第15話 じゅうご
百合子の部屋に上がるのは二度目だ。
あいかわらず、雑然としているようで心地よく片付いている。
開け放した窓から、かわいた涼しい風が吹き込んでいた。
百合子は一脚の椅子をキッチンの真ん中に据えた。その後ろにイーゼルを立てる。邪魔になるキッチンのテーブルと、椅子を一脚、たたんで隅に寄せた。
「じゃ、大ちゃん、この椅子に座ってね」
指示され、キッチンの真ん中に置かれた椅子に座る。百合子に背を向ける。とたんに、あの感覚がぞくぞくと背中をかけ上る。
むずがゆいような、
不安なような、
安心するような、
逃げ出したいような、
いつまでもひたっていたいような。
見られている。
当たり前だが、ひしひしと感じる。
視線。
背中を這う。
肩をすべり、わき腹をくすぐり、腰をさすり。
背骨をかけあがり、首に息をかけ、耳の裏をくすぐる。
肩甲骨をさすり、手のひらをすべらせるように、肩から腰へ。
その視線は、質量を持っている。その視線は、圧力を持っていた。
次第に視線は背中からわき腹を辿り、腹へ、胸へと這って来た。まるで愛撫するように、ゆっくりと。見えないことなど問題にもしない。
視線は、顔まで這い上ってきた。頬を撫で、唇を押し開き、舌をくすぐり、喉の奥まで。
止むことのない視線の侵食に、体中を舐めつくされる。背中だけではすまないのだ。腹も胸も顔も頭も喉も喉の奥も内臓まで。すべてをくまなく観察され、慰撫される。
自分が自分でなくなったように感じた。
自分がただの肉塊であるように感じた。
その肉の塊が崩壊するぎりぎりのところを、握りしめ留めている魂までをも、撫でさすられ、解きほぐされ、自分がなにものであるのかすら、わからなくなっていった。
ただ、背中だけを感じていた。
ただ、視線だけを感じていた。
次第にぼうっとして、何も考えられなくなる。
ただ、見つめられている。
自分が何者かは問題ではない。大切なのは、背中だ。
背中だけが、この世と繋がっていた。
どれくらい、時間が過ぎたのか、わからない。 数十分、数時間、数日。
数年、あるいは数秒?
ただ、じっとしていた。
視線にまさぐられながら。
ふと、百合子のことが気になった。
彼女は、どんな顔をしているのだろう。はたして本当に、絵を描いているのだろうか。
もし、彼女がナイフを構えていたら?
もし、ロープを握っていたら?
もし……
「大ちゃん?」
びくっとすくみあがる。百合子は立ち上がり、大基の目の前へ歩いてきた。手にはナイフもロープも持ってはいない。
「まあ、すごい汗。体調が悪いんじゃないかしら?」
彼女の手が額に触れる。ひやり、と冷たく確かな感触がする。どこか無機質で生命を忘れてきたのではないかと思った。
「熱いわ……。あなた熱があるのよ。少し、休みましょう。横になって」
彼女の言葉が体を通り抜けていくような気がする。いつまでも額にひやりとした感触が残る。百合子は和室の襖を開けて中に入った。奥の百合子の部屋からタオルケットとクッションを和室に運び入れて、キッチンに戻ってきた。
「立てる? 畳で少し、横になっていて」
よろよろと立ち上がる。力が入らない。頭がふわふわとして、なんだか自分の体が霞にでもなってしまったかのようだった。
和室は六畳で、押入れと天袋があるだけだった。家具などひとつも無く、がらんとしていた。百合子のクッションを枕に、冷たい畳にじかに横になると、体の火照りを畳に移すようで気持ちよかった。百合子はケットをかけてくれながら言う。
「少し休めば、気分も良くなるわ。ゆっくりおやすみなさい」
大基は目を閉じた。
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