03:悲しい事実
四月上旬。うららかな春の昼下がり。
高校の入学式を五日後に控えた美緒は、とある神社にいた。
手水舎の柄杓を右手で取り、水を汲んで左手にかける。
水は想像以上に冷たく、左手にかけた瞬間「ひえ」と奇声が漏れた。
それほど大きな声ではなかったのに、聞こえたのか、あるいはただの偶然なのか、境内にいた金髪の少年がこちらを見てきた。
貫くような、不躾なほどにまっすぐな視線を受けて、美緒は胃が縮まる思いがした。
(聞かれたかも。恥ずかしい。いえ、だって、冷たかったんです。氷水みたいで)
内心で言い訳しながら、表面上はさも何事もなかったようなふりを貫き、柄杓を左手に持ち替え、右手を洗って再び持ち替える。
(えーと、次は、口をすすぐんだっけ)
祖母から教わった作法を思い出しながら、左手を軽く折り曲げて受け皿にし、柄杓で水をかけ、その水で口をすすぐ。
左手に水をかけ、柄杓の柄を伝うように水を流し、柄杓を元通りに戻す。
その頃には少年はいなくなっていた。
境内にたむろしている中年女性たちも、会話に夢中でこちらを見ていない。
なんとなくほっとしながら、美緒は石畳の参道を歩き、拝殿の前に立った。
軽くお辞儀をし、財布から五円玉を取り出して賽銭箱に入れ、鈴緒を掴んで鳴らす。
二礼二拍一礼した後、そのまま頭を下げて言った。
「二丁目に引っ越してきました、芳谷美緒です。よろしくお願いします。念願の
唱えてから、立派な拝殿を見上げ――美緒は肩を落とした。
(……お願いしたって意味がないんだろうな。これまで何回もお願いしてきたのにだめだったもの。おまけにわたしは村から遠く離れた場所に引っ越したし。もし銀太くんの気が向いて会いに来てくれたとしても、わたしがここにいるなんてわかんないよねぇ……)
拝殿に会釈してから踵を返す。
社務所の近くに植えてある桜の木が花びらを散らす様を見て、美緒は目を細め、立ち止まった。
――いつかきっと、会いに行くよ。美緒に会いに。
蘇るのは、桜の木の前で交わした幼い約束。
銀太から何の音沙汰もないまま季節は巡り、美緒は高校生になる。
高校進学に伴っての引っ越しを終え、近所の地理を覚えるべく散歩していたときに、たまたま見つけたのがこの神社だ。
引っ越したらその土地の神さまに挨拶なさい、とは、祖母の弁。
――近所の人々に引っ越しの挨拶をするように、神さまにも挨拶をしておくの。もしかしたら、いいことがあるかもしれないでしょう? 少なくとも罰は当たらないんだから、きちんと挨拶しておくに越したことはないわ。
この神社は規模としてはそれほど大きくないが、境内は美しく保たれていた。
目立つような雑草もなく、心なしか空気も清らかに感じる。
風に乗って運ばれてきた薄紅の花びらが、目の前を横切り、誘うようだ。
吸い寄せられるように桜の前に立ち、満開の花を見上げる。と。
「芳谷美緒?」
突然、名前を呼ばれた。
びっくりして振り返ると、晴れた青空の下、金髪の少年が立っていた。
さきほど自分を見ていた少年だ。
改めてきちんと見れば、思わず呼吸を忘れるほどに美しい少年だった。
金髪だと思っていたが、それは陽の光によるもので、本当は淡い茶色らしい。
切れ長の金色の瞳は強い意志を秘め、美緒を射抜いている。
服装はフード付きのパーカーとジャケットにデニムのスラックス。
良く似合っているが、彼ならば何を着ても似合うだろう。
(誰だろう?)
即座に知り合いの名前を脳内に列挙してみたが、該当するような人物はいない。
これほどの美形、よほどのことがない限り忘れないと思うのだが。
「はい、そうですけど……あなたは?」
少年はようやく当たりを引いた、とでもいうように、軽く顎を引いた。
「
表情を動かさずに朝陽は言った。
「えっ?」
美緒は目を丸くして、拝殿を見た。
これぞ神の御導きとでもいうべきか。
まさか願って一分と経たずに銀太に繋がる人物に会えるとは。
「えっ、じゃあ――」
あなたも狐なんですかと聞きかけて止めた。無意味な質問だ。
狐の兄が人間であるわけがない。
朝陽は狐の耳も尻尾も隠し、上手に人に化けているのだろう。
「じゃあ?」
朝陽が促してきた。
「あ、いえ。初めまして、朝陽さん」
どぎまぎしながら会釈する一方で、急速に鼓動は早まっていた。
美緒はもう七年も銀太を待った。
今日は会いに来てくれるだろうか――期待しては裏切られ、ため息をついたこれまでの日々を思う。
もしも銀太に会えたらどれだけ待たせるんだと怒ってやろうと思っていた。
つんと顎を反らして、剥れてみせようと。
でも、いざその機会を得てみれば、そんなことは頭から吹き飛んだ。
また会える、その喜びと期待で胸がいっぱいだ。
「銀太くんにはお世話になりました。もう七年も前のことになりますけど……銀太くんはいまどうしてるんですか?」
逸る気持ちを抑えて、朝陽に歩み寄る。
銀太が笑ったときに覗く八重歯が見たい。
あの優しい笑顔をもう一度――
「銀太は一年前に死んだ」
「…………え」
端的に告げられた言葉は、思考の全てを奪った。
神社で立ち話もなんだから場所を移そう、と言って、朝陽が美緒を誘ったのは市の外れにある大きな市民公園だった。
春休みのこの時期、園内は多くの花見客や家族連れで賑わっている。
タコの形の滑り台やブランコ、ジャングルジムがある遊具スペースは子どもたちの楽しげな笑い声に満ちていたが、朝陽は人ごみを避け、静かな林間の広場のベンチに腰を下ろした。
「銀太は生まれつき身体が弱かったんだ。喘息体質で、ちょっとしたことですぐに発作を起こすし、心臓も悪かった」
「……あ」
夏祭りの夜、巨漢のあやかしに肩を掴まれそうになったとき、銀太は胸を押さえていた。
顔色が青白く見えたのは、恐怖のせいではなく、心臓の発作のせいだったのだろうか。
(……気づかなかった)
美緒は唇を噛んだ。
出会ったとき、カラスに一方的にやられていたのも、身体の弱い銀太には抵抗するほどの力がなかったのだ。
「一年前の冬に風邪をこじらせて、そのまま……。色々と手を尽くしたけど、駄目だった」
朝陽は淡々と語ったが、目の前の芝生を眺める瞳にはありありと悲しみが浮かんでいる。
銀太と同じ金色の瞳だ。
銀太も彼のような美しい少年に成長したことだろう。
生きてさえいれば。
「……そうですか。残念です……本当に」
美緒は肩を落とした。
七年経ってもたされたのが訃報なんて、あまりにも悲しくて、衝撃で、他に何を言えばいいのかわからない。
「……生きてるうちに、会いたかったです」
呟くように言って、茶色のコートを握る。
「『断ち物』って知ってるか?」
「? いえ」
唐突とも思える言葉に、美緒は戸惑った。
「より強く願掛けために好きなものを絶つことだ。銀太の場合はそれが君だった。縁日の後、銀太は無理が祟ってしばらく寝込んだ。ようやく起き上がれるようになった頃、あいつ、身体が丈夫になるまでは美緒に会いに行かないって言ったんだよ。おれも賛成した。身体がよくなってから、ゆっくり会いに行けばいいって」
朝陽は感情を交えずに話す。
「稀に調子がいい日もあって、君に会いに行こうとしたこともあったんだけど、おれが止めた。ほとんど寝たきりの状態なのに、無理をして倒れるのが心配だったから……でも、いま考えてみれば、背負ってでも連れていってやれば良かった。おれが反対したせいで再会する機会を永遠に失わせてしまった。銀太は本当に君に会いたがっていたのに。君にも銀太にも、悪いことをした」
朝陽は詫びるように頭を下げ、そこで初めて表情を動かした。
悔しげな、辛そうな顔。
己の選択を後悔している者の顔だった。
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