兵はみな威嚇したのである。
事の発端は王族と農民が一緒に寝る行為について、カグムがそれを咎め、二人を離させようとしたことにある。当然、ティエンは怒り、短刀を抜いた。
あまりにも興奮し、それを振り回すので、落ち着かせるのにとても苦労した。
この一件により、無理に引き離して寝させる行為は無くなったものの、ティエンの兵士不信の根深さを思い知ることになる。
そんなこともあり、ユンジェはティエンに心配を寄せているのだが、今の彼は自分の言葉だって聞きやしない。ユンジェが元気になるまでは、自分が動くの一点張りなのだ。はやく元気になってほしいのだろう。
(変なところで、気張るんだよな。あいつ)
頑固になるティエンに聞く耳を持たせるには、ユンジェが元気になるしかないだろう。
しかし彼の想いとは裏腹に、ユンジェは高い熱を出した。五日目の野宿の夜であった。
その日の調子はどうもおかしく、野宿場所を決めた辺りから、妙な胸騒ぎを覚えた。誰かが追って来るような、そんな不安な気持ちに襲われたのである。
そしてそれは眠りについても続き、恐ろしさに魘されていたところ、隣で寝ていたティエンが異変に気付いて、高熱は発覚した。
「まずい。傷口が化膿している。菌が入ったのか。膿んでやがる」
包帯を解くハオの声が遠い。ユンジェはうつらうつらと顔を動かした。視界が揺れているのは、自分の目が潤んでいるせいだろう。ああ、肩が痛い。頭が重い。ここは不安だ。
「ハオ。なんでユンジェは熱を出してしまったんだっ。川には入らせていないぞ」
「んなの、考えれば分かるだろうがカグム。外で寝ていたからだよ。包帯を替えていたとはいえ、毎日同じ衣を着ている。着替えもねえ。そして寝る場所は草や冷たい土の上。菌の好む条件は嫌ってほど揃っている。湯は沸けたか!」
ずいぶんと周りが騒がしい。ユンジェは他人事のように、その様子を眺めていた。
暁方、ユンジェの意識はおぼろげなものになっていた。
声を掛けられると、返事こそできるものの、理解するのに時間を要する。水を口元に運ばれても、まったく飲み込めない。痛みや熱すら遠いものに思えた。
なにより追って来る数が、その恐怖が一層強い。ここは危ない。本能が警鐘を鳴らしている。
「くそっ。膿みは出し切ったが、こう高い熱があっちゃ出発なんて到底無理だぜ。せめて熱を下げねーと、ガキの体力が持たない。出発は延期するべきだ」
出発延期。
ユンジェはその言葉に反応し、消えそうな声でハオに言う。自分は大丈夫だから、出発してほしいと。素っ頓狂な声を出された。ふざけたことを言うなと、お前は死にたいのかと、盛大に怒鳴られる。
「ユンジェ。私も反対だ。お前にこれ以上、無理をさせるわけにはいかない。お前がなんと言おうと、ここで休む」
「でも」
「言うことを聞きなさい」
ティエンにまで、怖い顔で叱られてしまった。けれど、ユンジェも譲らない。
「いまの俺じゃ……おまえを守り切れないよ。そこまで、もう来ている」
「来ている? ユンジェ。何が来ているんだ?」
「おれはお前を守る懐剣なのに、あの数じゃあ無理だ。多いよ。とても、多い。恐ろしいよ、ティエン。おまえを死なせたくないよ」
「ユンジェ? 何を言っているんだ。気をしっかり持ってくれ。ここには何もいないよ。だから大丈夫、落ち着いてくれ」
肩を掴む彼の声がとても遠い。ユンジェはうわ言を繰り返した。出発しようと。ここは危ないと。
すると何かを察したカグムがライソウとシュントウを呼び、偵察を命じた。程なくして、馬を走らせた二人が戻り、目にした事を知らせる。
曰く、南の方角に将軍カンエイ率いる隊の天幕を発見とのこと。
それは黄州の王族直属の兵だという。カグムは舌打ちを鳴らし、「もうここまで来たか」と、強く頭部を掻いた。
「さすが、知将と謳われた将軍カンエイ。【謀反狩り】の手が早ぇな。どこで俺達の足取りを掴んだんだよ。数をばらけさせて、かく乱させたつもりだったのによ。町人側の間諜達は無事だといいが」
ユンジェは遠のきそうな意識を必死に手繰り寄せる。
そうか、カグム達が仲間と合流しなかったのは、追っ手の目を誤魔化すため。きっと、カグム達以外の謀反兵も紅州各地で逃げ回っているのだろう。
将軍カンエイは天士ホウレイの手下を根絶やしにするためにやって来た。
勿論、これはティエンにとっても悪い話だ。王族の兵に見つかれば、当然ティエンは殺されてしまう。
(この胸騒ぎは将軍タオシュンの時と同じっ、ティエンが危ない)
守らなければ。自分は彼の懐剣なのだから。しかし、そんな懐剣は今、役立たず。
ならば逃げよう。さもないと所持者が傷付いてしまう。ユンジェを置いて逝ってしまう。それが、とてもこわい。高い熱のせいか、心が弱気になった。
「ティエン。こわいよ、おまえを死なせたくないよ。熱なんて辛抱できるよ。こんなのヘーキだよ。だから」
生きるために逃げよう。
ティエンはうわ言を漏らすユンジェを見つめる。
握り拳を作り、下唇を噛み締めた。天は慈悲すら与えてくれないのだろうか。この子どもを休ませる、その時間すら。
「ピンインさ……ピンイン。出発するぞ。『護り剣』のガキは、お前に迫る災いを感知できる。ガキの言葉はうわ言じゃない。これから起こりうる――現実だ」
何を思ったのか、カグムは昔の口調で話し掛けてくる。まったくもって腹立たしい。そんなこと、言われずとも分かっているのに。
ティエンは冷静だった。嘆いたところで現状は変わらない。悲観したところで結果は同じ。それを変えることができるのは、行動のみ。ティエンは嫌というほど、それを学んでいる。
(もし此処で兵と鉢合わせたら、ユンジェは使命に駆られ無理をする)
そうはさせない。自分はユンジェを生かすと心に誓っている。
(ユンジェ、すまないな。お前を休ませられなくて。だが、もう少し頑張っておくれ。必ずお前を救ってやるから)
ティエンに一点の迷いもなかった。守るべきものがあると、人はこんなにも強くなれる。たとえ、憎き兵達が目の前にいようと、何を優先すべきなのか冷静になれる。
「カグム、出発の前にいくつか確認をしたい。将軍カンエイの天幕と兵達の数、そして今後の行く道について詳しく聞かせてくれ」
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