第23話)タイ★パタヤ移住への道

日本を逃げるように飛び出して早や一ヶ月、いかがわしい旅から始まった僕のアジア逃避行は、愛着の街パタヤにようやく落ち着くと、はたして流れに任せるままに、タイ移住を決断する運びとあいなった。


今、振り返れば、それは勢い余った単なる若気の至りのようであり、南国の穏やかな空間に甘え頭をやられた放浪者の成れの果てといった態であった。それでも僕の思いはというと、なんとか30歳までは自由にやりたい、いや、やらせて欲しい。当時27歳だった僕は自分に残り2~3年という猶予期間を勝手に設けると、それまでに何かしらタイで結果を出して、両親に認めてもらうしか方法はない!という決意に満ちていた。


僕は、両親に全てを打ち明ける前に、納得させるための準備を整えるべく、タイ移住へ向けて色々と動き始めた。結局、いつも僕が両親に伝える時は、自分の中で全てが決まった後で、それはただの報告であった。


タイ移住のために、先ず処理しなければならない問題は東京の賃貸アパートだった。時は2002年の師走を迎えようとしていた頃合、僕は不動産会社の管理人に国際電話をすると、振込が遅れている家賃の件を詫び、それが理由であるかのように、「実は急な話で申し訳ないんですが、諸事情で会社を辞めて、田舎に帰ることになったんです…」と嘘をつき、年内いっぱいで賃貸解約したい旨を告げた。


上京してから8年近く住み続けた下北沢の木造アパートは、ちょうど4年に一度の更新時期が迫っていたこともあった。それまで家賃滞納などしたこともなく、特に問題もない住居人だったのが良かったのか、管理人のおっさんは僕の話を当然のように信じ、親御さんが何かご病気でもしたのか?と変な勘違いをし同情してくれ、うまいこと大家に話をつけてくれた。年末の引越しは大変だろうからと、年明けの15日までに部屋を空け渡してくれという事で話はまとまった。


滞在ビザの問題は、カンボジア~タイ入りしてから一ヶ月を迎える頃、リュウさんに付き添ってもらい、パタヤのイミグレーション(入国管理局)で滞在延長の手続きをした。イミグレは現在あるジョムティエンに移転する前で、当時は中央パタヤのソイ8にあり、バービア群の中に佇む南国らしい簡素な建物だった。


リュウさんは12月半ばに日本に帰国する予定だというので、僕もついに帰国することにした。飛行機はエアインディアのオープンチケットで復路分の片道が残っていたので、近くの旅行代理店に行き、200バーツ程の手数料で予約を取ってもらった。滞在ビザも延長できたし、これで目の前にある諸問題はとりあえず解消した。しかし、ダラダラと長く居座ってしまったせいか、肝心の手持ち資金が底をつきかけていた。


面倒見のいいリュウさんは、そんな僕の懐事情も最早ご承知の様子で、ある日、一人の知り合いを紹介された。今ちょうどパタヤに来ているというその知人は、ハワイ生まれの日系アメリカ人で名前はデニー田中といい、リュウさんは「デニーさん」と呼んでいた。デニーさんは見るからに人の良さそうな日本人の中年おじさんといった風貌だが、妙なイントネーションの日本語のせいで怪しさの方が断然、際立っていた。


投資家だというデニーさんは現在アメリカのLA(ロサンゼルス)に住居を構え、年に何度かタイを訪れているという。恥ずかしげもなく自分の事を自慢するように語るその話しぶりと内容から、どうやら結構なレベルの富裕層といった雰囲気であった。リュウさんとはバンコク時代に日本人街のタニヤで知り合ったらしい。


落ち合ったブアカオ通りのカフェ店で、僕を紹介してもらい、リュウさんが諸々の事情を簡潔に話すと、デニーさんは「ワカリマシター。イクラ、カシテ、ホシイ、デスカー?」と金貸し屋のようにすぐに話を了承してくれた。一応ながらリュウさんが保証人のような形になり、僕は残りの滞在期間を快適に過ごすのに十分な2万バーツ程をデニーさんに借りることになった。現金は日本の銀行にあるので、年明けパタヤに戻ってきた際に一括で返済しますという条件で、無利子で借りることが出来た。


それはリュウさんの信用があるからなのだろうが、異国で出会って間もない、見ず知らずの僕に簡単に大金を貸してくれるなんて、なんと懐の大きいアメリカ人なんだと甚く感謝した。リュウさんはそれぐらい彼はリッチな人だから大丈夫だよと僕に告げたが、デニーさんはその時の僕にとって、まさにパタヤのあしながおじさんであり、恩人となった。


同じくアメリカ人である親日家のニックとは、彼の滞在期間の2週間、毎晩のようにバービアで一緒に飲み歩いた。僕が、実は仕事を辞めていたこと、そしてパタヤに移住してリュウさんと何か一緒にビジネスをやるつもりなんだと打ち明けると、ニックは自分のことのように喜んでくれた。「俺もそのうちパタヤに住もうかな!メイビー?」と僕らの仲間に入れて欲しそうに羨ましがった。しばらくすると、ニックのパタヤ滞在も終わり、帰国日を迎えた。僕とリュウさんは「日本に戻ったら年内にも必ず二人で店に会いに行くよ!」とニックと再会の約束を交わした。


2002年当時のタイはようやく一般にも携帯電話が普及し始めた頃で、タイではプリペイドカード形式が流通しており、機種はノキアが主流だった。街中では公衆電話を利用する人がまだ多くいたが、コンビニ前などのちょっとした軒先スペースに簡易テーブルを置き、携帯電話を数台並べて「通話料金1分○バーツ~」みたいな携帯利用サービス屋が現れるようになった。今後のためにとリュウさんに勧められ、僕も携帯を購入することにした。それはノキアを真似たような形のタイブランド製で、SIMカードと合わせて2,000バーツ程度の格安パック商品だった。


言語表示はタイ語と英語しかないため英語版に設定する。リュウさんとやり取りする際は日本語をローマ字で記述したメールを多用するようになった。それは電話するよりもメールの方が料金が安く済むからだった。携帯電話を持つようになったことでリュウさんとの連絡もスムーズになり、僕は寝ている時以外の全ての時間と言えるほど、金魚の糞のように毎日リュウさんについて回り行動を共にした。


昼頃に起きて、どちらかの定宿で落ち合うと、近場のタイ飯食堂や屋台で腹を満たす。午後はカフェ屋に行ったり、リュウさんの定宿のプールサイドでのんびりくつろいだりして二人雑談に終始する。欧米人のように昼間から酒浸りというわけにもいかないので、僕はタイ版の甘ったるいアイスコーヒーを好んで飲むようになった。紅茶とミックスしたような味つけのモノや、ナタデココのような寒天ゼリーが一緒に入っているモノなど、クセはあるが、そのうちハマってしまうような南国特製の飲み物といった感じだった。


街中の移動は専ら歩き主体で、それに一乗り5バーツの乗り合いタクシーソンテウを利用する。僕は長期滞在者の欧米人同様、ソイブアカオ界隈を住みかに節約型の滞在を楽しむように時を過ごした。燦燦と照りつける南国の日差しがようやく傾き、辺りが穏やかな夕焼け色に染まる頃合、決まって日本人長期滞在者たちが集うバービア群に足を向け、通称クッキーバーで安酒を頼む。僕もリュウさんに倣うように苦手なメコンウイスキーを飲むようになった。だが、ソーダ割りだとクセの強さが勝ってしまうのでコーラ割りにし、クセを消すためにライムをつけてもらうのが定番になっていった。


ある週末のこと、リュウさんの友人がバンコクから遊びにパタヤへとやってきた。リュウさんが「ケンちゃん」と呼ぶ彼は、元々バックパッカー上がりで、以前リュウさんと一緒に住んでいたこともあるパタヤ長期滞在の仲間だという。


ケンさんは、日本では大手自動車メーカーに勤めていたが、30歳を過ぎた頃、会社を辞めて、数ヶ月に渡りアジアを放浪した。そして、最後に行き着いた街パタヤでリュウさんと出会ったらしい。それからケンさんは数ヶ月程パタヤに長期滞在していたようだが、金銭的な問題もあり、最終的にはバンコクで仕事を探すことにした。今はバンコクの日系企業で現地採用として働いているようだ。


さすが日本で一流企業に勤めていただけあって、向上心が強いのか、ケンさんは現地採用としての安月給の現状から早く抜け出し、後々駐在員になって高額サラリー(待遇)を手にする日を最終目標としているようで、タイ語の日常会話から読み書きまで、通訳が出来るぐらいのレベルのタイ語を独学で身につけていた。バンコクで働くようになってからも、こうしてリュウさんに会いがてら、仕事が休みの週末に度々パタヤを訪れているようだ。ケンさんは会社の車を自ら運転してパタヤまで来ていた。


僕とリュウさんは、その日、ケンさんが運転する車に乗り込み、北から南までバービア群をのんびり徐行するように流し、ウインドウを開けて顔を覗かせ、バーの女性たちを物色するようにパタヤの夜の街を徘徊した。どうにも偉そうなハイソ階級の遊び方のようでむずがゆい心地だったが、通りをゆっくり走ると、女性たちは面白いように嬌声を上げ車まで駆け寄ってきた。


それからソイ(小通り)を縫うように小一時間程かけてパタヤを一回りした車は、再びパタヤの中心エリアであるソイ10辺りに戻ってきた。運転手のケンさんが通り脇に車を停める。エビスさんともよく通っていたバービア群である。敷地の中央部分がコンクリート剥き出しの屋外スペースになっており、石造りのテーブル席が粗雑に並べられた開放的な空間が僕のお気に入りでもあった。


そういえばリュウさんとシェフに遭遇し、仲良くなったのもここが始まりだったなと、少し前の出来事を懐かしむように目の前のバービア群に目を向ける。車の後部座席に座っていた僕は窓から顔を出し、バービアの屋外席にだらり腰掛けている女性たちに目を凝らす。その中で一際まばゆい存在感を放つ、清楚な雰囲気の女性に僕は目を奪われた。首を傾げるように恥ずかしそうな表情でこちらを窺っている大きな瞳が、ある程度離れた距離からでも分かるほど印象的で、僕の心臓は久方ぶりに不規則なリズムを刻んだ。


それがエルとの出会いだった。


僕が彼女のことを気に入ったらしいと気づいたリュウさんはすぐに手を振り、手招きし、彼女をこちらへと呼び寄せた。彼女はそのエリアのバービアで働いているわけではなく、友達が働いている店に遊びに来ているだけだった。それでもリュウさん通訳による会話は、彼女の核心を迫るずけずけとした問いかけばかりなので、手っ取り早く話が進む。要は「僕が彼女のことを気に入ってるのだが一緒に行けるかどうか?」ということである。しかして彼女は了解してくれ、僕は後部座席の隣に彼女を招き入れた。


エルはバンコクの大学生とのことで年は20歳だった。リュウさんが色々突っ込んで聞いたところによると、家はさほど裕福ではないのか、学費を稼ぐため、週末などパタヤに来ては友達の働く店で客を取ることもあるようだ。


僕は彼女を連れて、リュウさん、ケンさんとバービアを飲み歩いた。つんとして冷めた感じの第一印象だった彼女だったが、すぐに打ち解けると、明け透けに屈託なく笑う、サバサバとした明るい性格だと分かった。英語での片言の会話もさほど問題なく、それまで夜の街で出会ったタイ人女性たちの中で最も話が通じることに僕は嬉しくなった。健康的な小麦色の肌に、誰が見ても美人の部類に入ると言うだろう、すっきり整った清楚な顔立ち。笑顔を絶やさない人懐っこい雰囲気にすっかり参ってしまい、僕は久しぶりの一目惚れにも似た感情に舞い上がっていた。


定宿に戻り、部屋で二人きりになっても、エルは全く変わらず、我が身を僕に委ねてくれるだけで、僕らは一晩限りの恋人のように甘い時間を過ごした。翌日、午後を過ぎてもエルは帰る気配を見せなかった。僕は1,000バーツ札を彼女に手渡し、「実はもう一ヶ月近くタイにいて金に余裕もないので、これぐらいしかあげられないけど。ソーリー…」と謝ると、エルはそのお金を受け取ろうとはせず、「ネバーマイン、昨晩たくさん奢ってもらったから大丈夫。そのお金でご飯でも食べに行きましょ!」とさっぱりした受け答えで僕に告げた。


僕の身なりや風貌はお金があるようには見えないのだろうか。エルは僕にあまりお金を使わせないように気を使ってくれたようで、屋台で簡単な食事を済ませると、定宿で貸し出していたレンタルバイクを一日200バーツ程で借りて、今日はパタヤ観光をしようと僕を誘った。僕はエルが運転するバイクの後ろに跨り、パタヤの丘の上にあるビッグ仏陀(ワット・プラヤイ)やパタヤを一望できるビューポイントへ足を延ばし、ジョムティエンビーチでのんびり午後のひと時を過ごした。


夕暮れ時になり、リュウさんと落ち合うと、エルがまだ一緒にいることを当然のように怪訝に思ったようだ。それにバイクまである。僕は彼女にあげるつもりだった1,000バーツで食事をし、バイクをレンタルして一日を過ごした事実を話したが、リュウさんはそれを聞いて更に眉をひそめた。もちろん、それは旅行者ゆえタイ事情に無知である僕のことを気遣ってくれ、後々金銭を要求されたり、厄介な面倒事が起きないようにするための、彼がタイ長期滞在で身につけた予防策のようなものなのだろう。


納得がいかない様子のリュウさんは、畳み掛けるように次々とタイ語の文句を彼女に投げかけた。エルは困ったような表情を浮かべ、「ネバーマイン、ノープロブレン…」とタイ語風に訛った英単語をリュウさんに向けて羅列していた。エルは僕と時を過ごすことを選んでくれたようで、僕は無性に嬉しくなり、すっかり恋に落ちてしまった思春期の青年のように自分の感情と流れに素直に従うだけだった。


週末が過ぎてもエルはバンコクに帰る気配を見せなかった。エルは恋人のように僕に寄り添い、同居人のように僕の定宿に居ついた。出会ってしばらくは、友達のアパートに着替えに戻っていたが、そのうち部屋のクローゼットは彼女の衣服で埋まり、いつしか僕のTシャツまで着たりするようになった。彼女は一度として僕に金銭的な要求をしてくることはなかったし、何一つ強請ってくることはなかった。食事も屋台や市場で安く済ませることが多かった。それに彼女が奮発して奢ってくれることさえあった。


出会ってから数日ずっと僕に寄り添うようにくっついている彼女に対し、リュウさんの猜疑心は当然のように膨らみ、すぐに詮索へと形を変えた。思ったことを遠慮なく誰にでもはっきり物言う性分なのか、はたまた、タイに長年住み続けたことでそうなってしまったのか、リュウさんが間に入ると、エルの実態が徐々に浮かび上がってくるようになった。


実はエルには欧米人の上客(常客)が一人いて、定期的に送金をしてもらっていると彼女は白状した。出会った日に彼女が言っていた、友達の店に遊びに来ていただけというのは本当のことだった。彼女は別に働く必要などなかったのだ。いや、彼女に仕送りしているその欧米人からすれば、店に出て客を取るなど言語道断といったところだろう。僕はエルの現実を知ることになり、言いようもない敗北感と嫉妬心に駆られたが、僕の現実は彼女に何もしてあげられない惨めなものだった。


それは僕が初めて恋に落ちたタイ人女性ジョイに溺れていた時にも直面したのと同様の問題だった。それはどこまでタイ人女性に対し、本気になれるのかということだった。特に夜の街で出会う女性たちの現実はシビアなもので、結局もの言うのは資金力であった。自分の足元すらおぼつかない僕にとって、彼女と恋をするなど到底無謀な話で、いつかは破滅を迎えるか、厄介事に巻き込まれることになるのは容易に予想できた。


だから僕は彼女に何も言うことが出来なかった。エルは「欧米人の彼はカスタマー(客)で、あなたのことは好きだから一緒にいるんだ…」とだけ切なそうに告げた。僕は男として情けない自分の立場を恨めしく思い、そんな自分に辟易し、それでも目の前の今日という現実を貪るようにエルとの甘いひと時を過ごした。


それから数週間という時が瞬く間に過ぎ去り、いよいよ日本帰国の日を迎えることになった。


僕は自分のためにも、そして、エルとの将来のためにも、本格的にタイに移住して、リュウさんと何か一緒にビジネスをやって一旗あげるんだという決意に満ち溢れていた。


2002年の12月半ば、僕はリュウさんと一緒に日本へ帰国した。ドンムアン空港からエアインディアの深夜便に乗り込む。機内の座席は窓際が好きな僕と通路側が好きなリュウさんで、うまい具合に意見が分かれたため、3人席の真ん中を空けてリクエストした。しかし最悪なことに、機内に乗り込みしばらくすると、その真ん中席にすっぽりインド人客が収まるように座ってきた。


それは日本在住だという怪しい風貌のインド人おっさんで、親日家の彼はカタコトの日本語で延々と我々に話しかけてくるのだった。それに何より鼻を強烈に刺激する体臭がきつくて長く耐えられそうもない。機内食を食べ終えたところで、僕は窓外へと視線を移し、寝たふりをしてごまかすことにしたが、そのうち本当に寝てしまった。


深夜遅くに暗がりの機内の中、ふと目を覚ますと、いつの間にか隣にいたインド人親父は空いている席に移動したようだった。


ふと窓外に目をやり空模様を確かめる。漆黒の空一面を照らすように光り輝くおびただしい数の星たちに目を奪われた。知っている星座を見つけるようにぼんやり眺めていると、その光の粒の中から斜めに走る一筋の光線が現れた。更にじっくり目を凝らすと、いつしか四方八方から流れ星がシャワーのようにそこかしこに降り注いでいた。


「ワオ!」と僕は一人呟くように驚嘆し、窓外の流星群をうっとり眺め続けた。これから始まるタイ移住に思いを馳せ、願いを込めた。誰かと共有したい気持ちになり、リュウさんを起こそうかと思ったが熟睡していたので止めた。周囲の乗客たちも皆ブラインドを下ろし、深い眠りの中にいるようだ。


秘密を知っている仲間を探すようにキョロキョロと辺りを見回していると、そんな僕の様子を不審に思ったのか、暗がりの背後からスチュワーデスが現れた。僕は言い訳するように窓を指差し、「シューティングスター、ビューティフル」と彼女に囁くように告げた。


スチュワーデスは当然その事実を知っていたかのように、こくりと頷き、柔和な笑顔で微笑んだ。

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