第二話:バスケ部の危機

 中間テストが終わって初めての体育の授業で、佑太は久しぶりの運動を楽しんでいた。少しなまっていた体を伝う爽やかな汗が何とも言えず心地いい。

 幸いなことに四人とも、運動神経には恵まれていた。だから、「あの時間は苦痛でしかなかった」と述懐する大人も多い体育の授業も、佑太たちにとっては幼い頃からずっと快適で歓迎すべき時間であった。

 高校に進学してからもそれは変わらなかった。種目選択で四人は揃ってサッカーを選択し、複数クラス混合で行われる授業の中で、佑太たちは持ち前の運動神経を遺憾無く発揮して脚光を浴びていた。


「ふう」

 佑太は軽く一息つきながらグラウンド脇のベンチに腰を下ろした。他の三人はちょうど次の試合に出ることになっていたから、一人気楽にそれを観戦しようと思っていた。

 ピーッというホイッスルの音とともに試合が始まった。部活に入っている生徒はその種目を選択できないことになっているため、ピッチ上には現役サッカー部員は存在しない。必然、試合のクオリティーはお粗末なもので、一見の価値ありとは到底言えないような内容だが、友人が出ているのであれば話は別だ。身内の人間が出場するスポーツの試合は、そのレベルを問わずこの上ないキラーコンテンツだ。佑太も例に漏れず、親友三人が共演するその試合を面白おかしく眺めていた。

「となり、空いてますか?」

 不意に後ろから自分の右肩に手がちょこんと乗っかった。佑太は「ん?」という声とともにその手の持ち主を振り返った。

「やほ」

 未央だった。さっきまで肩の上に置いていた手をパーに開き、柔和な笑みを浮かべながらちょこちょこと小さく手を振っている。

「となり失礼します」

 未央はこちらの様子に構うことなくベンチに腰を下ろした。先ほどの問いかけには最初からこちらの答えは必要とされていなかったようだ。

「サッカー、難しいね」

 未央の言葉を無視する訳にもいかず、佑太はやむなく言葉を返した。

「鈴村もサッカー選んでたんだ」

「そうだよ、見覚えなかった?」

「ごめん、全然ないや」

「あー、ひどいなあ。そういう私も大石くんのこと今日初めて気付いたんだけどね」

「なんだ、お互い様じゃん」

 未央は「あはは」と声を出して笑った。その後、下唇を噛みながらこちらの顔を覗き込み、続けた。

「この前は急にごめんね」

「ん、ああ別に良いって」

「で、どうかな。バスケ部に入る意志はかたまった?」

「いや、なんでそうなるのさ」

 佑太は未央の強引な誘導に思わず苦笑いを浮かべた。

「バスケはもうやらないって、はっきり言ったじゃん」

「えー……困るよそれじゃあ」

「それはこっちのセリフだよ」

「大石くんがいないと、全国は正直厳しいんだよね。今年は絶対に全国に行かなきゃならないのに」

 未央は眉根を寄せて困った表情を見せる。

「……なくなっちゃうんだっけ?」

「えっ」

 未央が驚いたような声を出した。

 当人の佑太自身も、自分の発言に驚いていた。無意識に、言葉が口をついて出ていた。

「知ってたんだ?」

「……うん、一応ね。まあ詳しいところまでは知らないけど」

「そうなの。今年全国に行けないと、うちの男子バスケ部は廃部になっちゃうんだ」

 未央は正面に向き直り、どことなく憂いを含んだような声で話し始めた。

「長く続いてた成績不振とかを理由に五年前に理事会で決定されたのが、『男子バスケットボール部はここから五年以内に全国大会に出場出来なければ廃部とする』っていう規定なんだ」

 佑太は未央の言葉にじっと耳を傾けた。

「全国に出るってことは神奈川県大会で優勝するってこと。でも明成高校は、その理事会での決定前の直近十年間で県ベスト16が最高の成績だったの。それを五年で全国までなんて、明らかに高いハードルだよ。神奈川は全国的にも激戦区だしね」

「そっか。でも、じゃあなんでこの明成高校を選んだのさ。そんなに事情に詳しいくらいだから、事前に知らなかったわけじゃないんでしょ? なくなっちゃう可能性が高いんだったら他の高校を選んだ方が良かったと思うけど」

「実は、私のパパが男子バスケ部の監督をやってるの。パパは三十年前の明成高校黄金時代のエースで、大学を卒業してからずっとこの高校でバスケを教えてる。明成高校バスケ部は、パパにとって二つと無い宝物なんだ」

 佑太は未央の言葉に聞き入っていた。既に、グラウンド上で繰り広げられるサッカーの試合のことはすっかり頭の中から消え去っていた。

「だから私は、パパの宝物であるバスケ部を絶対に守りたい、そのためだったら何でもしよう、そう思って明成高校を選んだの。チャンスはもう今年しか残されてないけど、少しでも可能性が残されている以上諦めたくはないから」

「なるほど、そういう事情があったのか」

「ごめん、なんか暑苦しい話しちゃったね」

「いや、全然。良い話じゃん。……で、実際どうなの? ラストチャンスものに出来そう?」

「さっきの言葉が、そのまんまの本音だよ。今のままじゃ到底無理かな。去年もベスト32どまりで全然かすりもしなかったしね」

 未央は「はあ」とため息をついた。

「二年前は大躍進で決勝まで行って、あと一歩だったんだけどね」

 ため息に続けて、そうぽろりと零すように言った。

「……景山かげやまさんでしょ?」

 どうしてその名前を出そうと思ったのか、佑太は自分でも分からなかった。先程のバスケ部の廃部危機のくだりと言い、通常であればさらりと受け流して決して踏み込もうとはしない話題だ。

 しかし不思議と、話を前に進める言葉を自然と口にしてしまっていた。どこまでも真っ直ぐに、無邪気に自分と向き合ってくる未央に、知らない内に心を少しずつ開かされてしまっているのだろうか。

 その佑太の言葉に、未央は目をそれまでより少しだけ大きく見開いて「そう、景山さん……」とだけ言葉を返した。言ってしまった手前、会話を打ち切るわけにもいかず佑太は続けた。

「びっくりした顔しなくたって、景山さんのことなら俺たちの世代でバスケやってた奴なら誰だって知ってるよ。高校生の中でもトップクラスの選手だったんだし。そんな人がなんでこの明成高校を選んだかは誰も知らない謎だったけどね」

 そう言うと、佑太は俯き気味に視線を落とし、サッカーコートのサイドラインを意味もなくじっと見つめた。未央も下唇を甘く噛み、取り立てて意志の見えない目でサッカーコートを見つめていた。しばらく沈黙のベールが、ベンチに座る二人を緩やかに包んだ。

「……景山さんの活躍もあって、絶対王者の海常かいじょう高校をあと一歩のところまで追い込んだんだけどね」

 未央がゆっくりとした口調で沈黙を破る。

「その景山さんが卒業しちゃったチームで、全国を狙うのは、やっぱりめちゃくちゃ厳しい。だからお願い、大石くんの力を貸して欲しいの」

 佑太は前屈みの姿勢をやめ、少しのけ反りながら視線を上げて空を見上げた。そのまましばらくじっと空を見据えた後、口を開いた。

「俺をそこまで勧誘してくれる理由は良くわかったよ。でも、やっぱり俺の気持ちは変わらない。バスケはもうやめる。それは決めたことだから」

「そっか……分かったよ」

「ごめんね」

「ううん、むしろ私の方がごめん」

 ちょうどそのとき、グラウンドからピーッというホイッスルの音が聞こえてきた。試合が終わったようだ。視線をピッチ上に戻すと、額に汗を浮かべた三人がにやついた表情でこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。

「ごめん、お邪魔だったかな?」

 近くまで来るやいなや、章人が開口一番そう切り出す。

「全然そんなんじゃないから」

 佑太は半笑いで否定する。

「ほんとかねえ。そうだそうだ」

 章人はすぐさま未央の方に顔を向けた。

「はじめまして鈴村さん、仲本章人って言います。佑太と同じ一年六組」

「えっ、私のこと知ってたの?」

「そりゃそうだよ。美女マネージャーって言われてて有名だもん」

 いつになく陽気な光太郎が章人に続いた。

「そんな、全然わたしなんか……」

「うわ、めっちゃ謙虚。ちなみに俺の名前は小野光太郎。よろしく」

「小野くんと仲本くんね、よろしく。えっと……」

 そう言って未央は左端にいる慶太の方に目をやった。

「俺は溝口慶太。よろしくな美女マネージャー」

「もう、だから違うって。嫌だなあみんなして」

 未央は眉根を寄せて頬を膨らましてみせる。漫画のようにベタな表情ではあるが、未央のそれは板に付いていた。

「でも友達できて嬉しいな。他のクラスの友達全然まだできてなかったんだよね」

「お、もう友達だってよ俺たち。やったね」

 光太郎が呑気に嬉しそうな声を出す。

「相変わらずお前は分かりやすい奴だな」

「慶太だって言ってたじゃん、鈴村可愛いよなって」

「ばか、うるせえよ」

 慶太が光太郎の頭を小突くと、どっとその場が笑いに包まれた。

 サッカーの試合はもう残り一試合で、既に授業は終わったようなものだった。そのまま佑太たちは、未央を囲むかたちでベンチで話し込んだ。いつも男子四人でつるんでいたからそれは少し特殊な状況ではあったが、未央は自然とこちらの輪に馴染んでいた。

 男子陣の軽妙なやり取りに「はははっ」と手を叩いて笑う未央は、その場に華を添えてくれているようだった。俄然、男子陣の口も滑らかに回り始める。梅雨どきの六月ながらも晴れ渡った青空の下、どこまでも透き通った清涼な時間が流れていった。



「ではまずは野球部から、報告をお願いしよう」

 理事長の岩澤いわさわが、そう切り出した。バスケ部監督の鈴村晋すすむは、目の前に置かれた紙面に目を通す。

 三ヶ月に一度、定例で組まれる理事会への部活動報告の時間。私立校である明成高校は、誠浜せいひん学園という学校法人が経営母体となっている。誠浜学園は明成高校を始め、いくつかの学校を傘下に納め経営している。その誠浜学園グループの経営をトップとして取り仕切るのが、理事長である岩澤だ。

「はい。野球部ですが、直近の練習試合でも強豪校への勝ちが続いており、夏に向けて順調な調整を続けられております」

 野球部監督の前田まえだがはきはきとした声で報告する。その後も明るい内容が続いた。

「なかなか調子良さそうじゃないか。夏は期待できそうだね」

 岩澤が前田に視線を送る。

「はい、ぜひ期待いただければと思います」

「分かった。じゃあ次はサッカー部、お願いできるかな」

 サッカー部、陸上部と報告の順番が移っていく。両部とも、比較的和やかなムードでのやり取りに終始した。

「では、バスケットボール部」

 鈴村の元にバトンが渡って来た。それまでのムードから一転、場はピリッとした緊張感に包まれたような気がした。

「ええ、バスケットボール部ですが、夏のインターハイ予選に関しては正直なところ上位進出は難しいかと予想しており、現実的にはベスト8への進出を目標に掲げております」

「ほう」

 岩澤がじろりと鈴村を睨んだ。

「いやあ、困るねえそれじゃあ。君は自分が置かれている立場が分かっているのか?」

「はい、それは重々」

「私は五年間の猶予を与えたのだよ。それももう今年で最後、チャンスは夏のインターハイと冬のウィンターカップの二回だけだ。それなのに、目標はベスト8など呑気なことを言っている神経が理解できないね」

 鈴村はぎゅっと奥歯を噛み締めた。怒りと悔しさが胸にせり上げてくるが、言い返せるような明るい材料を鈴村は持ち合わせていなかった。

「仮に夏で目標のベスト8に到達したとして、その後冬には優勝まで持っていく算段はあるのかね?」

「はい、全体の底上げをし……」

 はいと言いながらもうまく言葉が続かない。結局、要領を得ない回答に終始してしまった。

「いやあ、無様な有様だな。分かった、もう良い。じゃあ次はバレー部」

 岩澤は鈴村から目線を切り、手元の紙面を覗き込んだ。

 勝手な決まりを作ったのはお前だろう。

 鈴村は腸が煮えくり返る思いだった。今にでも目の前の机を叩いて退室したい衝動を抑えるのに必死だった。

 何とかして、チームを強くしなければ……

 焦りと憤りが混ざり合った衝動が、ぐつぐつと体の中で沸き立つ。

 でも、一体どうすれば……

 目の前に待ち受ける長い道には、光は全く差し込んではいなかった。

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