11. 無自覚って恐ろしい
服を着替えると、キッチンへ向かった。
真衣はダイニングの食卓からキッチンのカウンターに身を乗り出すようにして、作業している崇さんを眺めている。
邪魔しないように、と真衣に目線で釘をさしてから、崇さんに声をかけた。
「お待たせしました」
「おう」
崇さんは先に調理に取りかかっていたようで、何かを湯がいている。鍋を覗くと、大根のようだ。
崇さんはその一つに竹串を差すと、火を止め、ザルにあげて水に浸けた。
「で、考えたんだけど」
崇さんは作業が一段落すると、こちらを向いた。
「2週間で色々と教えても身につかないだろうし、味噌汁と卵焼きを毎回作ってもらおうかと思うんだ」
「この前、崇さんが作ったものですよね」
「おう。いつも同じもの食べることになって申し訳ないんだが」
「いえ、気にしないでください。私も毎回違うもの作っても、一人で作れる気がしませんし」
一昨日、味噌汁は崇さんに教わりながら作ったわけだけど、一人で味噌汁を作れるようになったかというと、激しく不安だ。
たぶん、きっと、いや絶対に無理だと思う。
「ん。それじゃ、この前と同じで出汁からな」
「はい」
私は崇さんが出してくれていた鍋に出汁パックと水を入れて、火にかけた。沸騰したところで中火にして、タイマーをセットする。
「わかめを水に浸けて、戻してくれ」
「えーと、このくらいですか?」
崇さんに渡されたわかめの袋から、掴めるだけ掴んで見せた。
「多い。戻すと増えるから少しでいい」
わかめを袋に戻し、ほんの少しだけ掴む。
「そう、そのくらい」
崇さんにOKしてもらったわかめをボールに入れて、水を注いだ。
「これは5分くらい放置してたらいいから。次にじゃがいもの皮をむいて、切る」
「は、はい」
渡されたじゃがいもとピーラーにドキドキする。
まずはじゃがいもを洗ってから、ピーラーを使う。洗っても少し残る土が滑るのか、扱いづらい。
「あっ」
勢い余ってじゃがいもを掴む左手の指を切りそうになった。ほんの数ミリでも上を掴んでいたらアウトだった。
じゃがいも、怖い。いや、ピーラーが怖いのか。
「なんか危なっかしいな。手を切らないでくれよ」
「うう……がんばります」
切らないとは言えない。言えないけど、指の位置を気を付けて、慎重にピーラーを扱い、なんとか手を切ることなく皮をむき終えた。
崇さんに教わりながら芽も取る。
私、やればできる。
すでに大仕事をやり遂げたような気分になりながら、次の作業に移ろうとして、手が止まった。
「あの、どう切ったらいいですか」
「切り方は好みでいいんだが、オレは縦に2等分してから、それを7ミリ幅に切っている。カレーのときみたいな大きな塊に切るより、火が通りやすいんだ」
「なるほど」
崇さんが一つを見本で切ってくれて、私もその通りに切ろうとしたところでタイマーが鳴った。
出汁パックを取り出し、火を止める。
わかめもザルにあげておく。
作業はじゃがいもに戻り、再び切ろうとしたところで、今度は崇さんに止められた。
「手が危ない。今度こそ指を切るぞ。こうやって猫の手みたいに指を丸めて」
崇さんが私の右側から手を伸ばして、私の左手に手を重ねた。
えっ。
私は突然の接触に驚き、声も出ない。
崇さんの指が私の指を曲げて、猫の手にして見せる。
体の右半分が崇さんにくっついていて、手どころではない。近い。近すぎる。
「茜、わかったか」
崇さんから伝わる熱やたばこの香りに、心臓が飛び出しそうだった。
息づかいを感じる。
耳元で崇さんの声がする。
私は慌てて首を上下に振った。
「よし、やってみろ」
「あ、あの、崇さん」
崇さんが手を離したけど、肩が触れ合うほどそばに立ったままで、緊張して、じゃがいもを切るどころではない。
唾が減って、喉にはり付くような声で呼びかけながら、横に立つ崇さんを見た。
崇さんも私を見て、顔の近さにお互いが驚く。
崇さんは自分のしていることにようやく気づいたのか、「あ、悪い!」と言って、私からパッと離れた。
「い、いえ……」
崇さんをちらっと見ると、耳が赤くなっている。
私まで一層恥ずかしくなる。
崇さんとは出会ったばかりだし、好きとかそういうことではない。でも、異性の友だちなんていないので、男の人とこんなに近くにいるのは初めてなんだ。意識しないということは無理だった。
私はふと思い出して、顔を上げた。
真衣はこちらを見ておらず、リビングのソファに座って何かテレビ番組を見ているようだった。
真衣に見られていたら、変な誤解をされたかもしれないと思ったので、見ていないようで安心した。
改めて、じゃがいもを切ることに集中する。
崇さんの視線は気になるけど、雑念は頭から追い出す。
幸いと言っていいのか、初めて扱う包丁の怖さはどこかへ吹き飛んでいった。
手が震えないように力をこめて、じゃがいもを切っていく。すべてのじゃがいもを切ることが出来た。
はあーと長い息をはく。
無意識のうちに肩に力が入っていたようで、ようやく肩を下げた。
「切ったじゃがいもは水にさらす。こうすることで灰汁が取れて変色しないのと、余計なでんぷんを流せる」
私は言われた通りにした。
「で、終わったら玉ねぎのスライスだ。縦に半分に切って、玉ねぎの先の茶色くなった部分とお尻の芯を落として、縦に薄く切ってくれ」
「薄く……」
私にできるだろうか。
「スライサーに頼るって手もあるが、それだと逆に薄くなりすぎる。火を通すから多少は厚くてもいいし、頑張れ」
「……はーい」
切る前から難しそうで泣きたい。それでもやるしかない、と切っていると……あ、あれ?
悲しいわけじゃないのに、本当に涙が出てきた。
「あーあ、涙が出やすい玉ねぎだったのかな」
崇さんがズボンのポケットから取り出したハンカチで拭いてくれた。
ハンカチを持ち歩いているとは、やはりこの人、ヤンキーではないな。
言動は荒いのに、行動はそこらの女子より細やかだ。
「涙が出やすいものなんてあるんですか」
「いや、わからないが、玉ねぎ1個切るだけで涙が出るときと出ないときがある。鮮度の問題なのかな。スライスくらいなら、さっさとやれば大丈夫なんだがな」
「それって私がモタモタしてるせいってことじゃないですか」
ボロボロと泣けてくる。泣いていると、悲しいと錯覚するような気持ちになるから不思議だ。
「わ、悪い。なんだったら向こうで鼻をかんでこい。残りは切っておくから」
それって練習にならないのでは?
と思ったけども、どうにも止まらないので甘えることにした。
「うう、お願いします」
その場を離れてリビングに行くと、真衣がにやにやと笑いながら、大げさに驚いたような振りをした。
「茜ってば、アイツに泣かされたの?」
「見てたでしょ」
この顔は絶対にそうだ。さっきのじゃがいもは見てなかったようだけど、玉ねぎを切るところはここから眺めていたんだろう。
私は真衣をひと睨みすると、キッチンに背を向けて、音を立てないように気をつけながら鼻をかんだ。
この際、真衣や崇さんの前で恥ずかしいなんて言っていられない。
目もティッシュで拭って、ようやく少しスッキリする。
「私、顔を洗ってくるね」
「うん、そうしな」
ヒラヒラと手を振る真衣に背を向け洗面所へ行くと、冷たい水で顔を洗った。
目を冷やすならお湯よりも水でと思ったのだけど、真冬に水は冷たすぎたかもしれない。手がかじかみ、指先が赤くなった。
でも、冷たさですっかりと目が冴えて、泣いて重たくなった瞼が軽くなった。
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