背中 じゅうご

 刑事は存外、きれいにものを食べる男だった。

 さゆみは男性の食事の仕方にうるさい。食べ方が汚い男とは同席しないと決めている。学生時代の合コンの時も、食べ方が汚い男がいたら、さっさと帰っていた。


「で、俺がどこまで知ってるのか知りたいんだったな」


 コーヒーをすすりながら刑事が口を開いた。さゆみは黙ってうなずいた。


「ギブアンドテイク。それでいいだろ。あんたが先に話せよ」


「なんで。話しかけてきたのは、そっちでしょう」


「弱みがあるのは、あんただよな」


 まったく、その通りだ。さゆみは軽くため息を吐いて話し始めた。


「あの女が報道されたゴシップ記事は全部調べた。新聞記事もね。いなくなった男たちの名前も、住所も、訪ねてみた。あの女の生活もだいたい把握してる」


 追加で頼んだコーヒーを一口飲んで黙りこくったさゆみに、刑事は手を振ってみせた。


「もっと話せよ」


「あなたが話す番でしょう」


「あんたの話を全部聞いてからだ。あんたは、肝心なところを話していない。なぜ、高坂百合子を追っている」


 さゆみはまた、ため息を吐いて、テーブルに肘をつくと祈るように両手を組んだ。


「『背中 二十歳』のモデルは元宮大基よ。元宮大基は私と付き合ってた。二十歳の時、大基は消えたの。大基はあの女の家に行って、そこで消えた。私は大基を探してる。消えてしまった大基を」


 震えて、それ以上話せなかった。刑事はテーブル越しにさゆみの肩をぽんと叩いた。


「すまんな、試すようなことをして。あんたが本気であの女を調べているのか知りたかったんだ」


「本気じゃなかったらストーカーになんかならないわ」


「だな。じゃあ、俺の知っていることを話そう。もちろん、捜査に支障のない範囲でだが」


 刑事は無精ひげの生えた顎をじょりじょりと触りながら視線を天井に向けた。考え考え話していく。


「まず、橋田画廊の受付、船木美和。彼女は何も知らないし、話さないな。あの女に心酔しているのかもしれない。あたっても時間の無駄だ」


 美和から情報を得ようとは思っていなかったさゆみは、刑事の捜査方法というものに興味を持ったが、聞いてももちろん、教えてはくれないだろう。黙って続きを待つ。


「同じように、画廊のオーナーも、あんたには話さないだろう。逆に聞き出そうとやっきになるだけだろうな」


 それはそうだろう。尾行して、なにか弱みを掴んでから、あたるつもりだった。


「そうすると、あんたはもう何も出来ることがないわけだ。あの女のことは忘れて、普通に生きるのがいいんじゃないか」


 さゆみは刑事の言葉を鼻で笑ってみせた。


「普通とか、そういうのは、どうでもいいんで。時間の無駄ですから、話したいことはさっさと話してください」


「あんた、かわいげがないって言われない?」


「余計なお世話です」


 刑事はニヤリと笑った。


「わかった。聞きたいことはひとつなんだ。『背中 二十三歳』。あの絵は、本当に高橋大佑なのか?」


「そうよ。ずっと尾行して、彼の家も知ってる。百合子の家から出て来なくなった時期も」


「あんた、警察関係者の前で男を尾行したなんて、ぶっちゃけるのはよせよ」


「私は何も怖くないわ」


「こっちが怖いんだよ。犯罪の話を聞いて聞き流すのって勇気がいるんだぜ」


 さゆみは素知らぬ顔で会話を続ける。


「高橋大佑は去年、二十二歳の時から高坂百合子のモデルをしている。出会ったきっかけはわからなかったわ。そのへんのこと、警察の力で調べられるのかしら」


「まあ、不可能じゃない。詳細は話せないけどな」


「なら、何なら話せるの」


「あんたの彼氏のことなら、語り合える。あの女のモデルになったきっかけってなんだ?」


「そんなこと、とっくに知ってるんじゃないの?」


 刑事はとぼけた顔で首を横に振ってみせた。


「残念ながら、元宮大基が消えたってことは、あんたしか知らない。なぜだか元宮の家族は捜索願を出さなかった。大基のことを探しているのは、あんただけだ。それはなぜだ?」


「大基の家族が黙っているのは、お金のためよ」


 今度は刑事がため息を吐いた。


「金の出どころは、あの女か」


「もちろん。大基はあの女と一緒に、今もあの家、橋田坂下の家に暮らしていることになっている。大基の家族の間ではね。もちろん、そんなこと、家族の誰も信じていないのにね」


「あんたは話さなかったのか」


「話したわ。何度も。大基が大学であの女からモデルを頼まれたこと。あの女の家に通い出してから姿を消したこと。完全に行方不明になった時も、最後はあの女のところにいたことも。でも、大基のお父さんも、お母さんも、苦笑いするだけ。私の頭がおかしいとでも言いたいみたいに」


 さゆみは鼻を鳴らして笑う。


「でも、本心は、違う。彼らは知ってて黙っているの。大基に帰ってきて欲しいなんて、ひとかけらも思っていないのよ」


 さゆみは唇を噛んで考えていたが、低い声で打ち明け話をするように口を開いた。


「大基の両親は再婚で、義理の母親は大基をかわいがらなかったそうよ。父親は母親の言いなり。大基の腹違いの弟はまだ四歳。大基の存在すら知らないの」


 コーヒーカップを持ち上げて、カラになっていることに気付き、ソーサーに戻す。さゆみの目はコーヒーカップの底に向いている。過去を覗き込むように静かに見つめている。


「大基を守れるのは私だけだったのに……」


 刑事は前かがみになって、小声でさゆみに尋ねた。


「あんたは、元宮大基は生きていると思うか?」


「生きているわ」


 さゆみは刑事の目を正面から見て強い口調ではっきりと言いきった。刑事はゆっくりと瞬きをして、次を問う。


「どこにいるか知っているのか?」


「知っているわ」


「どこだ? 軟禁でもされているのか?」


「軟禁? そうね。近いかもしれない」


「居場所がわかっているなら、どうして警察に通報しない」


「しても無駄だから」


「なぜ」


 さゆみは刑事を睨みつけているかのような強い視線をそらさない。


「大基は、あの絵の中にいる」


「あの絵?」


「『背中 二十歳』あれは大基なの」


「それは聞いた。元宮大基がモデルをしたと」


「モデルは消えるの。みんな、絵の中に塗り込められるのよ」


 刑事はいぶかしげに眉根を寄せた。


「どういう意味だ?」


「その通りの意味よ。モデルをした人間は、みんな消える。みんな、絵の中に取り込まれるの。死んでなんかいない。あの絵が、あの絵そのものが大基なの」


 刑事は黙ってさゆみの目をじっと見つめ続けた。さゆみも目をそらさない。刑事の目は揺れていた。

 信じられないと否定する気持ちだけではない。信じようとしている思いがあると、さゆみは感じた。

 刑事がソファからゆっくり身を起こして目を固く瞑る。腕組みして、ふーっと大きなため息を吐いた。


「本気で言ってるのか」


「本気よ」


「そんなこと、誰も信じない」


「あなたは違うわ」


 目を開けた刑事は、さゆみの強い視線にさらされた自分の心の傾きに気付いた。半分は刑事として、世間の常識に沿った目でさゆみを見ている。しかし、もう半分は、この不可解な事件に奇怪な力が働いていると感じて一人で動いていた自分の勘を信じようとしていた。


「みんな消えて、残るのは絵だけなの」


 さゆみの言葉は力を失わない。


「大基は、あの絵の中にいるのよ」

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