背中 ご

 珍しく、オーナーが店にやって来た。緊張して背筋が痛むほど姿勢を正す。


「ご苦労様。変わったことはないかな」


「はい。特には」


 尋ねられても、本当になーんにもない。お客はほぼ来ないし、来ても冷やかしだし、絵を買おうなんて奇特な人は、この不景気の中、いないんじゃないかな。


「あ……」


 オーナーが私が漏らした呟きに反応して、首をかしげる。


「なにか、あったのかね?」


 なにかというほどのことはない。先日の熱心なお客様のことを思い出しただけだ。報告するほどのことでもないのかもしれない。しかも、もし見込み客だったのなら、逃がしてしまって、私の能力にマイナス査定がつくかもしれない。


「えっと……」


 それでも、この変化のない毎日に投じられた小石の描くさざ波を誰かに伝えたいという思いがせりあがった。


「熱心に絵をご覧になっていた女性がいらっしゃいまして。でも、すぐに帰ってしまわれたんですけど」


「若い女性?」


 オーナーが興味ありげに、こちらに向きなおった。これは、もしや、重大事だったのかしら。


「二十代後半くらいの、えっと、普通の女性で。高坂先生のライフワークの絵をじっと見つめていらしたんです」


「百合子君の絵を。兄の絵ではなく?」


「はい……」


 画廊の隅に、ほんの少しだけ置いてあるオーナーのお兄さんの絵をチラリと横目で見る。確かに、橋田坂下の絵なら、取りつかれたように見つめるお客様は多い。そして、そんな客は、どんなに高額でも即座に買って行くと言い張る。


 だが、高坂百合子の絵を買いたいと言った客は今まで一人もいない。

 美大を卒業してはいるが、美術展の受賞経験もない、弟の背中しか描いていない人の絵を誰が買うだろう。


「その女性は名乗ったかね?」


「いいえ、お名前は……」


 オーナーは腕を組んで考え込んだ。いつも、売り上げ帳簿を見て眉を顰めるときよりも、ずっと厳しい顔をしている。


「もし、その女性がもう一度来たら」


 顔を上げたオーナーの表情は、見たことがないほどに引き締まっていた。まるでこれから戦いに行くゲリラ兵士のようだな、と、ゲリラ兵士など見たこともないのに、思った。


「引き留めておいてくれ。そうして連絡をくれ。すぐに来る」


「え……、でも。先日はすぐに、お急ぎだったみたいで走って出て行かれて……」


「いいから」


 オーナーは今まで見たことがないほど怖い顔をした。


「その女性が、加藤田さゆみなら、絶対に引き留めるんだ」


 私は迫力に押されて、ただ、頷いた。

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