かつて名前のあった私たち

私はよく行きずりの人と話をする。小さい頃から、見知らぬ人に話しかけられることが多かったが、一度も危険な目にあったことはない。映画でいうと、その他大勢のような人にもきちんと名前があって、人生や、価値観、悩み事、譲れないもの、それぞれ度合いは違いぞ存在しているのだ。名もないような、一人その場に取り残されたような人間と話をするのが好きだ。そして、私は話しかけてきた人を無視したりしない。変なもの売りつけてきたり、明らかにナンパが目的の輩は断るが。

今日、車を修理中に立ち寄ったファーストフードのお店で、明らかにホームレスらしい女の人に話しかけられた。白人の、結構太った、目の青い女だった。失礼にも、私をいかがわしい場所で働くマッサージ嬢かと聞いてきた。普通の人間なら、無視するか、怒って通り過ぎると思うが、私はいつもこういうきっかけで、しゃべりたくなるのだ。それはきっと、私が物を書くのが好きで、物語の中には数々の人生が存在して、その人生を書くにあたって、一人でも多くの人のドラマや、感情、悩み事なんかを知りたいという欲求からだろうと思う。いくら想像力豊かだったとしても、書いたときにそれを経験していなかったり、話を聞いていなかったりしたら、その文章は薄っぺらいものになってしまう。実経験や追体験があってからこそ、その物語はフィクションにしろ現実味を帯びていく。

私は、その女に話しかけられた時、すごくトイレに行きたかったので、やんわりと話を中断させて、トイレに行った。そして戻ってくると、私の食べ物が出来上がっていたので、それを食べた。女は独り言をぶつぶつと呟き、入ってくる客みんなに話しかけていた。そうしているうちに、店の人が、彼女に出ていくように促している。彼女が何時間そこにいたのかは私は知らない。女は粘ってそこに居続ける気らしい。動く気配もない。そうこうしているうちに、ここはホームレスのたまり場なのか、何人ものホームレスが入ってきて、一番安いハンバーガーを買い、ごみ箱からソーダの入れ物を拾い上げ、アメリカではソーダはお替り自由だから、ソーダマシンからソーダを注ぎ、我が物顔で飲んでいた。みんな一人だ。そういうホームレスたちは、みんな長居しない。さっさと食べて、ソーダを継ぎ足して、トイレに行って、出ていく。

女のほうを見ると、今度は、違う店員が出ていくように伝えているところだった。私は女に数ドル渡して話しかけてみた。

「あなた、名前はなんていうの?」

「スザンナよ。こんな事しなくていいのに。あなた名前は?」

「まみすけ。あなた、私の義母に似てて、どうしても無視できなくて。彼女二年前に亡くなったの。」

「マイケル・ジャクソンが死んだ年?」

「たぶんそうだったと思う。」

「私の母もその年に死んだの。」

「あなた、家族は?」

「娘がこの辺に住んでいるんだけどね。いい弁護士知らない?住むところがないし、福祉オフィスに行ってみたんだけど、たらいまわしで、何をしたらいいかわからない。」

「私、弁護士は知らないんだけど、知り合いが三年間ホームレスで、低所得者用の物件にアプライし続けていたら、運よく今は月200ドルでいい場所に住めているから、あなたも根気よくアプライし続けるべきだと思うよ。」

「そうか。ありがとう。」

私の住んでいる場所は、メキシコ人や、南米からの移民が多い。それなのに、道端にあふれているホームレスは白人の割合が多い。なんでだろう?それを感じた数年前から自分なりに考えてみた。

有色人種は白人に比べて、家族の情というものが深い気がする。家族が路頭に迷うことがあれば、迎い入れるだろう。しかし白人は、自分で路頭に迷ったことを伝えたりする人間が少ないように感じるし、自分は自分、相手は相手、という風潮が強い。プライドが高い人が多く、福祉の世話になるなんて嫌だという人も多い。私の高校時代の友達は、韓国から養女として白人の両親のもとにアダプトされた。その後、大学も出させてもらい、彼女は運命の人と出会って婚約していたのだけれど、その彼が彼女のお金を持ち逃げして姿をくらませた。彼女は路頭に迷い、両親に頼んで実家に戻ってみようとしたのだけれど、もう成人しているのだから自分でどうにかしなさい、という冷たい答えが返ってきた。どうしようもなく、彼女は何か月かの間ホームレスで、そこから這い上がれたのだから、運がよかったのかもしれない。今は結婚して、普通の暮らしをしているようで、両親とも普通に仲が良い。そこから這い上がれるか、それとも、どんどん落ちこぼれていくか、だ。ホームレスの時間が長ければ長いほど、そこにとどまってしまう確率は多くなる。私がまだ貧乏のどん底で、精神的に病んでいたころ、黒人の青年ホームレスをよく見かけた。彼はいつも松葉杖を使い、片足に障害があるようだった。その青年を私はずっと見ていた。ある時から、彼の片足がなくなった。きっと、切断したのだろう。まあまあ元気のよかったその青年が、ある辺りから、店の前に座り前後に揺れている状態になった。私は、彼の名前を知らない。だけど、私が車もなかった頃から、今までずっと見かけているので、他人のような気がしない。もしも私が、精神的に立ち上がることができなくて、路頭に迷っていたら、その青年のようになっていたかもしれないからだ。

かつて、当たり前のように自分の名前を呼ばれていた人間たちは、ある時点から自分の名前を呼ばれなくなって、そこに存在なんてしないもののように扱われ、生きているのだ。

この世に生を受けたことがよかったにしろ悪かったにしろ、そこには一瞬でも確かに喜びとか、やさしさが存在して、誰かがつけてくれた名前を呼ばれなくなった瞬間、人間は生きる本当の意味を失ってしまい、諦めてしまうのかもしれない。

だから、もしあなたが誰かに話しかけられたりしたら、あるいは、話しかけるのだとしたら、名前を聞いてほしい。きっとそこから光とは言わないまでも、小さな粒が飛んで、徐々に明るさが差し込むと思うから。

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